第7話 初めての野営
初めての依頼を終えてから、数日が経った。
俺たちは毎朝ローデンの町へ通い、冒険者ギルドの依頼板を眺めるのが日課になっていた。
「薬草採取……これは近いな」
「いいんじゃない?」
「畑を荒らす魔物の追い払い……」
「それもいいね」
「倉庫の荷物運び……」
「安全そう」
「……なんか普通だな」
「仕事なんだから普通でいいでしょ」
ミアに呆れられながら、依頼書を一枚ずつ眺めていく。
もちろん仕事を選り好みするつもりはない。
……ないんだけど。
せっかく冒険者になったんだから、もう少しこう、知らない場所へ行ったり、見たことのないものを見つけたり――。
「お」
一枚の依頼書で手が止まった。
『月灯草の採取及び群生地周辺の状況確認』
「月灯草?」
知らない名前だ。
それだけで少し興味が湧く。
依頼書を読む。
月灯草は日中ほとんど花を閉じているが、日が沈む頃になると白い花を開く薬草らしい。
薬の材料として使われるが、ローデン周辺には自生しておらず、街道を半日以上進んだ先にある丘陵地帯まで行く必要がある。
「これにしよう」
「決めるの早くない?」
「だって知らない草だぞ」
「それだけ?」
「十分だろ」
ミアが依頼書を覗き込む。
「……これ、今日中には帰ってこられないんじゃない?」
「え?」
もう一度読む。
片道、半日以上。
月灯草が花を開くのは夕方から夜。
採取してから戻れば、完全に夜になる。
「ということは……」
俺は顔を上げた。
「野営?」
「なんでそんなに嬉しそうなの」
「野営だぞ!?」
「聞こえてるよ」
野営。
冒険者が旅の途中、焚き火を囲みながら食事をして、そのまま星空の下で眠る。
父さんから何度も聞いたことがある。
子供の頃、ミアと庭に毛布を持ち出して真似したことだってある。
結局、夜中に寒くなって家へ戻ったけど。
「これにする!」
「月灯草より野営が目的になってない?」
「そんなことない」
「目を見て言って」
「月灯草を採りに行こう!」
「逸らした」
受付へ持っていくと、ジャンは依頼書と俺の顔を交互に見た。
「これか」
「ああ!」
「やけに嬉しそうだな」
「初めての野営なんだ」
「……依頼の方を楽しみにしろ」
ジャンまでミアと同じことを言う。
依頼そのものは難しくないらしい。
ただし、月灯草によく似た別の草があるため注意すること。
夜になると周辺には小型の魔物が出ること。
そして何より、帰りを急いで夜の街道を無理に歩かないこと。
「野営するなら、場所を選べ。水辺に近すぎる場所は避けろ。獣道の上にも張るな。火の始末は絶対に忘れるな」
「分かった」
「食料は?」
「買う」
「水」
「持っていく」
「毛布」
「持っていく」
「火を起こす道具」
「……買う」
ジャンがため息をついた。
「先に準備してから依頼を受けろ」
「これからする!」
「ルカ」
「なんだよ」
「俺が十五の頃にも、お前みたいな奴がいた」
「本当か!?」
「ああ。俺だ」
「ジャンさんも!?」
「だから心配してんだよ」
◆
昼前。
必要なものを買い揃えた俺たちは、ローデンの町を出た。
いつもなら夕方までにはリベル村へ帰る。
でも今日は違う。
背負い袋には一晩分の食料と毛布。
今日は帰らない。
「……いいな」
「また始まった」
「だって今日、家に帰らないんだぞ」
「普通なら不安になるところじゃない?」
「なんで?」
「聞いた私が悪かった」
クウが俺たちの前を歩いている。
街道の左右には畑が広がり、その向こうには低い山々が見えた。
何度も振り返る。ローデンの町が少しずつ小さくなっていく。
それだけなのに、不思議な感じがした。
今までなら、どこかへ行っても必ずその日のうちに帰っていた。
今日は違う。この道の先で夜になる。
それだけで、いつもの街道が知らない道に見える。
「ミア」
「何?」
「俺、今すごく冒険してる気がする」
「歩いてるだけだけどね」
「雰囲気って大事だろ!」
「はいはい」
しばらく歩き、昼を過ぎた頃には畑もほとんど見えなくなった。
代わりに草原と低い丘が増えていく。
風が強い。
父さんからもらった首元の布が何度もなびく。
丘を一つ越えたところで、思わず足が止まった。
「……うわ」
視界が一気に開けた。
遠くまで続く緑の丘。
