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「おはよう、ミツ」
明の優しい声と一緒に、コーヒーの香りも優しく鼻に届いた。ぱちり、と目を開けた。
「おはよう……」
ぼんやりとした意識と腰の鈍痛とともに上半身を起き上がらせると、脳がふわりとした。ふう、と溜め息をついていると、白いワイシャツ姿の明がティーカップを持ってきてくれる。ブラックコーヒーだ。きっと、ルームサービスで頼んだのだろう。
「ありがとう」
「ん」
言いながら、明は立ったまんまテーブル上のトーストを齧りつつ椅子に座り、きちんと食事を始めた。俺は床からパンツを拾って履くと、ベッドサイドに置いたティーカップを持ってテーブルに近付いた。きっと、俺の分であろうデザートのマスキーノチェリーを口にした。種を口から出して枝を舌で結んでみた。上手くいった。
「見て」
どうだ、という顔をして見せて舌を出し、明に見せてやった。明は可笑しそうに笑った。
「あっは。それ、本当に好きだよな、ミツ」
「楽しいから」
「俺、真似してみたけど二回か三回しかできなかったわ」
「やったことあるんだ」
「一人で黙々とな」
顔を崩して笑う顔が愛おしい。明にはその顔が一生似合うと思う。ずっと、そのままの笑顔でいてほしい。
だから、切り出さずにはいられなかった。
「なあ」
「ん」
向かい側に座り、明の皿からキャベツを指で摘まんで口に放り込んだ。明は片眉を上げて不思議そうな表情を浮かべた。
「理江子さんは元気か」
「理江子さん」
途端に明は顔を曇らせ、フォークとナイフを持った手をテーブルに置いた。そんな顔を見たくて切り出したわけではないが、これからの明の一生の笑顔に賭けて、必要な表情だ。
「なんで今そんなこと訊くんだよ。ミツには関係ないだろ」
「そりゃ、俺には関係ない。一生関係ないよ。でも、明には関係ある。明と俺が一緒にいる限り、俺にも関係してくるんだよ」
どんな顔をすればいいのか、何を考えればいいのか、どう言えばいいのか。そんな、それがわからない、と虚無を表す青ざめた表情で目を見詰めてきた。俺は、その考えの無さに呆れてしまう。苛立ちは覚えるが、明に冷静になってもらうためには俺も冷静な態度を見せなければならない。俺はテーブルに右肘を突いて手のひらに顎を持たれかけさせた。
「俺、明のことが好きだよ。愛してる。だから、幸せになってほしい。将来を、ちゃんと、見てほしい」
こうして、きっちり言うべきことを軽薄そうに伝えることで、明が絶望してくれたらいいのだが。それでも本当の気持ちが、愛が、嫉妬が、執着が声色に乗ってしまうことは確かなもので。次に明が発した声は、掠れていた。
「将来って……俺は、お前がいる未来しか、考えられないよ」
「本当か。ちゃんと考えたことあるのか、他の道も。俺以外の誰かとか、婚約者の理江子さんとか」
「ある、あるよ……でも、想像がつかない。無理なんだ。本当はいつもお前にそばにいてほしいんだよ」
「『本当は』な」
「……」
「本当」の反対には「嘘」だけが存在するわけではない。「実際問題」だとか「現状」だとかを否定的に見ることに対しての対にもなることがあるのだ。「真実」の反対が「嘘」、「現実」の反対が「願望」。その単語たちに、本来対になる言葉があるのは知っているが、俺の「本当」についての解釈はこうだ。そんな嘘か真かの浮世で、俺たち人間は生きている。
「未来のお前の隣には、理江子さんがいるんだよ。そんなに迷うくらいなんだから、いい人なんだろ。明の目に間違いはないよ」
ゆらり、と立ち上がって頭をくしゃくしゃ、と撫でては笑ってみせた。鞄の中から一万円札を一枚、シケモクが入った灰皿の下に敷いてからシャワールームへ歩を進め、取っ手を引くついでに振り返った。
「じゃ、俺、歯あ磨いてシャワー浴びるわ」
すると明はのっそりと立ち上がって俺のほうへ近づいてきた。思わず目を丸くした。
「俺、諦めないから。絶対、何か考えてみせる」
取っ手を持っていないほうの手を引かれ、鼻筋の左側へ唇が降りてきた。もっと、拗らせればいいのに。そっと、ほくそ笑んだ。
そんな幸せな時間を過ごしても、現実は変わらない。今日も、俺は、馬に向けてノッキングガンを向ける。ドスッ、と重く鈍い衝撃音がして、間髪入れずに周りの人間が首を裂いた。色の濃い血が散った。




