第130話:賢者のフリーズ
【舞台:エルムの街・古本屋『VOID』 ―― 黄昏の静寂】
砂漠の死闘から帰還して数週間。エルムの街の喧騒から少し離れた路地裏。そこに、まるで時間の流れから取り残されたような一軒の店がある。古本屋『VOID』。 店内は天井まで届く書棚に囲まれ、古い紙の匂いと、アスカが焚いている魔力安定用の香香が混じり合った、独特の静寂に包まれていた。
「アスカ、リサさんからいただいたこのお茶、すごく良い香りがしますよ」
レイがロイヤルブルーのドレスの袖を汚さないよう丁寧に、二つのカップに湯を注ぐ。カチリ、と陶器が触れ合う繊細な音が、店内の静寂に心地よく溶け込んだ。
「……ええ。茶葉の成分比率から推測するに、精神弛緩作用のある北方の高山植物が配合されているわね。非論理的なリラックス効果だわ」
アスカはカウンターに積み上げられた古文書から目を離さず答えたが、その手元にあるのは魔導書ではなく、砂漠から持ち帰った「音の断片」を整理したメモだった。 平和な、あまりにも平和な昼下がり。
レイは、シュシュのために淹れた「特製ミルクティー」を冷ましている。
「……平和ですね、アスカ」
レイがふわりと微笑みながら言った。そのロイヤルブルーのドレスは、ゼノスの手によって完璧に修復され、朝露に濡れた花びらのような輝きを取り戻している。
「非論理的なほどにね。砂漠でのエントロピーの増大が嘘のようだわ」
アスカは視線をメモに向けたまま答えたが、その口元は微かに緩んでいた。
だが、その平穏は、古本屋の入り口にある古びたカウベルが「カラン」と鳴った瞬間に、粉々に砕け散ることになる。
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【舞台:カウンター越しの衝撃 ―― 皇帝と師匠の来訪】
店に入ってきたのは、リサとゼノスだった。
「二人とも、お茶を淹れているところ悪いけれど。少し大事な話があるの」
リサはカウンターに寄りかかり、悪戯っぽく微笑む。
その後ろで、ゼノスはいつになく緊張した面持ちで直立不動の姿勢を取っている。その腕には、店内の古びた雰囲気には不釣り合いなほど鮮やかな、大輪の白い百合の花束が抱えられていた。
「どうしたの? リサ。次の遠征の計算なら、もう8割は終わっているけれど……ゼノス、今日の夕食の買い出しは終わったの?」
アスカが視線を上げずに尋ねると、ゼノスは一歩前へ出た。
「買い出しは完了しております、アスカ様。……ですが、その前に。本日は皆様に、ご報告すべき儀式的な決定がございまして」
ゼノスの声は、かつて大陸を統治した皇帝としての威厳と、一人の男としての決意が混ざり合った、不思議な響きを帯びていた。
「……何よ。新しい防衛陣の構築? それともゼノスがまたどこかの王室から決闘を申し込まれたのかしら」
アスカが面倒そうにペンを置いた時、リサがゼノスの隣に並び、彼の腕にそっと自分の手を添えた。
「――リサ。準備はいいか」
ゼノスが、アスカの前で初めて見せるような柔らかな眼差しをリサに向けた。
「ええ。……アスカ、レイ。私たち、誓約を交わすことにしたわ」
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【舞台:論理の崩壊 ―― 賢者のフリーズ】
……沈黙。
古本屋の奥、時計の針が時を刻む「カチ、カチ」という音だけが、不自然なほど大きく響く。
「…………は?」
ようやくアスカの口から、およそ賢者らしからぬ抜けた声が漏れた。 彼女の脳内にある膨大なデータベースが、音を立てて崩壊していく。
『リサ:私の師匠、賢者、自由人』 『ゼノス:私の執事、元皇帝、家事の達人』 『リサ × ゼノス = ……???』
脳内演算機が激しいスパークを起こし、視界には赤いエラーログが猛烈な勢いで流れ始める。
