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「ミチルさ……ミツ、さん。遠くへ行ってしまうそうです」
「それはー……『ミチル』でええんとちゃうか。ミチルにとって君は他人でしかない」
「……」
突きつけるような物言いをしてしまったが、それでも声色には寂しさが乗ってしまうようで、「所詮ミチルにとって俺も他人でしかなかった」という現実が押し寄せてきて、胸が詰まる想いになった。
「その、遠く、って、どこや」
「海外、えっと……確か、アイルランドに」
「またなんでそんな……」
言いかけて、すぐに彼の顔が思い浮かんだ。
「村瀬か。出張か何かか。……付いていくんか」
とうとう、手の届かない場所、彼に守られた場所に行ってしまうのかと思うと、更に胸が詰まった。俺も、皿の上のスパゲッティに目を落とした。
「なんで、加地くんが知ってんの」
今まで、俺の方がミチルのことを知っていたはずが、こうして、たった数ヶ月前に出逢った加地の方が詳しいだなんて。気に食わないし、傷付く。スパゲッティの麺の線を目でなぞりながら、問うた。
「一昨々日、なんですけど」
一瞬、旋毛に視線が来たと思えば、再び皿の上に落とし、丁寧にスパゲッティが巻かれた。が、その後他のものを巻き続けることはなく、フォークは短い麺を絡めたまま、皿の上をぐるぐるぐるぐると回っている。
「ミチルさんと、その……会ったんですけど、その帰りに、村瀬に待ち伏せされてて、殴られて」
言って、加地はフォークを持っていない左手で、円を描いて鳩尾を撫でた。そのゆっくりとした動きに、相当の衝撃を食らっただろうことが伺える。
無理もない。村瀬は大企業にて歳に比例せず大きく出世しており、その責任感からか体調を崩さぬよう鍛えているのだろう、身長と服の上から見える体型のわりに、筋力が宿っていそうな体格をしていた。
「それで、俺、そのとき村瀬のことを知らなかったんですけど……その後、説明……みたいな感じで、ミチルさんとまた会ったんです。村瀬も一緒で。それが、昨日です」
それから加地はスパゲッティを口へ放り込み、もぐもぐと咀嚼した。俺は、言葉の続きを待った。加地は、皿の上に一、二口しか残っていないのにも関わらず、紙ナプキンで口元を拭った。
「そのとき、その、海外に行くことを聞いて……」
そこで一旦、加地の話そうとする様子が止まった。しかし、何か言いたげに皿の上を見詰めてから、訴えかけるように、こちらへ顔を上げた。眉尻を下げて、口が開いた。
「俺、何も知らなかったんですね。本当に。何回も言うんですけど……本当に、何も、知らなかった」
加地は、目を瞑って軽く首を横に振った。一滴、しずくが飛ぶのが見えた。
「なんとなく気付いてはいたんです。ミチルさん、極度の寂しがり屋で……」
そこで一旦込み上げたものがあったのか、鼻をすすって、大きく鼻で息を吐いた。
「あの人、人の温もりに飢えてた。人肌が、『恋しい』と呼ぶよりは、『欲しい』人だと思いました。人の肌、そのものが、温もりそのものが。性欲の『性』より、生きる意味の『生』が」
やっぱり、分かる人には分かるものだ。俺や加地のように度々体を重ねると、当然のように感じるものなのだと思う。初めて、一度きり体を重ねた人間の中にも、分かる人には分かったであろう。それくらい、ミチルの執念は強く感じられた。
「でも、その理由が、あんまりだ。あんまりだ……」
カチ、と少し大きな音を立てて皿にフォークが乗せられた。そして、それを掴んでいた右手は左手と一緒に、テーブルの下へと隠れた。拳を作って、膝の上で踏ん張っているのだろうか。
「そりゃ、そういう職業が必要だってことは知ってます。偏見もありません。でも、ミチルさんがああなるまで同じ職で働かなきゃいけない理由って何なんですか。わかってる、わかってて、守りたいって思っても、俺にはミチルさんの人生の責任を負えない」
ミチルが就いている「ああなるほどの職」というのは、とどのつまり、「屠殺」。屠殺とは、牛、豚、鶏などの家畜の息の根を止める仕事だ。「人間の手で動物を最期に陥れる」という言葉だけ聞けば悪人の所業のように印象を受けられ、その実、その現象は綺麗事になってしまう。何故なら、最終的に、人はそれらを口にしたり、身に着けたりしているからだ。
ミチルはその職に就きながら、馬を殺している。手に負えない病気になった馬、食べごろの馬、競馬で使い物にならなくなった馬。彼らに、ミチルは毎日のように手をかけてきた。結果、ミチルにはそれがストレスになり、生きることに対しての価値観を擦り合わせるために、色んな馬の命を追いやってその体温を想像する度に、色んな男の肌の体温を知りたがったのかもしれない。
そう。そして。
「その、ミチルの人生の責任を負えるのは、村瀬だけなんや。だから、俺らは、村瀬には……『勝てない』って言うたらおかしいな……。とにかく、ミチルの横に村瀬がおる限り、ミチルの横には村瀬しかいることはできひんのよな。体こそ、よそにおっても」
心は。ミチルの心はずっと、村瀬の隣にあった。
「そう……みたい、ですね」
加地は、膝を眺めて掠れた声を出した。




