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少しの間コーヒーを飲んで、そろそろ店を出ようと腰を浮かしたが、時間が経った今も尚、あの席でこちらに背中を見せている加地に対して、魔が差してしまった。加地自身、もう用件は終わったはずなのに、昼飯なのだろうか、せっせと何かを口に運んでいる。やはり口を挟まずにはおられずに、そっと近付いた。
「加地くん」
右後ろから声をかけると、振り向いた加地は一瞬目を丸くしたが、すぐに、怪訝な顔を見せた。
「何ですか。というか……居たんですか」
「うん。……あ、偶然ね、これほんま。跡つけるとか、そういうんやないから。ほんま」
自分から話しかけといて、そういえば、と慌てて両手を身体の前で振った。怪しまれるのも仕方ない。考えが足りなかった。俺の言葉で更に怪しんでしまったか、加地は、更に顔を歪めた。
「ほんとですか」
「ほんまほんま、いや、ほんまごめん」
はあ、と宙を見下ろしてどうでもよさげに溜め息をつくと、紙ナプキンで口の端を拭ってから、テーブルに向かってまたパスタ――いや、スパゲッティか――をフォークで巻いて口に運びはじめた。一口が大きい。もぐもぐと噛みながら、モゴモゴと話した。
「何ですか。てか、なんでいるんですか」
短調なその口調はまるで何かを押し殺しているように見え、その何かが分かるばっかりに、申し訳ないが少し滑稽で唇が緩むのを我慢した。
「まあ……偶然。コーヒー飲んでたら偶然見かけたんよ、君を」
「……そう、ですか。見てたんですか」
「うん、あの……結構離れてたから、何も聴こえへんかったけど」
加地はきちんと話したいのか、またこちらを一瞥程度に見てから、こっちに座ってほしい、と頼むように向かいの席に顔を向けた。「ごめんな」と、プライベートに首を突っ込んでしまうことについて今更ながら謝りつつ、席に着いた。左手首の腕時計を外してクラッチバッグにしまった。
「知ってたんですか、ミチルさん……のこと」
「知っとったよ。んー……彼とは、俺が二十代で、彼が、十代の頃から交流がある」
再び唇にケチャップソースを付けた加地は、目を丸くしてから、伏し目がちになって皿の上に視線を落とした。
「ほんとに、俺、なんにも知らなかったんですね。俺……体、重ねてるだけで、全てを知れた気になってたんだ。そんなことないってわかってたけど」
言って、次のスパゲッティを口に運んだ。俺は言葉の続きを待った。噛み砕き、幾らか口の中が減っただろう頃に、キョロ、と周りを見回してからまた話しはじめた。
「わかってたんですよ。体の全てを、知り尽くしても……目の奥は、快楽しか見られなかった。最後まで。ミチルさんの本当の全てなんて、知れるわけなかったんだ」
「それは、俺もやで。そんなん、全部を知れるなんて、彼にしかできるわけないやんか」
近付いてきた店員に注文を訊ねられたが、小さく右手を挙げて水だけを頼んだ。
「それでも……俺、あの人、村瀬とかっていう人のこと、知らなかったから……何度も会ってくれるから、期待、しちゃうじゃないですか」
スパゲッティを巻いていたフォークが皿の端に添えられた。持っている指先は軽く力が加わったように歪んだ。
「ほんまにか。俺のこと、知っててもか」
「だって、それだけ長く居て、進まなかったんでしょ」
加地は顔を上げると、揺れた瞳で、それでも不思議そうに俺の瞳を覗き込んできた。何か引っかかった。
「俺よりミチルさんの色んなこと知ってて、どうしてそれ以上の関係に進まなかったんですか。そういう気がなかったからでしょう。お互いに。だから、俺は安心してた」
「そのさ、『進む』っていうの」
ふくらはぎあたりを組んでテーブルに腕を突き、語弊が産まれないか、相違がないか確かめるために、慎重に言葉を選んだ。
「なんかちゃうくない。割り切ってたんとちゃうの。加地くんかて、進む気とか何とか、なかったやろ。ただ、待ってただけやったんちゃうん、ミチルからの好意を。お互いの気持ちを加地くんの方から確かめることもせずに。余計、ミチルのほんまのこと、知れるわけないわな」
皿に添えられたフォークの先が、カチャ、と小さく音を立てた。皿の上で瞳が泳いでいて、言葉を探しているようだ。
「自分から知ろうとせんで、『進む』も『知る』もないわな」
語気こそ強めていないつもりだが、言葉そのものはまるで加地を責めているようで、少し反省してンンッ、と咳払いした。
「……確かに、そうですね。希望、持ちすぎでしたよね。今までの恋愛とは違うって、分かっていたのに」
そういえば加地は幾つかのスキャンダルを抱えたことがあったが、きっとそれは、加地が能動的に女性と関わろうとしたわけではなかったのだろう。今の言葉から、そういう風に見て取れた。「芸能人」というレッテルに惹かれて寄ってきた、つまり、「何もしないでも寄ってきた」という受動的な恋愛しか覚えてこなかったのだから。「進み方」を知ることができなかったのだ。