「ピピピッ、バチバチッ……!」 彼女の指先から、制御を失った銀色の数式が火花となって飛び散り、カウンターの上のインク瓶がガタガタと震えだした。
「ま、待ちなさい……計算が合わないわ。リサは『独身貴族の賢者』という属性を固定値として持っていたはず。ゼノスだって、執事として私に一生を捧げると契約魔法で……いえ、口約束で誓ったはずだわ! 恋愛というノイズが介入する隙間なんて、私の将来予測シミュレーションのどこにも……一兆回計算しても存在しなかった!」
「アスカ、落ち着きなさい。本に引火するわよ」
リサが苦笑しながら近づこうとするが、アスカは後ずさりした。
「近づかないで! 今、私の脳内では1024通りの『なぜ』が並列処理されているの! ゼノス、あなたは……あなたは私の執事でしょう!? リサと結婚したら、私のアップルパイを焼く時間はどうなるの!? 」
「そんなに驚かなくてもいいじゃない。ゼノスが、一生の伴侶になりたいって……熱烈に口説いてきたのよ」
リサが少しだけ頬を染め、ゼノスの肩に頭を預ける。 アスカにとって、それはどんな高位の禁呪よりも恐ろしく、理不尽な光景だった。
「ゼノス! リサと結婚したら、私の食事の栄養バランス管理はどうなるの!? 掃除や洗濯のルーチンワークと、新婚生活という非生産的な時間の競合を、元皇帝のあなたはどう論理的に処理するつもりよ!?」
「アスカ様……」
ゼノスは誠実な瞳でアスカを見据えた。
「執事としての務めは、これまで以上に完璧にこなすと誓います。……ですが、リサを愛し、共に歩むことは、私の魂が導き出した唯一の真理なのです。これは、数式ではなく、血と鼓動の規約です」
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【舞台:祝福と沈没】
「わあ……! リサさん、ゼノスさん! おめでとうございます!」
横で固まっていたレイが、パッと顔を輝かせて両手を合わせた。
「素敵です……! ずっと、お二人は深い信頼で結ばれていると思っていました。VOIDが、愛の魔法で包まれますね」
「ありがとう、レイ。……アスカ、そんな顔しないで。家族が増えるようなものじゃない」
リサが笑いながら手を伸ばそうとした時。
「……かぞく……。リサと、ゼノスが……。……執事と、師匠が……結婚……。夫婦……。……意味が……意味がわからないわ……。論理が……解け……ない……」
アスカの瞳から、完全に焦点が消えた。 指先から溢れていた銀色の光が、「プスン」と音を立てて黒い煙に変わり、そのまま消滅する。
「アスカ? アスカ、大丈夫ですか!?」
レイが慌てて支えようとするが、アスカは椅子に座ったまま、まるで石像のように固まった。 完全にシステムダウン――「賢者のフリーズ」である。
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【ラストシーン】
「……やはり、ショックが大きすぎたか、リサ」
ゼノスが苦笑しながら、固まった主の顔を覗き込む。
「いいえ。これは彼女なりの、最大級の動揺……いえ、祝福よ。論理で解決できない幸福に直面して、脳がシャットダウンしただけ。……ねえゼノス、幸せにしてもらうわよ?」
「ああ、約束しよう。わが妻、そしてわが賢者」
古本屋『VOID』の窓の外。 エルムの街の夕暮れが、古びた看板を黄金色に染め上げていく。 目が点になって固まったままのアスカの横で、レイはクスクスと笑いながら、彼女の額に冷たいおしぼりを置いた。
愛という名の、計算不能なバグ。 それが、これから始まる「純白の祝祭」の、あまりにも騒がしいファンファーレだった。
いよいよ第12章が始まりました!
いきなりリサとゼノスの結婚話からスタートです!
この後、どのような展開が待っているのか・・・次のお話もお楽しみに!!
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