第103話:不完全な抱擁 ―― 聖女が流す最初の涙
【舞台:聖都郊外・放棄された監視塔 ―― 深夜】
聖都を包む紅蓮の炎が、遠く地平線を不気味な橙色に染めている。 アスカたちは、追っ手を撒いて聖都北方の森に隠された、古い石造りの監視塔へと逃げ込んでいた。壁は苔むし、窓ガラスは割れ、吹き込む夜風がヒュウヒュウと寂しい音を立てている。
「……っ、ハァ、ハァ……」
アスカは、崩れかけの暖炉の側にレイを横たえ、自らも力なく壁に背を預けた。 かつて眩いばかりの輝きを放っていた純白のドレスは、今や煤と泥に汚れ、袖口はボロボロに裂けている。魔力の半分をレイに譲渡した代償は大きく、アスカの視界は細かく揺れ、指先は極度の疲労で痙攣していた。
「アスカ様、無理しすぎだニャ……。毛並みが焦げるかと思ったニャ」
シュシュが、周囲の警戒を終えて戻ってくる。その耳には小さな裂傷があり、黄金の瞳にも疲労の色が濃い。
「……私のことはいいわ。レイの……バイタルを確認して」
アスカが絞り出した声に応えるように、横たわっていたレイが、うわ言のように声を漏らした。
「……いや……来ないで……痛い……暗いよ……」
レイの肌は、アスカから流れ込んだ魔力の定着を拒むように、不規則に発光し、激しく脈動している。彼女を蝕む数万人分の激痛は、アスカの魔力という一時的な「防波堤」によってせき止められているが、その圧力は今にも堤防を決壊させようとしていた。
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【舞台:深夜の対話 ―― 聖女の自責】
「……ア、スカ……様……?」
数刻後、レイがゆっくりと目を開けた。だが、その瞳に宿っているのは生還の喜びではなく、底知れぬ絶望と恐怖だった。
「……気づいた? レイ。今のバイタルは……辛うじて安定圏内よ。動かないで」
「なぜ……なぜ私を助けたのですか? 私に……あなたの貴重な論理を分け与えてまで……!」
レイは震える手で、自分の胸元を掻きむしった。
「私が……私が『聖女』でいられなくなったせいで、聖都はあんなに燃えている。司教様の言う通りです。私という器が割れたから、溢れ出した痛みが人々を襲っている。……私が死ねば、すべて収まったはずなのに!」
レイの瞳から、大粒の涙が零れ、アスカの膝を濡らした。それは、聖女ルナレイラとして流してきた「憐れみの涙」ではない。一人の23歳の女性として、初めて溢れ出した「剥き出しの恐怖と感謝」の涙だった。
「馬鹿なことを言わないで、レイ。……それは相関関係の履き違えよ。街が燃えているのは、あなた一人にすべてを押し付けていたシステムの欠陥が露呈しただけ。あなたのせいじゃないわ」
「いいえ、私のせいです! これまで私は痛みに耐えることだけを誇りにして生きてきた! なのに、今は……怖いんです。アスカ様の魔力が消えた後、またあの地獄が戻ってくると思うと……怖くて、逃げたくて、たまらない!」
レイは顔を覆い、子供のように声を上げて泣き始めた。 それは、「至高の聖女」という完璧な仮面を被らされていた彼女が、23年間の人生で初めて、自分の「弱さ」を認めた瞬間だった。
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【舞台:不完全な抱擁 ―― 賢者の温もり】
アスカは重い体を引きずり、レイの側に膝をついた。そして、不器用な動作で、泣きじゃくるレイをその細い腕の中に引き寄せた。
「……アスカ、様……?」
「泣きなさい、レイ。……計算間違いなんて、誰にでもあるわ」
アスカの胸元に顔を埋めたレイは、アスカの体温を感じ、さらに涙を溢れさせた。
「……私は、不完全よ。あなたの痛みをすべて消し去る数式なんて、今の私には導き出せない。……でもね、レイ。一人がすべてを背負うのが最悪の設計ミスなら、二人で半分ずつ背負うのは、少しだけマシな計算式だと思わない?」
「半分……? アスカ様の体まで……痛みに焼かれてしまう……」
「いいえ。私は賢者よ。……痛みをただ受けるだけじゃない。あなたの激痛を、私の演算能力で『分解』し、『分析』し、いつか必ず『無害な定数』に変えてあげる。……だから、今は私を使いなさい。あなたの『外付けハードディスク』としてね」
アスカは、泥に汚れたドレスの裾で、レイの涙を優しく拭った。 その手は震えていたが、レイにとっては、どんな高潔な祈りよりも、ずっと温かく、信頼できるものだった。
「……アスカ様。……私、……生きていて、いいのでしょうか」
「合格よ。……死にたいなんて論理的じゃない問いを口にするより、その『生きたい』っていう不器用な震えの方が、よっぽど説得力があるわ」
アスカは、乱れたレイの銀糸の髪を、不器用な手つきでそっと撫でた。 アスカの指先には、まだレイへの魔力譲渡の余熱が残っている。かつて孤独に、ただ「正解」だけを求めていた賢者の手が、今は震える少女の肩を、力強く、そして優しく支えていた。
「……シュシュ。この周囲に、少しでも痛みを和らげる薬草はない?」
「もう見つけてあるニャ。少し苦いけど、レイ様の神経を落ち着かせるハーブだニャ」
シュシュが差し出した緑の葉を、アスカは口で噛み砕き、水に溶かしてレイに飲ませた。
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【ラストシーン】
深い闇の中、監視塔の隅で、二人の少女は寄り添うようにして眠りについた。
レイは、アスカの腕の中で、初めて「義務」のためではない眠りに落ちていた。その頬にはまだ涙の跡が残っていたが、その表情からは、23年間彼女を縛り続けてきた、あの冷徹な「完璧さ」が消えていた。
アスカは、眠るレイの銀糸の髪をそっと撫でながら、窓の外の燃える聖都を冷徹に見据えた。
(……グラシウス。あなたの『効率の論理』が、どれほど残酷か……。この子の涙が、そのすべての証明よ)
アスカの瞳には、冷徹な計算を超えた、静かな、しかし苛烈な怒りが宿っていた。
(あなたの数式を、根底から破壊してあげる。……この子が、もう二度と、自分の存在を呪わなくていい世界に書き換えてあげるわ)
割れた窓から差し込む月光が、泥に汚れたアスカの白いドレスを、微かに、しかし気高く照らしていた。それは、不完全な者たちが手を携えて、神が作ったデタラメな運命に挑むための、つかの間の休息だった。