その間を細い川が銀色に光りながら流れている。
もっと遠くには、薄青く霞んだ山々。
知らない景色だった。
「すげぇ……」
「そんなに?」
「リベル村からじゃ見えないだろ、これ」
「まあ、そうだけど」
俺は背負い袋から冒険ノートを取り出した。
「描くの?」
「忘れたくない」
「帰りにも見られるよ」
「帰りに同じ景色とは限らないだろ」
雲も動く。
光も変わる。
風も変わる。
今見ている景色は、今しかない。
上手くはないけど、丘と川の形を簡単に描き込む。
ページの隅に一言だけ書いた。
『ローデンの東。名前の知らない丘。風が強い。景色がすごい。』
「最後だけ感想が雑」
「伝わればいいんだよ!」
◆
月灯草の群生地に着いたのは、太陽が傾き始めた頃だった。
「……どれ?」
「まだ花が開いてないから分かりにくいね」
丘の斜面には様々な草が生えている。
依頼書には特徴も書かれていた。
細長い葉。
葉の裏側に白い筋。
夕方になると白い花を開く。
「これじゃないか?」
「葉の裏は?」
ひっくり返す。
「……筋がない」
「違うね」
「じゃあこれ」
「それもない」
「これ!」
「ルカ」
「なんだよ」
「全部抜く前に確認しようね」
「……はい」
危なかった。
似た草があるというジャンの忠告を思い出す。
それから三人で――正確にはクウは匂いを嗅いでいただけだけど――斜面を探して回った。
しばらくすると、ミアが声を上げた。
「あった!」
「どれ!?」
「これ」
指差された草を見る。
葉の裏に一本の白い筋。
「月灯草?」
「たぶん」
「【???】で見てみる」
意識を集中する。
――分かる。
植物。
状態は良好。
葉や根に異常はない。
それ以上は――。
「……名前は?」
「分からない」
「じゃあ確認になってないじゃん」
「健康なのは分かった!」
「よかったね……」
やっぱり【???】は何でも教えてくれるわけじゃない。
便利だけど、妙なところで役に立たない。
結局、依頼書の絵と特徴を見比べながら確認することになった。
そして日が沈み始めた頃。
「あ」
ミアが声を漏らした。
目の前の草の先で、固く閉じていた蕾がゆっくりと開いていく。
一つ。
また一つ。
白い花が次々と開く。
夕暮れの丘に、小さな白い点が増えていく。
「……すげぇ」
思わず採る手を止めた。
まだ太陽の光が残る空の下。
白い花が風に揺れている。
「月灯草って、こういう意味なのかな」
「夜に咲くから?」
「たぶん」
クウが花へ鼻を近づける。
「食うなよ」
「クゥ?」
「その顔は食おうとしてただろ」
必要な分だけ採取し、残りはそのままにする。
全部採ってしまえば、次に来たとき何も残らない。
それもジャンから教えられたことだった。
「よし」
袋の中を確認する。
「依頼完了!」
「まだ帰って報告するまでが依頼だからね」
「分かってるって」
「じゃあ帰る?」
「……今から?」
空を見る。
もうすぐ日が沈む。
ミアも空を見る。
そして俺を見る。
「野営したいだけでしょ」
「……駄目?」
「最初からその予定だったでしょ」
「よし!」
「切り替え早っ」
◆
野営場所は、少し離れた丘の中腹に決めた。
近くに水場はある。でも近すぎない。
獣道らしきものもない。
風も丘の反対側より弱い。
「完璧だな」
「まだ何もしてないけどね」
「ここからだ!」
荷物を下ろす。
まず火。
乾いた枝を集め、小さく組む。
父さんがやっていたのを何度も見た。
やり方は分かる。たぶん。
「……」
「……」
「…………」
「ルカ」
「待て」
「まだ何も言ってないよ」
「今つくから」
火花は散る。
でも、火がつかない。
もう一度。
つかない。
「……おかしい」
「何が?」
「父さんがやるとすぐついてた」
「おじさん、元冒険者だからね」
「俺も冒険者だぞ!」
「三日目の」
「それ言うの禁止!」
もう一度。
火花。
煙。
「おっ!」
小さな火がついた。
「ついた!」
「やった!」
「クゥ!」
三人で喜ぶ。
そして。
ふっ。
「……消えた」
「消えたね」
「クゥ……」
「クウ、その目やめろ」
結局、火が安定するまでかなり時間がかかった。
火がついた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
