第6話 分からないこと
翌朝、俺たちは再び森へ向かっていた。
「本当にまた行くんだね」
「まだ依頼は終わってないだろ」
「昨日はあんなに帰りたくなさそうだったのに」
「帰りたくなかったのと、調べたくないのは別だ」
「はいはい」
ミアが呆れたように笑う。
昨日見つけた魔物の死体。
傷だらけの熊。
そして、洞窟の周囲に残されていた大量の小さな足跡。
分からないことを持ち帰るのも冒険者の仕事だとジャンは言った。
でも、調べられることまで放っておく理由はない。
「今日は足跡を調べる。それ以上はやらない」
「洞窟には?」
「入らない」
「熊を見つけたら?」
「近づかない」
「知らないものを見つけたら?」
「……見るだけ」
「最後だけ怪しい」
「クゥ!」
「クウまで!?」
◆
昨日の洞窟まで戻ると、熊の姿はなかった。
入口の前には昨日の戦いで抉れた地面が残り、俺が巻き上げた土や枯れ葉もまだ散らばっている。
「……本当に戦ったんだな」
「夢だと思ってたの?」
「いや。改めて見ると、よく無事だったなって」
「それは私も思う」
クウが昨日熊の消えていった洞窟を見つめる。
大きな耳が動いた。
「クゥ」
「いる?」
クウはしばらく暗闇を見つめていたが、やがて首を傾げた。
「分からないってことかな」
「たぶん」
「じゃあ、近づかないで調べよう」
昨日見つけた小さな足跡は、まだ残っていた。
一つや二つじゃない。
いくつもの足跡が重なり、洞窟と森の間を行き来している。
「……群れかな」
「たぶん」
ミアがしゃがみ込み、足跡を覗き込む。
俺も隣に座って大きさを確かめた。
クウの前脚より少し大きいくらいだろうか。爪の跡があり、形は犬か狼に近い。
「熊よりは小さそうだな」
「数は熊よりずっと多そうだけどね」
「……それは嫌だな」
昨日の熊一頭でもかなり苦戦した。
それが何頭もいると考えると、さすがに楽観はできない。
足跡は森へ向かって続いている。
「こっちなら追える」
「洞窟じゃないからって、どこまでも追いかけるのは禁止だからね」
「分かってるって」
「本当に?」
「今日何回それ聞くんだよ」
「昨日までの信用を積み重ねた結果です」
「逆方向に!?」
それでもミアは弓を構え直し、俺と一緒に足跡を追い始めた。
クウも大きな耳を動かしながら先を歩いている。
探そうと思って見ると、森の中には昨日気づかなかった痕跡がいくつも残っていた。
低い位置の枝に引っかかった灰色の毛。
踏み荒らされた草。
柔らかい土に残された足跡。
どれも一つだけなら見落としていたかもしれない。
「……面白いな」
「何が?」
「昨日は全然気づかなかったのに、探そうと思って見るといっぱいある」
「それが調査なんじゃない?」
「なるほど」
「冒険者になって三日目でようやく調査の意味を知ったね」
「成長が早いだろ?」
「前向きだなぁ……」
しばらく進んだところで、先を歩いていたクウがぴたりと止まった。
「クゥ」
声が小さい。
大きな耳がまっすぐ前を向いている。
俺とミアもすぐに口を閉じた。
風に乗って、低い唸り声が聞こえる。
「……いる」
剣に手をかけ、木の陰からそっと覗き込む。
少し開けた場所に、四足の魔物がいた。
灰色の毛。
細長い身体。
口元から覗く鋭い牙。
狼によく似ているが、普通の狼より一回り大きく、背中には黒い筋が走っている。
一頭。
二頭。
三頭。
「……まだいる」
木々の向こうにも影が動いている。
少なくとも五頭。
「多いね」
「多いな」
声を潜めたまま、ゆっくり身を引く。
戦う必要はない。
見つけた。
数もだいたい分かった。
足跡の正体も確認できた。
それで十分だ。
「戻ろう」
そう言って一歩下がった、そのときだった。
パキッ。
「……あ」
足元で枝が折れた。
狼型の魔物の耳が、一斉にこちらを向く。
「ルカ」
「……ごめん」
「帰ったら反省会ね」
「今それ言う!?」
低い唸り声が重なった。
一頭が走り出す。
続いて二頭、三頭。
「来る!」
俺たちはすぐに走った。
クウを先頭に木々の間を抜けるが、背後から聞こえる足音はどんどん近づいてくる。
