第8話 知らない町
朝。
「……体が痛い」
目を覚ました瞬間、最初に出た言葉がそれだった。
「私も……」
隣ではミアが毛布に包まったまま、眉間にしわを寄せている。
背中が痛い。
腰も痛い。
首もなんだか変だ。
昨日の夜は、星空の下で眠れることにあんなに興奮していたのに。
「野営って、もっとこう……爽やかに目が覚めるものじゃないのか?」
「誰から聞いたの?」
「父さん」
「おじさんの冒険の話、ちょっと信用できなくなってきた」
「そんなこと言うなよ」
「クゥ!」
声のした方を見る。
クウだけが元気いっぱいだった。
大きく伸びをすると、ぶるぶると体を震わせる。
「なんでお前だけ元気なんだよ……」
「地面で寝るの慣れてるからじゃない?」
「俺たちと一緒に家で寝てるだろ」
「クゥ?」
クウは何のことか分からないという顔で首を傾げた。
昨日採取した月灯草を確認する。
問題ない。
少し離れたところには、昨夜俺たちが採らなかった月灯草が残っていた。
白い花はすでに閉じ始めている。
「夜だけだったんだな」
「何が?」
「花」
昨夜はあんなに綺麗だったのに、朝になれば他の草とほとんど変わらない。
ノートを取り出して書き加える。
『朝になると花は閉じる。』
「……よし」
「それだけ?」
「自分で見たことだからな」
依頼書に書いてあったことと、自分で見たこと。
同じでも、なんとなく違う気がした。
「帰ろう」
「うん」
「今日はちゃんとしたベッドで寝るぞ」
「それには大賛成」
「クゥ!」
「お前はどこでも寝られるだろ」
◆
ローデンへ戻る途中。
街道の分かれ道で、一台の馬車に出会った。
荷台いっぱいに木箱を積んだ馬車だった。
御者台には丸い帽子をかぶった男が座っている。
「おはよう」
「おはようございます」
ミアが先に頭を下げる。
俺も慌てて続いた。
「その格好、冒険者か?」
「ああ。なったばっかりだけど」
「そりゃ結構。若いうちはいろんなところを見とくといい」
「いろんなところ?」
思わず食いつく。
男が笑った。
「俺はこれからベルナまで行くところだ」
「ベルナ?」
「知らんのか?」
「知らない」
「ローデンから東へ行ったところにある川沿いの町だよ。今日は市の日だからな。昼には結構な人が集まる」
「市……」
「他所から来た商人も多いぞ」
「他所から!?」
「ルカ」
横からミアの声。
「何?」
「その顔やめて」
「どんな顔だよ」
「今すぐベルナに行きたいって顔」
「……」
なんで分かったんだ。
「行きたい」
「駄目」
「まだ何も――」
「依頼の報告が先」
「あ」
背負い袋の中には月灯草が入っている。
俺たちはまだ仕事の途中だ。
「……分かってる」
「本当に?」
「ちゃんとローデンに戻る」
「よろしい」
旅商人と別れる。
ベルナへ続く道を何度か振り返りながら、俺はローデンへ向かった。
「そんなに見ても町は逃げないよ」
「分かってるって」
でも。
ベルナ。
聞いたことのない町だった。
どんな場所なんだろう。
◆
「月灯草、確認した」
冒険者ギルド。
ジャンが俺たちの持ち帰った月灯草を一本ずつ確認していく。
「状態も悪くない。必要な分だけ採ってきたみたいだな」
「全部採ったら駄目なんだろ?」
「ああ。次に生えてこなくなるからな」
「ちゃんと残したぞ」
「少しは冒険者らしくなってきたじゃねえか」
「少しってなんだよ」
「まだ四日目だろ」
「……そうだった」
なんだか、もっと経っている気がする。
ジャンが依頼完了の記録をつける。
「これで終わりだ」
「ジャン」
「なんだ」
「ベルナって知ってるか?」
「……知ってるに決まってるだろ」
「どんなところ?」
「川沿いの交易町だ。ローデンより人の出入りは多いな」
「今日、市なんだって」
「そうだな」
「行ってみたい」
「行けばいいだろ」
「いいのか!?」
思わず身を乗り出した。
「なんで俺の許可が必要なんだよ」
「だって冒険者だし」
「冒険者はギルドの飼い犬じゃねえ」
「クゥ?」
「お前のことじゃない」
ジャンが依頼書の束をめくる。
「ちょうどいい。行くなら仕事もしてこい」
「仕事?」
一枚の紙を取り出す。
「ローデンの道具屋から、ベルナの雑貨屋まで小包を届けてほしいって依頼だ。急ぎじゃないし、難しい仕事でもない」
「やる!」
「早えよ」
「ベルナに行けるんだろ?」
「だから依頼内容を最後まで聞け」
横を見る。
ミアが頭を抱えていた。
「荷物を受け取って、ベルナの店まで届ける。それだけだ。壊れ物だから雑に扱うなよ」
「任せろ」
「あと」
ジャンが俺を見る。
「寄り道するなら荷物を届けてからにしろ」
「俺、そんなに信用ない?」
「ない」
「ないね」
ジャンとミアの声が重なった。
「なんでだよ!」
◆
荷物は思ったより小さかった。
