第106話:聖獣オブリビオン顕現 ―― 質量を持った絶望
【舞台:聖都郊外・監視塔 ―― 黎明の静寂】
聖都を飲み込もうとしていた暴徒たちの怒号は、今や遠い波音のように静まり返っていた。レイが23年間耐え忍んできた「孤独」の記憶を、アスカの術式によって共有した国民たちは、その場に膝をつき、己の安寧がどれほどの犠牲の上に成り立っていたのかを悟り、ただ項垂れていた。
しかし、賢者アスカの背筋には、かつてない悪寒が走っていた。 彼女の視界に展開された数式の羅列が、これまで見たこともない不気味なノイズを発し、激しく歪んでいる。
「……計算が合わない。レイから解放された『負の因果』の総量に対して、国民に分配された痛みの数値が30%と低すぎる。……残りの70%はどこへ消えたの?」
「どういうことですニャ、アスカ様!? レイ様はもう空っぽのはずですニャ! 行き場を失った悪い魔力が、まだどこかに潜んでいるんですニャ!?」
シュシュが黄金の瞳を限界まで見開き、耳をぴんと立てて空を仰いだ。
アスカに抱きしめられ、ようやく人間としての涙を流したレイが、突如として顔を蒼白にさせた。彼女は、胸の奥底……もはや何も残っていないはずの空虚な場所に、逃れようのない不気味な「重力」を感じていた。
「……呼んでいる。私たちが捨てた……いえ、聖教国が千年以上、この大地の底に排出し続けてきた『忘れ去りたい絶望』が、形を持って這い出してくる……!」
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【舞台:聖教国セレスティア上空 ―― 虚無の胎動】
その時、聖都の中心部。粉砕された大聖堂の真上に、漆黒の「穴」が開いた。 朝日を飲み込み、光さえも歪ませる巨大な虚無。そこから溢れ出したのは、泥のように粘つく黒い霧だった。それは聖教国が聖女というシステムを通じて、歴代、地下へと投棄し続けてきた「負の因果」の澱である。
「グ……、ギギ……、ア……」
空から、数万人の喉が潰れたような鳴き声が降り注ぐ。 黒い霧は急速に凝縮され、やがて山ほどもある異形の姿を形作っていった。 それは、生命の理から外れた姿をしていた。数えきれないほどの「顔」が表面を埋め尽くし、絶望に濡れた数千の翼を持つ、不定形の巨獣。
聖獣オブリビオン。 聖教国の平和という「偽りの奇跡」を維持するために切り捨てられた人類の毒を喰らって育った、質量を持った絶望そのものだった。
「……あれが、教団が『神の使い』と偽っていたものの正体ね」
アスカは、泥と煤で汚れた純白のドレスの裾を強く握りしめた。ドレスに刻まれた銀糸が、あまりの負のプレッシャーに耐えきれず、パチパチと火花を上げて焼き切れていく。
「非論理的にも程があるわ……。あんな密度の『負の質量』、物理法則を無視して存在しているじゃない。……あんなものに触れれば、精神ごと事象の地平に飲み込まれるわよ」
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【舞台:監視塔の屋上 ―― 絶望との対峙】
オブリビオンが、ゆっくりとその巨大な頭部を、監視塔の方角へと向けた。 その視線が重なった瞬間、レイは膝をついた。
「……あ……ああ……。ごめんなさい……。私が、私が解放してしまったから……あの子が、お腹を空かせて、私を連れ戻しに来た……」
「レイ様! シャキッとですニャ! あなたはもう、あんな不潔なバケモノの生贄じゃないですニャ!」
シュシュがレイの前に立ち、全身の毛を逆立てて威嚇する。
「アスカ様、あんなの、どうやって計算すればいいですニャ!? このままだと、世界が黒く塗りつぶされていくですニャ!」
「レイ、立ちなさい。……シュシュ、威嚇はいいから私の魔導陣をバックアップして。あんなの、ただの『処理しきれなかったデータのゴミ山』よ」
アスカの声は、冷たく、しかし透き通るような強さを持っていた。
「……アスカ様……無理です。あれは……聖教国の歴史そのもの。一人の人間が、賢者がどうにかできる『数式』じゃありません……」
「……いいえ。数式にできないものなんて、この世には存在しない。……ただ、少しだけ変数が足りないだけよ」
アスカは、引き裂かれたドレスの袖を乱暴に整え、全魔力を解放した。その瞬間、彼女の周囲に展開されていた赤い数式の色が、一気に塗り替えられる。
「本気で行くわよ。……私の論理に、塵一つ触れさせない」
アスカの純白のドレスから溢れ出した青白い光が、そのまま空間を構築する魔導陣へと伝播していく。アスカの赤い魔導陣は、臨界点を超えた演算速度によって、ドレスの輝きと完全に同期した、神々しいまでの青白い光の円環へと変貌した。
「シュシュ、全出力を私に回して。魔力の循環を最大にするわ!」
「了解ですニャ、アスカ様! アスカ様の論理で、あのバケモノを消し飛ばしてやるですニャ!」
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【ラストシーン】
オブリビオンが大きく口を開けた。 そこから放たれたのは、光線ではない。「虚無」そのものの波動。 それが通り過ぎた場所から色と形が消え、世界がモノクロの静寂に変わっていく。
アスカは一歩も引かなかった。 彼女の背後で、青白い魔導陣が幾千、幾万と重なり合い、巨大な光の盾となって展開される。その輝きは、眼前に広がる絶望の黒を真っ二つに切り裂く鋭い刃のようだった。
「……レイ。あんなバケモノに、あなたの涙を一滴だって、もう渡さない」
アスカが指先を振り上げると、青白い魔導陣が空を埋め尽くし、世界を再定義するように発光した。 絶望の虚無と、賢者の青白い銀光。 二つの巨大な事象が激突しようとする刹那、夜明けの空は、見たこともないような不気味な紫色に染め上げられた。
それは、世界の終わりか、それとも神話の書き換えか。 青白い光の渦の中に立つアスカの不敵な微笑みが、崩壊していく世界の中で唯一の「確かな真実」として輝いていた。