「速い!」
「狼なんだから速いでしょ!」
「知ってる!」
一頭なら戦えるかもしれない。
でも、相手は群れだ。
後ろばかりを気にしていた、そのときだった。
「ルカ、横!」
「え?」
右側の茂みから一頭が飛び出してきた。
咄嗟に剣を抜き、牙を受け止める。重い衝撃が腕まで響いた。
「なんで前に!?」
「回り込まれた!」
ミアの矢が狼の肩を掠める。
魔物が飛び退いた隙に距離を取ったが、後ろから追ってきた狼たちも次々と姿を現した。
囲まれた。
「……ちょっとまずいな」
「ちょっと?」
「いや、今回はかなり」
「そこは正直なんだ!?」
狼たちはすぐには飛びかかってこない。
低く唸りながら俺たちの周囲を動き、一頭が正面、二頭が左右へ回る。
俺が正面の一頭へ剣を向けると、右側の一頭が距離を詰める。
そちらを向けば、今度は反対側が動いた。
「……こいつら、連携してる」
「どうするの?」
「……考えてる」
「早めにお願い!」
一頭が飛び込んできた。
剣で追い払い、その直後に横から来たもう一頭へ手を向ける。
「――風よ、押せ!」
風を受けた身体がわずかに横へ流れ、牙が俺の服を掠める。
そこへミアの矢が飛び、狼の前脚近くへ突き刺さった。
でも、別の一頭がもうミアへ向かっている。
「ミア!」
駆け寄ろうとした瞬間、クウが飛び出した。
「クゥッ!」
いつもの鳴き声とは違う鋭い声に、狼が一瞬怯む。
その隙にミアが後ろへ下がった。
「ありがとう、クウ!」
「クゥ!」
「俺にもそれやってくれ!」
「今言うこと!?」
冗談を言っている場合じゃない。
このまま一頭ずつ相手にしていたら、いつか隙を突かれる。
何かないか。
周囲を見る。
木。
茂み。
その先に、横倒しになった大きな木がある。
「……ミア」
「何?」
「あそこまで下がる」
視線だけで倒木を示す。
ミアもすぐに気づいた。
「分かった」
俺たちは狼たちを警戒しながら、少しずつ後退する。
倒木まで、あと少し。
そのとき、一頭が飛び込んできた。
「今!」
横へ避け、狼が着地した瞬間に手を突き出す。
「――風よ、押せ!」
狙ったのは狼じゃない。地面だ。
乾いた落ち葉と土が一気に舞い上がり、狼たちの視界を覆う。
「走れ!」
俺とミアは倒木を飛び越えた。
クウも軽々と後に続く。
狼たちはすぐに追ってきた。
でも、さっきまでとは違う。
倒木が邪魔をして、一斉には来られない。
「一頭ずつなら!」
最初の一頭が倒木を飛び越えた瞬間、ミアが矢を放つ。
肩に命中し、着地が崩れた。
「はあっ!」
そこへ踏み込み、剣の腹で頭を強く打って横へ弾き飛ばす。
次の一頭が飛び越えてくる。
「ルカ!」
「分かってる!」
今度は空中の狼へ横から風をぶつけた。
姿勢を崩した身体が倒木へ激突する。
三頭目は飛ばなかった。
倒木の向こうで立ち止まり、低く唸っている。
「……来ない?」
その奥から、ひときわ大きな狼が姿を現した。
他の個体より身体が大きい。
毛の色も濃く、片耳の先が欠けている。
そいつが短く吠えた。
すると、他の狼たちが動きを止める。
「……あいつ」
「群れのリーダー?」
「たぶん」
大きな狼はしばらく俺たちを見つめたあと、もう一度短く鳴いた。
それを合図にするように、群れが少しずつ下がっていく。
俺たちも動かない。
やがて最後の一頭が木々の奥へ消えた。
「……行った?」
「たぶん」
しばらく待ってから、ようやく大きく息を吐く。
「……怖っ」
「今さら!?」
「戦ってる最中に怖がってる暇なかったんだよ!」
剣を鞘へ戻そうとして、手が少し震えていることに気づいた。
牙猪とも、熊とも違った。
一頭一頭なら、たぶん熊ほど強くない。
でも、群れになると話が変わる。
「さっきの熊、これと戦ったのかな」
ミアの言葉に、熊の身体に残っていた傷を思い出した。
前脚。
後脚。
脇腹。
いくつもあった、小さな傷。
「……咬み傷」
「え?」
「熊の傷だよ。細かい傷が何か所もあった」
狼たちが消えた森を見る。
一頭では、あの熊に勝てない。
でも――五頭、六頭、それ以上なら?
