第5話 森の異変
翌朝、俺たちはリベル村の入口に集まっていた。
「食料」
「持った」
「水」
「持った」
「傷薬」
「持った」
「予備の布」
「持った」
「ロープ」
「持った」
「本当に?」
「……たぶん」
「確認して」
言われるまま背負い袋を下ろし、中身を確かめる。
食料、水、傷薬、布、ロープ。昨日ローデンで揃えたものは、ちゃんと全部入っていた。
「ほら、あるじゃん!」
「昨日のルカを見たら確認したくもなるでしょ」
「信用がなさすぎる」
「昨日だけで何回忘れてたと思ってるの?」
「クゥ」
「クウまで頷くな!」
背負い袋を担ぎ直し、俺たちは街道を歩き始めた。
目的地は、ローデンから少し離れた森。
依頼は【未探索洞窟周辺における生態調査】。
最近、その森で魔物の死体が相次いで見つかっている。
その原因を調べるのが、冒険者としての俺の最初の仕事だ。
「……なんかいいな」
「何が?」
「依頼を受けて、荷物背負って、知らない場所に向かってる」
「昨日からずっとそんなこと言ってない?」
「だって冒険者っぽいだろ!」
「もう冒険者なんだから、『っぽい』じゃなくて冒険者でしょ」
「……確かに」
「今気づいたの?」
思わず笑ってしまう。
腰には父さんからもらった剣。
背中には旅の道具。
そして隣には、いつものミアとクウ。
子供の頃、何度も想像した光景だった。
ただ一つ違うとすれば――想像していたより荷物が重い。
「冒険者ってもっと身軽だと思ってた」
「食料置いてく?」
「絶対嫌だ」
◆
昼前には、依頼書に記されていた森へ着いた。
街道から外れた途端、景色が変わる。
頭上を覆う木々のせいで日差しは薄く、湿った土と草の匂いが濃くなった。風が吹くたびに枝葉が擦れ、どこかで鳥が鳴いている。
俺は足を止め、周囲を見回した。
「……知らない森だ」
「急に嬉しそうになった」
「だって初めて来たんだぞ」
同じ木でも、リベル村の近くとは少し違う。
見たことのない赤い花が咲き、木の幹には青っぽい苔が広がっている。目に入るもの全部が気になって、つい足がそっちへ向きそうになる。
「あれ何だろ」
「ルカ」
「見るだけ!」
「じゃあ、そっちは?」
「見るだけ!」
「依頼は?」
「……調査!」
「よろしい」
ミアは完全に俺の扱いを心得ている。
その横で、クウが突然立ち止まった。
「クゥ」
大きな耳がぴくりと動き、茂みの奥へ向く。
さっきまでとは様子が違う。俺とミアも顔を見合わせた。
「何かいる?」
「たぶん」
剣の柄に手をかけ、ゆっくり茂みを回り込む。
そこにいたのは――動かない魔物だった。
「……死んでる」
地面に、小型の魔物が横たわっていた。
鹿に似ているが、額から短い角が二本伸びている。依頼書にも書かれていた、この森に生息する魔物の一種だ。
近づこうとして、一度足を止める。
――何がいた。どこで何を見つけた。
昨日のジャンの言葉が頭をよぎった。
「ミア、周り見てて」
「うん」
いつでも剣を抜けるようにしながら、死体の前へしゃがみ込む。
身体には大きな傷があり、背中の毛は血で固まっていた。
「……噛まれた?」
「それだけじゃないみたい」
ミアが少し離れた場所を指差す。
草が倒れ、その先の地面が抉れている。ここで何かに襲われたのかもしれない。
俺は死体へ意識を集中した。昨日、牙猪を見たときと同じ奇妙な感覚が戻ってくる。
――分かる。
折れた肋骨。
背中に残された深い傷。
死んでから、それほど時間は経っていない。
「肋骨が折れてる。それと……背中に深い傷」
「牙猪より大きな魔物?」
「たぶん。でも……」
傷の状態は分かる。
でも、何がこの傷をつけたのかまでは分からないらしい。
「……分からない」
「え?」
「こいつが何に殺されたのか。【???】でもそこまでは分からないみたいだ」
不思議と、がっかりはしなかった。
分からないなら、自分で調べればいい。
「……なんで嬉しそうなの?」
「だって、その方が面白いだろ」
「仕事なんだけどなぁ……」
ミアがため息をつく横で、俺は冒険ノートを取り出した。
見つけた場所、魔物の特徴、傷の状態。分かる範囲で書き込んでいく。
◆
森をさらに進むと、二体目の死体が見つかった。
今度は牙猪だった。
【始まりの迷宮】で戦ったものより一回り大きく、首元には深い傷が残っている。身体にも、何かに強く叩きつけられたような痕があった。
「……まただ」
さらに進んだ場所で三体目を見つけた。
種類は違う。それでも身体には、前の二体と似た大きな傷が残っている。
