第102話:魔力残量0(ゼロ)の陥穽 ―― 剥がれ落ちる仮面
【舞台:崩壊する大聖堂・最上階 ―― 深夜】
中央演算器『セフィロト』が砕け散り、聖都を縛っていた白銀の結界が霧散した。一瞬の静寂。それは勝利の余韻ではなく、巨大な災害が牙を剥く前の、不気味な空白だった。
「……っ!? なに、この感覚。因果の糸が……逆流している?」
アスカが眉をひそめた瞬間、空気がどろりと濁り、錆びた鉄と数万人分の「古い悲鳴」が混ざったような異臭が空間を埋め尽くした。 [独自] 中央演算器という『行き先』を失った数万人分の『痛み』。行き場をなくした巨大な負の因果が、唯一の接続点であり、かつての器であったレイへと一気に殺到したのだ。
「ニャ、ニャアァァ!!」
シュシュが悲鳴を上げ、身を縮める。
「アスカ様、空気が腐っていきますニャ! 街中の『湿った絶望』が、濁流になってレイ様を飲み込もうとしてるですニャ!!」
「……あ……、ああっ……!?」
レイの口から、言葉にならない悲鳴が漏れた。 彼女の細い身体を、赤黒い雷のような魔力の奔流が駆け抜ける。
「レイ!?」
アスカが駆け寄るが、その手を伸ばすよりも早く、レイの魔力バイタルが急降下を始めた。アスカの視界に展開された演算ウィンドウが、警告の赤色で点滅する。
「……嘘でしょ。魔力残量(MP)が、垂直落下している……。90……40……10……ゼロ!?」
「アスカ様! レイ様の匂いが……消えかかってますニャ! 命の灯火が、この黒い波に飲み込まれそうだニャ!」
シュシュが叫び、レイの身体を支えようとするが、逆流する痛みの圧力に弾き飛ばされる。
「あああああ! 痛い、痛い、痛い!! お願い、殺して……誰か殺してぇ!!」
レイが床にのたうち回る。23年間、完璧に制御してきた「聖女の仮面」が、文字通り剥がれ落ちた。髪は乱れ、爪が石畳を掻きむしり、その瞳からは涙が溢れ出す。魔力という名の防御膜を完全に失った彼女の肉体に、数万人分の病、怪我、絶望の感覚が、生のまま突き刺さっていた。
その無惨な光景を、瓦礫の山に座り込んだままのグラシウスが、血を吐きながらも嘲笑った。
「カカッ……! 見ろ、これがお前の望んだ『真実』の姿だ、賢者アスカ」
グラシウスは折れた杖を支えに立ち上がり、狂気に満ちた瞳で二人を見下ろした。
「聖女という『器』を壊せばどうなるか、計算していなかったのか? 逃げ場を失った万人の怨嗟は、最も縁の深い彼女へと帰る。今、ルナレイラの肉体は、生きたまま万死の苦痛に焼かれているのだ! これが、均衡を乱したお前への、神の回答だ!」
「黙りなさい、三流。……これは計算ミスじゃない、想定内のリスクよ!」
アスカは叫ぶが、その声は微かに震えていた。
「強がるな! ルナレイラの魔力はもう枯渇した。一秒ごとに精神が削られ、肉体が内側から崩壊していく。お前に何ができる? その泥に汚れた白いドレスで、彼女の地獄を拭えると思うのか! 彼女は間もなく、絶望の塊となって爆ぜるぞ!」
グラシウスの哄笑が大聖堂に響き渡る。その背後からは、異変を察知した聖教国の魔導騎士たちが、続々と最上階へと踏み込んできた。
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【舞台:王都の路地裏 ―― 絶体絶命の行軍】
「シュシュ! 煙幕を展開して、ここを離れるわよ!」
「了解ですニャ! アスカ様、レイ様を頼みますニャ!」
アスカは、もはや呼吸をしているのかさえ怪しいほど、ぐったりとしたレイを背負い、シュシュの先導で崩落する壁の隙間から、夜の聖都へと飛び降りた。
外は地獄だった。 地下装置の逆流により、わずかな「痛み」を共有させられた国民たちが暴徒と化し、そこに騎士団の強硬鎮圧が加わって、王都は炎に包まれている。
「そこだ! 異端の賢者を逃がすな! 聖女を奪還せよ!」
背後から矢の雨が降り注ぐ。アスカは魔力が完全に枯渇したレイを庇いながら、片手で演算シールドを展開した。
「……くっ、演算効率が落ちている。レイの痛みの干渉で、私の数式が乱れる……!」
アスカの額に汗が流れる。純白のドレスは、今や煤と泥に汚れ、裾は無惨に引き裂かれていた。
「アスカ様、右から三人! 止めるニャ!」
シュシュが闇から飛び出し、騎士の顔面を切り裂く。だが、数は減らない。それどころか、魔力を失ったレイの体からは、痛みを引き寄せる「誘蛾灯」のような魔力波が漏れ出し、執拗に追手を呼び寄せていた。
行き止まりの路地裏。正面には重装騎士の壁。背後には炎。
「……ここまで、かしら」
アスカは膝をついた。背中のレイは、もう指先一つ動かす力も残っていない。
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【ラストシーン】
「……いいえ、まだよ。私の計算に『諦める』なんて変数は存在しない」
アスカは、汚れた純白のドレスの胸元を強く握りしめた。アスカはレイの耳元で、静かに、しかし断固とした口調で囁いた。
「レイ。聴きなさい。……あなたの魔力はゼロよ。でも、私の魔力はまだ残っている。……半分、あげるわ。私の論理を、あなたの空っぽの器に流し込んであげる」
「な……アスカ様!? それは禁忌ですニャ! 賢者の核が壊れるニャ!」
シュシュが驚愕して叫ぶが、アスカは止まらない。 アスカはレイの唇に、自分の額を押し当てた。
パァァァァァ……!
ドレスの銀糸がかつてないほどの輝きを放ち、アスカの純粋な魔力が、レイの空虚な心臓へと直接流れ込んでいく。
「……あ……あぁ……」
レイの瞳に、微かな、しかし確かな光が戻った。
アスカは顔を上げ、追いかけてくる騎士団を、鬼気迫る表情で睨みつけた。その瞳は、もはや冷静な賢者ではなく、大切なものを守り抜こうとする一人の少女のそれだった。
「……レイ。一度しか言わないわ。……一緒に、帰りましょう。エルムの街へ」
燃え盛る聖都の炎に照らされながら、アスカは魔力を分け与えた疲労でふらつきながらも、レイを抱きかかえて再び立ち上がった。遠く大聖堂の頂で、自分たちを見下ろしているであろうグラシウスへの意地を見せるように、アスカは混沌の中へと力強く踏み出した。