「もしかして……あの熊も、この群れに襲われた?」
「じゃあ、森で死んでた魔物も?」
「全部かは分からない」
熊が殺したものもいるかもしれない。
狼たちに襲われたものもいるかもしれない。
争いに巻き込まれたものだっているかもしれない。
でも、一つだけ見えてきた。
「この辺で、魔物同士の縄張りがぶつかってるんじゃないか?」
洞窟にいた熊。
洞窟と森を行き来する狼の群れ。
そして、周辺で増えた魔物の死体。
バラバラだったものが、少しずつ繋がっていく。
「じゃあ、原因分かったんじゃない?」
「……いや」
まだ一つ、分からない。
「最近になって死体が増えたんだよな」
「依頼書にはそう書いてあったね」
「じゃあ、なんで急に縄張りがぶつかったんだ?」
「……あ」
狼たちの足跡は、洞窟から森へ向かっていた。
あの熊も洞窟の入口にいた。
なら――。
「……あいつら、洞窟の奥から出てきたんじゃないか?」
「でも、なんで?」
「それが分からない」
何かが変わった。
最近になって。
あの洞窟の中で。
俺とミアは同時に、洞窟がある方角を見る。
「……調べに行く、とか言わないよね?」
「……」
「ルカ」
「分かってる!」
ものすごく気になる。
今すぐ洞窟へ戻って、この目で確かめたい。
でも、ジャンは言っていた。
――何がいた。どこで何を見つけた。何が分からなかった。それを持ち帰るのも冒険者の仕事だ。
「帰ろう」
口にすると、ミアが少し驚いた顔をした。
「何だよ」
「いや……ちゃんと帰るんだなって」
「俺だって学習するんだぞ」
「昨日冒険者になったばっかりだけどね」
「成長が早いってことだ!」
俺は冒険ノートを開いた。
『洞窟周辺に狼型魔物の群れ。
少なくとも五頭以上。
群れで連携して行動する。
熊の新しい傷は、狼型魔物による可能性あり。
周辺の魔物の死体増加は、縄張りの変化が原因の可能性あり。』
そこまで書いて、最後にもう一行付け足す。
『なぜ、狼型魔物は洞窟の奥から出てきた?』
答えは書けない。
まだ、俺たちは知らないからだ。
◆
ローデンの町へ戻った頃には、空が赤く染まり始めていた。
冒険者ギルドへ入ると、受付にいたジャンが俺たちを見つける。
「おう。生きて帰ったか」
「第一声がそれ!?」
「新人への挨拶みたいなもんだ」
「絶対嘘だろ」
ジャンの前に立ち、俺は冒険ノートを開いた。
「魔物の死体を三体確認。それと、未探索洞窟の入口に大型の熊型魔物が一頭。あと、狼みたいな魔物の群れがいた」
「……待て」
ジャンの顔から笑いが消えた。
「順番に話せ」
俺たちは森で見たものを、一つずつ説明した。
死体の場所と傷。
熊の足跡。
熊との戦闘。
身体に残っていた新しい傷。
洞窟周辺の小さな足跡。
そして、狼型魔物の群れ。
ジャンは途中で何度か質問したが、最後まで黙って聞いていた。
「それで?」
「それで?」
「洞窟には入ったのか?」
「……入ってない」
「熊を追って?」
「ない」
「狼どもを追って?」
「ないって!」
ジャンは俺の顔をじっと見る。
「……なんだよ」
「いや。お前なら入るかと思ってた」
「俺を何だと思ってるんだ!」
「昨日、未探索って文字だけで依頼書に食いついた新人」
「ぐっ……」
何も言い返せない。
ジャンが小さく笑った。
「それでいい」
その一言に、今度は俺が黙る。
「分からなかったことは?」
俺はノートの最後を見る。
「狼たちが、なんで洞窟の奥から出てきたのか」
「確証は?」
「ない。だから……分からなかった」
ジャンは頷いた。
「なら、それでいい。お前らが持って帰った情報だけでも十分仕事になる。少なくとも、しばらくあの辺には不用意に人を入れない方がいいって判断できるからな」
「でも、原因までは分からなかったぞ」
「全部分かるまで帰ってこない奴からは、何の報告も聞けねえよ」
その言葉に、少しだけ考える。
俺は冒険者になったら、知らない場所へ行って、最後まで全部確かめるものだと思っていた。
でも、分からないまま帰ることもある。
そして、それを誰かに伝えることにも意味がある。
「……冒険者って、思ってたより難しいな」
「三日目で分かったなら上出来だ」
「クゥ!」
「なんでクウが得意そうなんだよ」
ミアが笑った。
俺もつられて笑いながら、ノートを閉じる。
初めての依頼。
分かったことは、たくさんあった。
分からなかったことも、たくさんあった。
でも――たぶん、それでいい。
いつかまた、あの洞窟へ行く。
そのときは、今日よりもっと強くなって。
もっといろんなことを知って。
今度こそ、その奥をこの目で見てやる。
冒険ノートの最後には、誰にも見せていない一行を付け足しておいた。
『いつか絶対、続きを見に行く。』




