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「それでさ、俺、仕事辞めるんだ」
「そっか。……よかったな」
「やっと楽に暮らせるよ。ちゃんとした仕事なんだから、罪悪感なんて感じるもんじゃないんだけど。でも、普通に、普通に考えてつらかった。麻痺してなかった、って言ったら嘘になるけど……でも、本当に麻痺してたんなら、こんな風にならなかったよなって。俺、あそこで、十年以上も……って、なんで道也が泣いてんだよ」
言われ、鼻から息を吸うとズズッ、と音がして初めて自分が涙を流していることが分かった。ミチルは慰めるようにポンポン、と俺の頭を優しく叩いた。
「分かるけどさ。でも、俺の人生だろ」
穏やかな声に反比例した言葉は冷酷で、寂しさが臭った。それでも、それが、その声色こそがミチルの生き方だった。人の人生に同情することはあまり綺麗なことではないし、第一、ミチルに対して人生の行く先に安堵するなんてこと、俺にはできるわけがなかった。それでも、嬉しかった。ミチルの人生に、責任が取れる訳もないのに。
それでも、そんな態度を許してくれるのは、ミチルの生き方を許してくれる人がいることに対して、確信を得たからであろうか。
「俺、中卒だったからさ……あんな仕事しか見付けらんなかったけど。辞めよう辞めようつって、三年経って、五年経って、十年経って……社会的に戻れらんなくなってさ」
そんな過去すら少ない行数で振り返ることができるほど、ミチルは誰かに「許された」のだ。「認められた」のだ。俺では敵わない、誰かに。ミチル自身も自分を許せると確信させてくれるような、誰か。村瀬と、村瀬を信じる人間に。
「散々馬に手をかけてきて変な話なんだけどさ。馬を守るボランティアでも始めようと思うんだ」
人差し指の背中で俺の汚い鼻水を、親指の腹で涙を拭ってくれながら、希望に満ちた声色を発した。適当な予想が当たったことには驚いたが、その驚きはさして大きなものではなかった。
「変とちゃうよ。……村瀬くんが、考えてくれたん」
「そう。村瀬も村瀬なりに、現状を悔やんでたところもあったみたいなんだ。それで、俺も報われる……って言ったらまた変だけどさ、だから、始めようって。まだまだ、ずっと先の話なんだけど」
つらつらと楽しそうに将来の観測を口にするミチルの姿が、愛おしくて仕方なかった。こんな顔をさせる村瀬や村瀬の婚約者に、俺が、俺の気持ちが、勝てる訳がなかった。ミチルの人生を預かることができなかった、いや、預かろうとしなかった自分が、太刀打ちできるような話ではなかった。ミチルは続けた。
「村瀬、出世したんだよ。海外出張だって。俺、連れてってもらえるんだ。理江子さんと一緒に」
「そうか。ほんま、まるで、家族みたいやね」
「だろ。位置付けはよくわかんねえけどな」
話せば話すほど、ミチルは遠い場所に行くように思えた。いや、実際、もう会えるのか会えないのか分からないほど遠い場所へ行くのだが、こんなに近く、肌をゼロ距離で合わせ、親密に言葉を交わしているのに、すぐに、この数秒後にでも遠い場所に行ってしまう気がする。知っても仕方ない――というか、もうとっくに他人の口から聞いている――のだが、一応、訊いてみた。
「ちなみに、何処に行くん」
「え。ああ、えーっと……確か、あ……あう……、あ、い……あっ、アイルランド。アイルランド。人見知りにはつらい国だって」
「あっはは、お喋りな人ばっかりなんやね」
「村瀬にはぴったりなんだけどな」
厭味を溢したミチルの唇には、紅茶にミルクが馴染んだみたいに柔らかな愛おしさが溶け込んでいた。
ミチルがベッドの頭の方へ目を遣ったのでつられてそちらに目を向けると、白枠の、長方形のアナログ時計が朝の十一時前を教えてくれていた。
ミチルは、するり、と俺の腕の中から抜けると上半身を起こした。薄暗い中で肌の全てが青白く発光し、そこかしこの光を集めているのではないか、と勘違いさせられた。白い影の上の方で、赤い果実が綻んだ。
「なあ、どうする。どっか美味いもんでも食いに行きたい」
節くれ立った細長い指先を甘えたように絡めてくれるのも、この瞬間が最後なのだと、確信した。




