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第105話:融解する感情 ―― 凍てついた23年の涙

【舞台:監視塔 ―― 嵐の前夜】


「魔女を殺せ!」「聖女様を返せ!」「俺たちの痛みをどうしてくれる!」


 監視塔を包囲する数千の松明は、暗闇の中でうねる巨大な火の蛇のようだった。扉を叩く斧の音、石壁に投げつけられる石。その一つひとつに、これまで聖女によって「消されてきた」人々の身勝手な不満と、突然襲ってきた不快感への理不尽な怒りが凝縮されていた。


「アスカ様、もう保たないですニャ! 扉の術式が焼き切れますニャ!」


 シュシュが逆立った毛を震わせ、黄金の瞳に焦燥を宿す。


 アスカは、震える手で膝を抱えるレイを見つめた。アスカの純白のドレスは、包囲網を突破した際のダメージと、レイを支え続けた魔力譲渡により、至る所が破れ、煤で汚れている。


「レイ。彼らは今、初めて自分自身の『不快感』に直面してパニックを起こしている。……このままじゃ、あなたが何千回死んでも、彼らの飢えは満たされないわ」


「……私が……私が、再びダム(聖女)に戻ればいいのですか? またあの暗闇の中で、皆さんの声を閉じ込めれば……」


 レイの瞳には、もう光がなかった。23年間、完璧に自分を殺してきた彼女は、この状況でさえ「自分が犠牲になることで事態を収拾する」という呪われた最適解にすがろうとしていた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【舞台:再定義 ―― 心の同期シンクロ


 アスカは、レイの頬を両手で強く挟み、無理やり自分の方を向かせた。


「いいえ。そんな非論理的な妥協、私は許さない。……レイ。あなたが耐えてきたのは、単なる『肉体の痛み』だけじゃないはずよ。……あなたが本当に伝えたかったことを、あのアホな国民たちの脳内に直接叩き込んであげる」


「え……?」


「彼らは今、初めて自分自身の『痛み』に直面してパニックを起こしているだけ。……だったら、痛みと一緒に、あなたが耐え抜いてきた『23年間の孤独の記憶』を、パケットにして全方位に送信してあげるわ。……彼らが贅沢に味わってきた無痛の時間が、どれほどの犠牲の上に成り立っていたのか。……その重みを、知る義務が彼らにはある」


 アスカが指先を弾くと、監視塔の空間全体に巨大な円環状の魔導陣が展開された。レイから溢れ出す黒い苦痛の魔力が、アスカを媒介にして、清浄な銀色の光へと変換されていく。


「シュシュ! 私の背中を支えて! 出力を最大まで引き上げるわ!」


「任せてくださいニャ! アスカ様の論理を、地の果てまで届けますニャ!」


 シュシュがアスカの肩に飛び乗り、魔力を注ぎ込む。アスカはレイの額に自分の額を寄せ、そのコアに触れた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【舞台:感情の爆発 ―― 融解する魂】


「レイ、叫びなさい! 23年分、飲み込んできたその声を!あなたが隠し続けてきた『23年間の涙』、その全てを今、この国のネットワークへ放流リリースするわよ!!」


 アスカの声に導かれるように、レイの瞳から堰を切ったように涙が溢れ出した。


「……怖かった……っ! 暗い塔の中で、毎日、顔も知らない誰かの悲鳴を喉に流し込まれて……! 私だって、お母さんに抱きしめて欲しかった! 友達と笑い合いたかった! 23年間……一度も、誰にも『助けて』って言えなかったんだからぁ!!」


 レイの魂の絶叫が、アスカの演算によって「共鳴波」となり、監視塔を突き破って聖都全域へと爆発的に広がった。


 それは、物理的な衝撃波ではない。 塔を囲んでいた暴徒たち。石を投げようとした男。罵声を浴びせていた女。 彼らの脳裏に、突如として「冷たくて暗い、石の部屋の記憶」が流れ込んだ。


 数万人の苦痛を一手に引き受け、神経を焼かれながら、たった一人で耐え忍ぶ聖女の主観。 「痛い」と言えば国が滅びると言われ、声を殺して震える夜の寒さ。 それらが、国民一人ひとりの心の奥底に、鮮烈な「追体験」として刻み込まれたのだ。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【舞台:融解する夜 ―― 「ごめんなさい」の合唱】


「……あ……ああ……」


 松明を掲げていた男の腕が、力なく垂れ下がった。彼の目からは、自分でも理由のわからない涙が溢れていた。 暴徒たちは、一斉に静まり返った。 自分たちが享受していた「平和」という名のぬるま湯が、一人の少女のどれほどの絶望によって温められていたのか。その「価格」を知ってしまった時、彼らの身勝手な怒りは、あまりにも巨大な申し訳なさと、恥辱へと塗り替えられた。


 松明が一つ、また一つと雪の上に落ち、消えていく。監視塔を包囲していた憎悪の熱気は、瞬く間に「自分たちの罪」に震える、深い後悔の沈黙へと塗り替えられ、 監視塔の周囲には、怒号の代わりに、人々の忍び泣く声だけが響いていた。


 静寂が支配する森に、小さな、けれど確かな声が響き始めた。


「……ごめんなさい。……ごめんなさい……!」


  一人の老女が、監視塔に向かって深々と頭を下げた。それを皮切りに、数千の群衆から、嗚咽混じりの「謝罪」が波紋のように広がっていく。彼らは今、初めて「泳ぎ方」を覚えたのだ。 誰かに押し付けるのではなく、痛みを自分たちのものとして受け入れ、他者の犠牲の上に立つことの醜さを知った。


「アスカ様……皆の波長が、完全に安定しましたニャ。……『拒絶のノイズ』が、『共感の周波数』に書き換わったですニャ……」


 シュシュが窓からその光景を見上げ、安堵の涙を拭う。


 アスカは、力尽きて倒れ込みそうになったレイを、しっかりと抱きとめた。


「……計算、終了。……完璧ね。レイ、聞こえる? これが、あなたが23年間かけて、ようやく手に入れた『物語の続き』よ」


 窓の外では、国民たちが掲げていた松明を地面に置き、消えゆく炎の代わりに、人々の心の温もりが夜を照らし始めていた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【ラストシーン】


 監視塔の中。 レイは、アスカの胸でボロボロと大粒の涙を流し続けていた。それはもう、聖女の義務による涙ではない。凍りついていた一人の少女の心が、人々の体温によって融かされた、祝福の涙だった。


「……おかえり、レイ。……もう誰も、あなたを責める資格なんて持っていないわ」


 アスカは、泥に汚れ、ボロボロになった純白のドレスの裾を翻し、泣きじゃくるレイを強く、強く抱きしめた。


「……これからは、自分のために泣きなさい。……計算違いも、弱音も、全部私が受け止めてあげる」


 夜明けの光が、監視塔の隙間から差し込み、二人を照らす。 もう「生贄の聖女」はいない。そこには、聖女という虚飾の仮面が剥がれ落ち、ただ、痛みを分かち合い、明日を生きようとする「少女たち」の姿があった。


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