「同じ魔物がやったのかな」
「たぶん」
しゃがみ込み、傷へ意識を集中する。
深い裂傷。傷の幅も近い。
でも――何かがおかしい。
「……こいつ、ここで殺されたんじゃない」
「分かるの?」
「死んでから少し時間が経ってる。でも、この辺りにはほとんど血がない」
ミアも周囲の地面を確認する。
「じゃあ、別の場所で殺されて……」
「ここまで運ばれた?」
「なんのために?」
「分からない」
また一つ、分からないことが増えた。
それなのに、少しだけ口元が緩んでしまう。
「ルカ」
「なんだよ」
「楽しそう」
「……ちょっとだけ」
「もう」
そのとき、クウが低く鳴いた。
「クゥ……!」
大きな耳を立て、森の奥へ身体を向けている。
さっき死体を見つけたときよりも警戒しているのが、俺にも分かった。
「何かいるな」
俺たちはすぐに立ち上がり、周囲を警戒しながら進んだ。
しばらくすると木々の間に大きな岩肌が現れ、その根元にぽっかりと黒い穴が開いているのが見えた。
「……あれ」
依頼書に書かれていた、最近発見された未探索の洞窟。
「着いた……!」
思わず足が速くなる。
「ルカ!」
服の襟を後ろから掴まれた。
「ぐえっ!」
「走らない!」
「まだ走ってない!」
「走ろうとした!」
「なんで分かるんだよ!」
「何年一緒にいると思ってるの!」
襟から手を離してもらい、今度は慎重に洞窟へ近づく。
入口周辺の土には、いくつもの足跡が残されていた。
「これ……」
俺の手のひらよりずっと大きい。
四本の指。その先には、深く食い込んだ爪の跡がある。
「さっきの傷……こいつか?」
「分からない。でも、何か大きいのがいるのは確かだね」
冒険ノートを開き、足跡の形と大きさを書き留める。
そのとき、クウの耳が大きく跳ねた。
「クゥッ!」
直後、洞窟の奥から低い唸り声が響いた。
空気が変わる。
「……ミア」
「うん」
ミアが弓を構え、俺も剣を抜く。
暗闇の中で何かが動き、のそり、のそりと重い足音を響かせながら、ゆっくりと洞窟の外へ姿を現した。
俺の背丈を遥かに超える巨大な熊だった。
黒褐色の毛に覆われた巨体。
丸太のように太い前脚。
その先には、岩でも砕けそうな爪が伸びている。
「……でか」
熊がこちらを向いた。
その瞬間、違和感を覚えた。
顔はこっちを向いている。
それなのに、わずかに頭を傾け、左側から俺たちを捉えようとしている。
もしかして――。
俺は熊へ意識を集中した。牙猪の死体に使ったときと同じように。
でも、こいつは生きている。
それでも使えるのか?
次の瞬間。
――分かる。
右眼。ほとんど機能していない。
それも最近負った傷じゃない。
さらに意識を向けると、前脚や後脚、脇腹にもいくつもの傷があることが分かった。
右眼とは違う。こっちは新しい。
毛に隠れて見えない場所にも、細かな傷がいくつも残っている。
「……こいつ、怪我だらけだ」
「え?」
考えるより先に、熊が低く唸った。
今は傷の原因を調べている場合じゃない。
「ミア! こいつ、右目がほとんど見えてない!」
「右目?」
「ああ。右側に回る!」
熊が吠えた。
腹の底まで響く咆哮に森の空気が震え、枝から鳥たちが一斉に飛び立つ。
「来る!」
熊が地面を蹴った。
巨体からは想像できない速度で距離を詰め、太い前脚が横薙ぎに振るわれる。
俺は咄嗟に右へ飛んだ。
直後、さっきまで立っていた場所を巨大な爪が通り抜け、風圧だけで身体が揺れる。
「ルカ!」
ミアの矢が飛び、熊の肩へ突き刺さる。だが、浅い。
「硬っ……!」
熊が今度はミアへ顔を向けた。
「ミア、下がれ!」
地面を蹴る。
「――風よ、押せ!」
背中を風に押され、一気に熊の右側へ回り込む。
予想通り、熊の反応が一瞬遅れた。
「やっぱり……!」
右側が見えていない。
剣を振り抜く。
刃が熊の脇腹を捉えた――が、分厚い毛と皮に阻まれ、浅く切り裂いただけだった。
「うそだろ!?」
熊が身体ごと振り向く。
「ルカ、離れて!」
慌てて飛び退く。
直後、爪が地面を抉り、土が跳ね上がった。
速い。硬い。力も桁違い。牙猪とはまるで違う。
それでも、右側への反応だけは明らかに遅い。
「ミア! 右から狙う!」
「分かった!」
俺が走って熊の注意を引き、その間にミアが位置を変える。
熊が俺を追って身体を回した瞬間、ミアが矢を放った。
「ルカ!」
合図と同時に風を起こす。
「――風よ、押せ!」
矢の背を風が押した。
速度を増した矢が熊の右肩へ深く突き刺さる。
「グオオオオッ!」
熊が吠え、前脚を振り回す。