木箱一つ。
中身は薬を量るための小さな天秤らしい。
壊れないよう布で包み、俺の背負い袋の一番上へ入れる。
「よし」
「走らないでね」
「分かってる」
「崖から飛び降りないでね」
「飛び降りねえよ!」
「知らないもの見つけても突然森に入らないでね」
「俺をなんだと思ってるんだ」
「ルカ」
「名前で答えるな!」
そんな話をしながら東の街道を進む。
昨日とは違う道だ。
それだけで楽しい。
道の横に生えている木も。
遠くに見える山の形も。
すれ違う人も。
全部、昨日まで知らなかったものだった。
そして昼を少し過ぎた頃。
「……あれ?」
水の音が聞こえてきた。
丘を下る。
その先で――。
「うわ……」
大きな川が見えた。
リベル村の近くを流れる小川とは全然違う。
向こう岸までかなり距離がある。
その川に沿うように、たくさんの建物が並んでいた。
石造りの橋。
回り続ける大きな水車。
川面を進む小舟。
荷物を積んだ船まである。
「あれがベルナかな」
「たぶん」
「船がいる!」
「川だからね」
「町の中に船がいるぞ!」
「だから川だからね」
気づけば走り出していた。
「ルカ!」
「分かってる! 荷物は大事にする!」
「そこじゃなくて走るなって言ってるの!」
◆
町へ入った瞬間、足が止まった。
「……すげぇ」
人。
とにかく人が多い。
ローデンの町も、俺の住むリベル村と比べればかなり賑やかだった。
でもベルナはもっとすごい。
道の両側に露店が並んでいる。
魚。
野菜。
果物。
布。
木工品。
見たことのない道具。
どこからか肉を焼く匂いがする。
聞き慣れない話し方をする人もいる。
派手な色の服を着た人。
大きな荷物を背負った旅人。
楽器を鳴らしている男。
「ミア、見ろ!」
「見てるよ」
「あの魚、なんだ!?」
「知らない」
「あっちは?」
「知らないって」
「あの服!」
「ルカ、前!」
「え?」
ドン。
「うわっ!」
「おっと」
誰かにぶつかった。
「す、すみません!」
慌てて頭を下げる。
大きな荷物を抱えた男は笑って、そのまま人混みへ消えていった。
「……」
「……」
「何も言うな」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
「ちゃんと前見て歩こうね」
「はい」
横でクウが「クゥ」と鳴いた。
「お前まで言うな!」
それでも視線は勝手に動く。
右。
左。
上。
川。
船。
露店。
人。
知らないものばかりだ。
「……楽しい」
「まだ仕事終わってないよ」
「分かってる!」
◆
問題は。
「……どっちだ?」
「知らない」
配達先が分からないことだった。
依頼書には店の名前と場所が書かれている。
『中央橋を渡り、水車通りを南へ。青い屋根の雑貨屋』
「中央橋ってどれだ?」
「橋いっぱいあるね」
「青い屋根も……」
二人で辺りを見る。
「いっぱいあるな」
「いっぱいあるね」
「……聞こう」
「最初からそうしようよ」
近くの露店で道を聞く。
「中央橋ならあっちだよ」
教えられた方向へ進む。
橋を渡る。
「こっちだな」
「本当に?」
「たぶん」
「その『たぶん』怖いんだけど」
しばらく歩く。
水車が見えた。
「ほら!」
「合ってたね」
「俺を信じろって」
さらに歩く。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「川が反対側にある」
「……」
「……」
「さっきの橋、中央橋じゃなかったんじゃない?」
「でもあの人、あっちって」
「『あっち』しか聞かなかったからでしょ!」
結局、もう一度人に聞いた。
中央橋は一つ隣だった。
「……冒険って難しいな」
「これは冒険じゃなくて道に迷っただけ」
「似たようなもんだろ」
「全然違う」
さらに歩いていると、それまで俺たちの後ろをついてきていたクウが突然進路を変えた。
「クゥ!」
「クウ?」
路地へ入っていく。
「どこ行くんだ?」
追いかける。
路地を抜けると、小さな通りに出た。
その先に青い屋根。
看板には――依頼書と同じ店名。
「……」
「……」
「クゥ!」
クウが得意そうに胸を張る。
「お前、字読めるのか?」
「クゥ!」
「絶対違うと思う」
ミアが笑う。
たぶん何かの匂いを追っただけだ。
たぶん。
……今度試してみよう。
◆
荷物を渡す。
店主が中身を確認する。
「壊れてない。ご苦労さん」
「よし!」
これで仕事は終わり。
店を出る。
俺とミアは顔を見合わせた。
「……」
「……」
「行く?」
「行こう!」
市場へ戻った。
◆
「これ何!?」
「火蜜果だよ」
露店の店主が笑う。
赤と黄色が混ざった、小さな丸い果物。
「この辺で採れるの?」
「いや。もっと南だ。海沿いの暖かい地方から運ばれてくる」
「南……」
