第134話:世界で一番美しい賢者
【舞台:古本屋『VOID』二階 ―― 挙式一時間前】
エルムの街の空は、雲一つないコバルトブルーに塗り潰されていた。古本屋『VOID』の二階、リサが居候として使っている一室は、今や芳醇な花の香りと、微かな魔力の火花で満たされている。
「リサ、動かないで。背中の魔力回路……いえ、刺繍の微調整が終わっていないわ」
アスカは両手をリサの背中にかざし、銀色の数式を直接空間に刻んでいた。彼女が計算し尽くした「光のドレス」は、リサが呼吸するたびに真珠のような光沢を放ち、周囲の空気を清廉に染め上げている。
「ふふ、アスカ。そんなに眉間にシワを寄せなくてもいいじゃない。式場は逃げやしないわよ」
リサが鏡越しに微笑む。その顔は、いつもの厳格な師匠のそれではなく、内側から幸福が溢れ出した一人の女性のものだった。
「……黙りなさい。私の演算によれば、このドレスの光沢率が0.1%でも損なわれれば、ゼノスの心拍数が予定値を外れて卒倒する可能性があるのよ。それは論理的に避けるべき事態だわ」
「心配しすぎですニャ。ゼノス様なら、リサ様がボロ布を纏っていても卒倒するくらいのぼせ上がってますニャ」
部屋の隅で、正装として首に小さなロイヤルブルーのリボンを巻いたシュシュが、前足で顔を洗いながら呆れたように鳴いた。
「シュシュちゃんの言う通りですよ、アスカ。……リサさん、本当に、世界中の誰よりも綺麗です」
レイがうっとりと手を合わせる。リサの髪を整えるレイの指先も、喜びに震えていた。
「仕上げよ」
アスカは震える指先を隠すようにして、昨夜、工房で焼き上げたあの不揃いなガラスのペンダントを取り出した。
「リサ。これ……私の『計算外の産物』だけど、今日のあなたにはこれが必要だと、私の勘が……いえ、論理が導き出したわ。受け取りなさい」
リサは差し出されたペンダントを手に取った。透明なガラスの中に、アスカの記憶と感謝が閉じ込められた虹色の光。それは、どんな高価な宝石よりも深く、温かい輝きを放っていた。
「……アスカ」
リサの瞳が、微かに潤む。
「不器用ね。形は歪だし、魔力の波形もバラバラ。……でも、私の人生で一番、解くのが難しいほど愛おしい魔法だわ。ありがとう」
リサがそのペンダントを首にかけると、ドレスの光と溶け合い、奇跡のような輝きを放った。
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【舞台:エルムの街・中央広場 ―― 純白の祝祭】
広場には、レオン、カイル、ミーナやテオなど街中の住人が集まっていた。 アスカが指先で空間をなぞると、虚空から七色の幾何学模様が展開され、空中に「虹のヴァージンロード」が架けられた。それは、賢者アスカにしか成し得ない、理論と美学の結晶だった。
「来たぜ! 鉄血のリサがお出ましだ!」
最前列で待ち構えていたガルスが、号泣しながら野太い声を上げる。その横で老婆は、高級な酒瓶を掲げて「あたいの戦友を泣かせたら承知しないよ、ゼノス!」と叫んだ。
ヴァージンロードの先で待つゼノスは、元皇帝としての威厳を湛えつつも、歩み寄るリサの姿に、文字通り呼吸を忘れていた。
「……リサ。君は、どうしてこれほどまでに」
「あら、私を選んだのはあなたでしょう? ゼノス」
二人が手を取り合った瞬間、街中にアスカが仕掛けた「祝福の数式」が発動した。空から花びらのような光の粒が降り注ぎ、人々の歓声が地響きのように鳴り響く。
「……完璧だわ。一秒の狂いもなく、全ての演出が最適化されている」
アスカは広場の端で、腕を組んでそう呟いた。だが、その声は微かに震えている。
「アスカ様、強がるのはよしましょうニャ。アスカ様も尻尾があったら、嬉しくて振り回しているはずですニャ」
「シュシュ、うるさいわよ」
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【舞台:ラストシーン ―― 賢者の落涙】
式が終わり、夕暮れ時。オレンジ色の光が街を包み込む中、リサがブーケを手に取った。
「さあ、次の幸せを受け取るのは誰かしら!」
リサが勢いよくブーケを放り投げる。それは魔法に導かれたかのように綺麗な放物線を描き、式の管理に追われて呆然としていたアスカの腕の中に、スポリと収まった。
「……え? ちょ、ちょっと、これは私の計算には……!」
慌てるアスカの前に、リサが歩み寄り微笑んだ。
「アスカ。この式、最高だったわ。私の自慢の弟子が作った、世界で一番贅沢な魔法ね」
「……当然よ。私の論理に、不可能はないんだから」
「ええ、そうね。でも、最後の一つだけ。これは論理じゃないわ」
リサはアスカを、壊れ物を扱うように優しく、けれど力強く抱きしめた。
「アスカ。……あなたは私の最高傑作なんかじゃない。……私にとって、たった一人の、自慢の娘よ」
その瞬間、アスカの中で張り詰めていた「賢者」としての鎧が、音を立てて崩れ去った。
「……っ……う、ああああ……っ!」
ブーケを抱きしめたまま、アスカはリサの胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。師匠の温もり。母親のような匂い。昨日までの寂しさも、これからの不安も、その抱擁の中で全てが肯定されていく。
「おめでとう……リサ……っ。幸せに、ならなきゃ、論理的に許さないんだから……!」
「ニャア……。こればっかりは、どんな賢者様でも計算できない結末ですニャ」
シュシュが優しく喉を鳴らし、レイは涙を拭いながら二人を見守る。
エルムの街の夜空に、最初の一番星が輝き始めた。それは、一つの家族が新しく形を変え、また新しい物語へと歩み出すための、祝福の光だった。