「効いた!」
でも、倒れない。むしろ怒らせた。
「これ、まずくない?」
「ちょっとまずい!」
「ちょっと!?」
熊がこちらへ突進してくる。避けながら、必死に頭を回す。
右眼は見えない。
でも、ただ右側から攻撃するだけじゃ駄目だ。身体ごと向きを変えられれば、すぐにこっちを捉えられる。
だったら――残った左眼も、一瞬だけ見えなくすればいい。
足元を見る。
乾いた土。
「ミア! 次、少しだけ時間を稼いで!」
「何するの!?」
「ちょっと試したい!」
「その言い方すごく嫌なんだけど!」
熊が迫る。
ミアが矢を放ち、鼻先を掠めた。熊がそちらへ意識を向ける。
今だ。
剣を握ったまま、空いた手を地面へ向ける。
「――風よ、巻け!」
足元から巻き上がった風が土と枯れ葉をさらい、熊の顔を包み込んだ。
「グオッ!?」
熊が頭を振る。
右眼は見えない。そして今、残った左眼も土埃に塞がれている。
「ルカ!」
「分かってる!」
風に背中を押させ、地面を蹴る。
狙うのは熊の右側。さっき矢が刺さった肩のさらに下――前脚の付け根。
そこには、【???】で見つけた新しい傷があった。
傷がある。
なら、そこは他より刃が通りやすいかもしれない。
それは【???】が教えてくれた答えじゃない。
俺が、そう考えただけだ。
「――ここだ!」
振り抜いた剣が傷口へ食い込む。
「グオオオオオッ!」
熊が大きく仰け反った。すぐに剣を抜いて距離を取る。
熊は左眼だけで俺たちを睨み、荒い息を吐いていた。
俺も剣を構え直す。まだ来るなら、次はどうする。土埃はもう使えないかもしれない。ミアの矢も残りは――。
そのとき、熊が一歩後ろへ下がった。
「……え?」
もう一歩。
低く唸りながら洞窟の入口まで下がると、熊は突然身体を翻した。そのまま巨大な背中が暗闇の中へ消えていく。
「逃げる……?」
追おうとして、一歩だけ足が前へ出た。
知らない洞窟。
逃げた魔物。
その先。
見たい。
ものすごく見たい。
「ルカ」
ミアの声で足が止まった。
――洞窟の奥まで調べる必要はない。
昨日のジャンの言葉が蘇る。
「……分かってる」
俺は剣を下ろした。
「追わない」
「……えらい」
「子供扱いするなよ」
「クゥ!」
「クウまで褒めるな!」
力が抜け、その場に座り込む。
「……強かった」
「牙猪とは全然違ったね」
「ああ」
息を整えながら、熊が消えていった洞窟を見る。
右眼に残っていた古い傷。
前脚、後脚、脇腹にあった新しい傷。
そして、森で見つけた魔物たちの死体。
「……ミア」
「何?」
「あの熊、本当にこいつらを殺したのかな」
「え?」
俺にも、まだ分からない。
ただ――あの熊も何かと戦っていた。
「少しだけ、この辺を調べよう」
「洞窟には入らない?」
「入らない」
「本当に?」
「……本当に!」
「今ちょっと間があった」
「気のせいだ!」
俺たちは洞窟へは入らず、その周囲を調べることにした。
熊の巨大な足跡はすぐに見つかる。
入口と森の間を何度も行き来しているらしく、柔らかい土には同じ形の跡がいくつも残されていた。
でも、それだけじゃなかった。
「……ミア、これ」
熊の足跡から少し離れた場所にしゃがみ込む。
小さい。
熊のものとは比べものにならないほど小さな足跡が、いくつも土の上に残っている。一つや二つじゃない。
「これ、全部同じ魔物かな」
「たぶん。でも……多いね」
数えようとして、やめた。
重なりすぎている。
俺はノートを開き、見たままを書き込んでいく。
『大型の熊型魔物を確認。
右眼――古い傷。ほぼ見えていない。
脚、脇腹――新しい傷、多数。
洞窟周辺に熊とは別の小型魔物の足跡。
複数。数は不明。』
そして最後に、もう一行。
『森の魔物の死体との関係――不明。』
書き終えて顔を上げる。
目の前には、暗い洞窟が口を開けていた。
魔物の死体。
傷だらけの熊。
いくつもの小さな足跡。
何かが起きている。
でも、まだ何も繋がらない。
「……気になる」
「今日は行かないよ」
「分かってるって!」
「本当に?」
「……たぶん」
「帰るよ」
「待て! 今のは冗談だって!」
ミアが歩き出し、クウまでその後を追っていく。
「おい、クウ! お前は少しくらい俺の気持ち分かるだろ!」
「クゥ!」
「なんでミアのところ行くんだよ!」
結局、洞窟の奥を見ることはできなかった。
でも、初めての依頼はまだ終わっていない。
分かったことより、分からないことの方が増えていた。
そして俺は――そのことが少しだけ嬉しかった。