知らない場所だ。
「食べてみるか?」
「いいの!?」
小さく切ったものを一つ渡される。
口へ入れる。
甘い。
「うま――」
次の瞬間。
「辛っ!!」
「うわっ!?」
ミアが驚く。
「辛い! なんだこれ!」
店主が大笑いしている。
「だから火蜜果っていうんだ」
「先に言ってくれよ!」
「名前で分かるだろ」
「蜜って入ってるだろ!」
ミアも恐る恐る一口。
「……あ、本当だ。最初は甘い」
「だろ?」
「……辛っ!」
「ほら!」
二人で水を飲む。
クウが興味深そうに果物を見ている。
「やめとけ」
「クゥ?」
「お前にはまだ早い」
隣の店には、青く光る石が並んでいた。
「これは?」
「北の山で採れる鉱石だ」
「北?」
さらに先。
変わった模様の布。
「これは?」
「西の国から来た織物さ」
「西……」
その隣。
見たことのない魚。
「これは?」
「朝、河口の方から運ばれてきた魚だよ」
「河口って海?」
「そうだよ」
南。
北。
西。
海。
知らない地名が次々と出てくる。
俺はベルナという一つの町にいるだけなのに。
ここには、もっと遠くの場所からいろんなものが集まっている。
「……すげぇな」
「何が?」
「世界」
ミアが首を傾げる。
「だって、この果物は南から来たんだろ?」
「うん」
「この石は北。布は西」
「そうだね」
「ってことはさ」
市場を見回す。
「俺たちが知らないところで、知らない人たちがこれを作ったり、採ったりして、それがここまで来たんだよな」
「……そうだね」
当たり前のことなのかもしれない。
でも俺には、それが妙にすごく思えた。
父さんから世界の話はたくさん聞いた。
遠い国。
巨大な森。
高い山。
見たことのない魔物。
世界の果て。
でも全部、俺にとっては父さんの話の中にあるものだった。
今は違う。
知らない土地から来た果物を、俺は実際に食べた。
舌がまだ少し痛い。
それだけなのに。
遠くにあるはずの世界が、ほんの少し近づいた気がした。
◆
市場の端に、小さな古道具屋があった。
壊れた魔道具。
古い食器。
誰が使うのか分からない置物。
何に使うのか分からない道具。
「……ここ、面白い」
「ルカが好きそう」
品物を眺めていると、一つの木彫りが目に入った。
「……あれ?」
手のひらに乗るくらいの小さな飾り。
丸い輪の中に、三本の波のような線が彫られている。
どこかで見た。
「どうしたの?」
「これ……」
記憶を探る。
父さんだ。
小さい頃。
冒険の話を聞かせてもらったとき、父さんが紙の端に似た模様を描いていた。
「おじさんが持ってるの?」
「いや……たぶん、昔見せてもらった」
店主に尋ねる。
「これ、どこのもの?」
「ああ、それか。ずっと西の方で作られてる旅のお守りだよ」
「西……」
「旅人が無事に帰ってこられるようにってな」
木彫りを見つめる。
父さん。
本当に行ったんだ。
分かっていた。
父さんが冒険者だったことも。
世界中を旅したことも。
嘘だと思ったことなんてない。
でも。
父さんの話の中にしかなかったものが、今、目の前にある。
冒険ノートを取り出す。
「買わないの?」
「今はいい」
木彫りの模様を描き写す。
その横に書く。
『西の国で作られている旅のお守り。父さんが昔見たものと似ている。』
少し考えて、もう一行。
『いつか自分で見に行く。』
「……よし」
ノートを閉じた。
◆
夕方。
ベルナを出た俺たちは、ローデンへ続く道を歩いていた。
来たときと同じ道なのに、少し違って見える。
「楽しかった?」
ミアが聞く。
「めちゃくちゃ」
「分かりやすいね」
「知らないものだらけだった」
「町一つなのに?」
「だからだよ」
「え?」
俺は冒険ノートを取り出した。
今日だけで何ページも増えた。
川。
水車。
船。
火蜜果。
北の鉱石。
西の織物。
旅のお守り。
まだ書き足りない。
「町一つで、こんなに知らないものがあったんだぞ」
「……うん」
「だったら世界全部回ったら、どれだけあるんだろうな」
考えただけで楽しくなる。
この道の先にも町がある。
その向こうにも。
もっと遠くにも。
俺が名前すら知らない場所が、きっと山ほどある。
ミアが俺のノートを見る。
「そのノート、一冊じゃ足りないね」
「……」
手の中のノートを見る。
まだ空白のページはある。
でも世界中を回るなら。
「じゃあ二冊目を買う」
「そういう問題?」
「三冊目でもいい」
「何冊持ち歩くつもりなの?」
「百冊」
「荷物になるよ」
「クウに持ってもらう」
「クゥ!?」
「嫌だって」
「まだ何も言ってないだろ!」
三人の声が、夕方の街道に響く。
世界の果ては、まだずっと遠い。
そこへ続く道さえ、俺は知らない。
でも今日。
俺の知っている世界は、昨日より少しだけ広くなった。