「野営って大変だな……」
「まだ寝てもないよ」
「え?」
「寝床」
「……」
「食事」
「……」
「夜の見張り」
「……」
「楽しい?」
「楽しい!」
「そこは変わらないんだ」
◆
夕食は、硬いパンと干し肉。
そこにローデンで買った野菜を小さな鍋で煮込んだだけの簡単なものだった。
「……うまい」
「そんなに?」
「なんか家で食べるよりうまい」
「同じ干し肉だよ」
「外で食うと違うんだよ」
「そういうもの?」
「絶対そう」
クウにも肉を少し分ける。
「ほら」
「クゥ!」
「俺の分より大きくない?」
「気のせい」
「絶対大きい!」
食べ終える頃には、完全に夜になっていた。
街の明かりもない。
家の窓から漏れる光もない。
あるのは焚き火だけ。
少し離れれば、何も見えない。
「……夜って、こんなに暗いんだな」
「村だって夜は暗いでしょ」
「でも、家があるだろ」
ここにはない。
焚き火の外は全部、知らない世界だ。
風が草を揺らす。
どこか遠くで、何かの鳴き声が聞こえた。
「……今の何?」
「知らない」
「魔物?」
「知らない」
「見に――」
「行かない」
「まだ最後まで言ってない!」
「言わなくても分かる」
クウが俺とミアの間で丸くなる。
「クゥ……」
「クウは眠そうだな」
「一番働いてないもんね」
「クゥ!?」
「分かった分かった。ちゃんと働いた」
俺は焚き火へ枝を一本放り込んだ。
ぱち、と火の粉が上がる。
何となく空を見上げた。
「……うわ」
「今度は何?」
「上」
ミアも空を見る。
「……きれい」
星があった。
リベル村からだって星は見える。
でも、こんなに多いと思ったことはなかった。
空いっぱいに、小さな光が散らばっている。
「世界って、広いな」
口から勝手に出た。
「急にどうしたの?」
「今日だけでも、知らない景色見て、知らない草見つけて、初めて外で飯食って」
「火をつけるのに苦戦して」
「それは忘れろ」
「無理」
笑い声が夜の丘に小さく響く。
しばらく三人で火を見ていた。
「なあ、ミア」
「何?」
「俺、本当に世界の果てまで行くからな」
「……知ってる」
「父さんが見たところも、見てないところも。知らない町も、森も、山も、海も。全部見たい」
「全部は無理じゃない?」
「やってみないと分からないだろ」
「ルカなら本当にやろうとしそう」
「するよ」
即答すると、ミアが少しだけ笑った。
「じゃあ私も見てみたいな」
「何を?」
「世界の果て」
焚き火がぱちりと鳴った。
「一緒に行く?」
「……一人じゃ心配だから」
「なんで俺の心配が理由なんだよ」
「今日だって私がいなかったら、火もつけられなかったでしょ」
「最終的につけたの俺だろ!」
「一時間かけてね」
「時間は関係ない!」
「クゥ!」
「ほら、クウも行くって」
「今ので分かったのか?」
「分かった」
「絶対適当だろ」
クウが俺の膝へ前脚を乗せる。
「クゥ!」
「……まあ、いいか」
頭を撫でる。
白い毛が焚き火の光を受けて、少しだけ橙色に見えた。
「じゃあ三人だな」
「うん」
「クゥ!」
いつになるかは分からない。
どれだけ遠いのかも知らない。
そもそも、本当に辿り着けるのかだって分からない。
でも、その夜。
俺たちは初めて、世界の果てへ行く約束をした。
◆
「……眠れない」
「私も」
毛布に包まりながら、俺は真っ暗な空を見ていた。
地面は硬い。
草はちくちくする。
さっきから知らない虫の声がずっと聞こえる。
何より寒い。
「父さん、野営ってもっと楽しそうに話してたんだけどな」
「楽しいんじゃなかったの?」
「楽しいけど、寝るのは別だ」
「私は明日、絶対宿で寝たい」
「賛成」
そのとき。
「クゥ……」
隣を見る。
クウが俺たちの毛布の間で、気持ちよさそうに丸くなって眠っていた。
「……こいつだけ快適そうだな」
「毛皮あるからね」
少し考える。
「クウ」
「クゥ……?」
「こっち来い」
抱き寄せる。
「……あったかい」
「あ、ずるい」
「早い者勝ちだ」
「半分こ」
「俺が先に――痛っ! 引っ張るな!」
「そっちが取りすぎ!」
「クゥ!?」
初めての野営は。
思っていたより寒くて。
思っていたより大変で。
思っていたより眠れなくて。
それでも――。
たぶん、ずっと忘れない夜になった。




