9 - 1
最終週に入り、そろそろ現場でのホワイトデーの贈り物を気にしなければいけないなと考えを巡らせながら、慣れた道で歩を進めた。この道、小野上と通ったな、と、アスファルトの模様を見て思い出すが、そういえば。
そういえば、小野上はあの色白の男のことを知っているのだろうか。
だからって何だと思い例の三叉路に着いてネオンサインの下の扉を開く。そこにはバーテーブルに男女がふたり、カウンターの向こうにいつものマスターと若い男――戸塚と呼ばれていたか――、そしてカウンターの一番奥の席に、色白の男が顔を赤くして項垂れていた。
「えっ、どうしたんですか……」
思わず、手前にいるマスターに声をかけてしまったが、あやふやな笑顔を作って肩を竦められた。小さく頭を下げ謝りを表すと、今度は俺から関わろうと男に近付いた。
「あのー、すみませ、大丈夫ー……ですか」
あの日のことがあったくせに、よく声を掛けられるなと自分でも思ったが、とりあえず表情が見える場所まで辿り着いて、右手をカウンターに突いた。
男は、あんなにも白かった頬を真っ赤に染めて、カウンターに突っ伏していた。その赤は耳や首まで渡って燃えだしそうだ。左腕が枕になっていて、右手の指先が摘まんだグラスの中では名残惜しそうに底に溜まった青い液体が揺れていた。初めてこんなに近くで見たが、離れて見たとき、こんなにもこの人の髪は黒く見えただろうか。黒髪がより黒髪然としていて、その艶めきは、肌の白さと協力して、店内のどこでも同じように見える仄暗さを打ち消すように輝き、辺りの光を集め、より一層周りの空間を暗闇に染めているように見えた。瞼が重そうで、溶けそうだ。同じく溶けそうでしまいには落ちてしまいそうな半開きの唇の赤はしどけなかった。
「もう、何杯目ですか、ミチルさん。これ以上グダグダになるんならもう出しませんよ」
怒りながらも困った様子でグラスを磨く戸塚に、男は気が抜けたような声で返答した。
「いやー、大丈夫。まだまだ、まだまだ行けるよ」
「行けないですって。行けません、お水飲んでください」
カウンターの上へ差し出されたままのグラスの中では透明な液体が、溶けた氷を浮かべていた。戸塚は、それを上から掴むと、ミチルさんと呼ばれた男の頬をちょんちょん、とつついた。
「ひゃっ、ひゃはは」
一度肩を震わせてから子どものような声を出すのを見て、相当酔っているのが見て取れた。話ができなさそうなので戸塚に声をかけてみた。
「どうしたの、この人。すごく正気失ってそうなんだけど」
「いやー、ね。なんか嫌なことがあったらしく、この通り、悪酔いするまで飲んでるんですよ。普段こんなことないのになー」
腕を組んで、どうしようもない、と言いたげに鼻を鳴らしてミチルさんを見下ろす戸塚。俺も移ってしまったかのように腕を組む。ミチルさんは左手をカウンターに突いて身を起こしてから、ぐいっ、と青色の液体を煽った。
「本当にね、本当に理解のある人なんていないんだよ。マジで。マジよ、仕事も、人間関係も、めちゃくちゃ。わやくちゃよ。ひゃっはっは。おもしろいわな。全部俺のせいなのに勝手にこうやって惨めになってんの」
この間人をいなしていた落ち着きのある声とは全く別の、裏声のような高い声で自虐を撒き散らした。この人に何があったかはわからないが、この人の心の傷に触れたようで胸がズキッとした。いや、この疼きは、彼の言葉が自分に当て嵌まっているのもあるかもしれない。
この人に、同類のにおいを嗅ぎ分けざるを得なかった。
「本当に、悪酔いにもほどがありますよ。ミチルさん、もう本当にいい加減にして、起きてください」
再び突っ伏してしまった様子を見かねて戸塚がミチルさんの指先からグラスを取り上げると、あー、と赤ん坊のようにふざけた声を上げた。そのミチルさんの指先に、透明にネイルが塗られている爪を見付けた。ラメが目の前で散るように光った。
「なーあ、加地くん。どう思うー」
「わっ」
爪に目を奪われて静止していると、指先はこちらに向かってきて俺の左腕を掴み、こまねいていたものを解かれた。そして、体を固めるように抱き着かれた。
「どう思うって……」
「加地さん、今そこ考えるところじゃないですよ」
「ああ、うん」
唐突な問いに振り解くことも出来ずに目を逸らし、右上を見て考え込もうとしていたところを、戸塚の言葉にすぐに現実に戻された。
「わー、加地くん、やっぱり体締まってんねー、細いのにしっかりしてる。鍛えてんの」
まるでウザ絡みするかのようにギュ、ギュ、と両方の二の腕を両手で圧迫してケタケタと笑いかけてきた。思わず、やれやれという感情を込めて、はーっ、と溜め息をついた。戸塚との溜め息と重なった。
「もう、勝手にしてください。加地さんも、嫌だったら抵抗していいんですからね」
どうやら諦めてしまった様子の戸塚は、キッチンを抜けて後ろにいる男女の方へ向かっていった。
「なあ、」
唐突に耳元が擽られる。胸の奥がざわついた。
「助けて」
小さな低い声が、杭を打たれるように胸に刺さった。どこか必死さが見えるその声は、切なく俺の涙腺を震わせた。




