第104話:司教の論理武装 ―― 聖女という名のダム
【舞台:聖都セレスティア・大聖堂 ―― 瓦礫の演壇】
聖都は、物理的な破壊以上に、「概念」の崩壊に揺れていた。 中央演算器『セフィロト』が沈黙したことで、これまで無意識に抑圧されていた人々の「不快感」や「病の予兆」が微細なノイズとなって街を覆っている。
その混乱の渦中、最高司教グラシウスは大聖堂の崩れたバルコニーに立ち、拡声魔法を用いて聖都全域へと声を放っていた。
「見よ、この無惨な姿を! 聖女を奪い、我らの平和を設計図ごと引き裂いた『異端の賢者アスカ』こそが、この国に災厄をもたらす魔女である!」
彼の背後には、異端審問官たちが並び、アスカとシュシュ、そしてレイの姿が刻まれた手配書が魔導通信によって全国へとばら撒かれていた。
「聖女ルナレイラは、悪魔に毒され、自らの責務を放棄した。彼女が背負っていた『救済の重荷』は今、行き場を失い、このセレスティアを飲み込もうとしている。国民よ、怒れ! 汝らの安寧を盗んだ者たちを、一刻も早く捕縛せよ!」
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【舞台:聖都郊外・監視塔 ―― 緊迫の朝】
朝霧が立ち込める森の中。監視塔の窓から差し込む暁光は、まだ弱々しく、室内の闇を完全には払い切れていなかった。古びた監視塔の内部では、アスカが血の気の失せた顔で魔力演算を行っていた。
「……計算が合わないわ。グラシウス、あなた何を仕掛けたの?」
アスカの指先が、空間に浮かぶ赤い数式を弾く。
シュシュが窓際で耳を動かした。
「アスカ様、まずいですニャ。街の連中だけじゃない……この森に向かって、数千、数万という『怒り』の魔力が集まってきてますニャ。これはただの軍隊じゃない、国民そのものが敵になってますニャ!」
「……私が、皆さんの平和を壊したから……」
レイが、アスカの魔力によって辛うじて保たれている身体を震わせ、膝をついた。
その時、監視塔の空間が大きく歪んだ。 物理的な襲撃ではない。グラシウスが構築した「論理の楔」が、アスカの通信網を逆ハッキングし、直接語りかけてきたのだ。
「聞こえるか、賢者アスカ。そして、迷える子ルナレイラよ」
監視塔の空中に、グラシウスのホログラムが冷酷に投影される。
「グラシウス……! 私の暗号を解くなんて、非効率な執念ね」
アスカは鋭い視線でグラシウスを射抜く。
「執念ではない。これは『正しさ』の重みだ。アスカよ、お前はルナレイラを救ったつもりだろうが、お前がやったことはダムの決壊だ。聖女という名のダムが、国民一人ひとりを溺れさせぬよう、すべての濁流を一身に受け止めていた。その壁を壊せば、救われるのはダム(彼女)一人。溺れ死ぬのは万人の国民だ」
「……それは、ダムを作らなければ維持できないシステムの欠陥だって言ったはずよ!」
「欠陥? 否! これこそが有限の世界における『絶対的平和』の設計図だ。犠牲のない平和など、ただの綺麗事だけの夢物語よ。お前の甘い『持続可能性』とやらが、今まさに街で苦しむ老人や子供たちの痛みを一秒でも止められるのか? お前は一人の娘を救うために、九万九千九百九十九人を地獄へ突き落とした。……どちらが悪魔か、明白ではないか」
グラシウスの言葉は、冷徹なまでの正論となってレイの心を切り裂いた。 レイは頭を抱え、床にうずくまる。
「やめて……もうやめてください……。私が、私が戻ればいいんですか!? 痛みを、全部また私の中に……!」
「レイ、聞いちゃダメよ!」
アスカが叫ぶ。だが、グラシウスの論理武装は、アスカの「演算」をも追い詰めていた。アスカの魔力は半分しかなく、王都全体の苦痛を今すぐ分散・処理するインフラを構築する時間は、物理的に足りない。
「アスカよ。国民の憎悪は、間もなくお前たちを焼き尽くす。お前の掲げる『持続可能』な未来が来る前に、現在の犠牲が国を滅ぼすのだ。……数式に負けたな、賢者よ」
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【ラストシーン】
グラシウスの投影が消えた後、監視塔を包むのは死のような沈黙だった。
そして、どれくらいの時間が過ぎただろう。遠くから、松明を掲げ、怒号を上げる国民たちの足音が、地鳴りのように近づいてくる。
「アスカ様……これ、詰んでるんじゃないですかニャ? 相手はモンスターじゃない……救おうとした『人間』たちですニャ。攻撃なんてできないニャ……」
シュシュは困惑し、爪を隠した。 アスカは、引き裂かれた純白のドレスの裾を強く握りしめた。彼女の瞳には、かつてないほどの迷いと、そして自分に向けられた「論理の刃」による深い痛みが滲んでいた。
(……私の計算に、不純物が混じった……? 愛着、執着……そんな非論理的な変数が、私の解を濁らせているというの……?)
アスカは、震えるレイの背中に手を置いた。 自分たちがやろうとしていることは、正義なのか。それとも、グラシウスの言う通り、ただのエゴなのか。
「……レイ。グラシウスは言ったわ。あなたというダムがなければ、みんなが溺れるって」
アスカは顔を上げ、監視塔を囲む数千の松明の光を見据えた。
「……だったら、ダムを直すんじゃない。……全員が『泳ぎ方』を覚えるための、新しいルール(数式)を今ここで書き換えてあげるわ。……ただし、これにはあなたの、死ぬ以上の覚悟が必要よ」
アスカの瞳に、絶望の淵で点る、鋭い再計算の光が宿る。 その時、監視塔の扉が、暴徒と化した国民たちの手によって激しく叩かれ始めた。




