第27話 地図にない村
なだらかな丘の斜面を下り始めると、眼下の村の様子が少しずつはっきりと見えてきた。
「……なんだか、変わった造りの家が多いな」
「うん、リベル村とは全然違うね」
石を積み上げ築いた頑丈な土台の上に、素朴な木の壁が組まれている。
屋根には焼き固めた瓦でも、編み込んだ藁でもなく、薄く均等に削り出された木の板が魚の鱗のように幾重にも重ねられていた。
見渡す畑の光景も奇妙だった。
見慣れた黄金色の麦畑や背の高いトウモロコシではない。膝丈ほどの青々とした背の低い植物が、等間隔にどこまでも美しく整列している。
「何を育ててるんだろ」
「さあ……見当もつかない」
「ミア、本でも見たことないか?」
「ないよ。私だって植物博士じゃないんだから」
「よし、じゃあ村の人に直接聞こう」
「まだ村に入ってすらいないでしょ」
ミアに窘められて顔を上げると、村の境界とおぼしき場所が見えてきた。
丸太を粗く組んだ木柵が谷を囲むように張り巡らされているが、門扉らしきものはない。人や荷車が通れる幅だけ、柵がぽっかりと開け放たれている。
その開口部のすぐ脇で、日当たりのいい長椅子に腰掛けた一人の老人が、煙管を燻らせていた。
足音に気づき、深く刻まれた目尻の皺を寄せてこちらを見上げてくる。
「……おや。旅人かい?」
「はい、こんにちは!」
「珍しいな、こんな山奥に」
老人の濁りのない瞳が、俺たちを順番に検分するように動いた。
背負い袋を担いだ俺。
隣に立つミア。
荷物を満載した小さな荷車。
そして――最後に、足元をちょこまかと歩く白い毛玉。
「…………」
「クゥ?」
「……坊主、そいつは何だ?」
「クウです」
「いや、個体名を聞いとるんじゃない」
「俺の旅の相棒です」
「だから生物としての種類を聞いとるんじゃ」
「分かりません!」
「……分からんのか」
「はい!」
胸を張って即答すると、老人は胡散臭そうに眉をひそめ、じっとクウを見つめた。
クウもまた、首をかしげて老人の顔を見つめ返す。
「…………」
「…………クゥ」
「まあ……人に噛みつかんのなら、何でもええがな」
「たぶん大丈夫です」
「たぶん?」
「絶対に噛みません!」
横からミアの鋭い肘鉄が脇腹に突き刺さり、俺は慌てて言い直した。
老人は煙管から紫煙を吐き出し、喉を鳴らして笑った。
「どこから流れてきた」
「西のリベル村ってところから、東へ向かって旅をしてます」
「リベル村……知らんなあ」
「この村の名前は何ていうんですか?」
「ハル村じゃよ」
やっぱり、聞いたことのない名前だ。
「あの、手持ちの地図にこの村が載ってなかったんですけど……」
「地図ぅ?」
荷車から取り出した羊皮紙の地図を広げて見せる。
老人は目を細め、煙管の先で地図の上をとんとんと叩いた。
「ほう……どれどれ。……本当じゃな。綺麗さっぱり何もありゃせん」
「自分たちの村が地図にないって、気づいてなかったんですか?」
「気づいたところで、村が消えてなくなるわけでもあるまいしなあ」
なんとも大らかな、というか気の抜けるような返答だった。
「昔から、どの地図にも載ってないんですか?」
「さあな」
「なんで載ってないんだろ?」
「知らん」
「じゃあ、さっき通ってきたあの立派な木橋と道は?」
「あるぞ」
「誰が造ったんですか?」
「大昔の先祖たちじゃろ」
「いつ頃の話ですか?」
「知らん」
「じゃあ、この先へ続く道は――」
「ルカ!」
背後からぐいと上着の裾を引っ張られた。
振り返ると、ミアが呆れ果てたジト目を向けていた。
「何?」
「質問攻めにしすぎ! まだ村に一歩も足を踏み入れてないんだよ?」
「……あ、そうだった」
つい気になって矢継ぎ早に聞いてしまった俺を見て、老人は煙管を膝で叩き、声を上げて豪快に笑った。
「かかか! 元気のいい小僧じゃ。まあ、何もない退屈な村だがな、好きなだけ見ていくといい」
「ありがとうございます!」
◆
会釈をして木柵をくぐり、村のあぜ道へと足を踏み入れた。
その瞬間、ふわりと鼻先をくすぐるものがあった。
「……ん? なんか、いい匂いがしないか?」
「うん……ほんのり甘くて、爽やかな香り」
街道の砂埃とは違う、どこか涼やかで芳しい匂いだ。
「あの畑からじゃない?」
ミアが指差した先には、さっき丘の上から見下ろしたあの奇妙な段々畑があった。
近くに寄って屈み込んでみると、艶やかな緑の丸い葉の合間に、星のような形をした可憐な白い小花がびっしりと咲き誇っている。
「これ、何の花だろ」
「むやみに素手で触らないほうがいいよ。かぶれる植物かもしれないし」
「触らないってば。見るだけ」
「本当に? 昨日からルカの行動力、ちょっと怖いんだけど」
「昨日から信用が地の底すぎないか!?」
そんな言い合いをしながら村の中道を進んでいくと、畑仕事の手を止めた村人たちが、物珍しそうにこちらへ視線を向けてきた。
「おや、旅の人かい?」
「若いのに、どこから来たんだい」
「……ねえ、あの足元の白いの何?」
道行く人たちからの質問は、大半がクウに向けられていた。
「クゥ!」
当のクウはまったく物怖じすることなく、尻尾をご機嫌に揺らしながら胸を張って歩いている。
……が、気がつけば、道端で遊んでいた村の子どもたちにあっという間に取り囲まれていた。
「わあ、ふわふわだ!」
「毛がすっごく柔らかい!」
「耳おっきい! 犬? 猫?」
「見て、尻尾が二つに分かれてる!」
「クゥ!?」
最初の一人が恐る恐る背中を撫で、二人目が喉元を撫で回す。
そして三人目の腕白そうな男の子が、二又に分かれた尻尾の付け根を興味津々で掴もうとした瞬間――。
「クゥーッ!」
クウは弾かれたように身を翻し、脱兎の勢いで逃げ出した。
「あ、逃げた!」
「待てー! もっと触らせてー!」
「クゥゥゥ!?」
子どもたちの歓声を背負い、白い毛玉が短い足を猛回転させて村の小路を爆走していく。
「……大丈夫かな」
「クウの逃げ足なら心配ないだろ」
「いや、追いかけてる子どもたちのほう。転んで怪我しないといいけど」
「そっちの心配!?」
苦笑いしながら、さらに村の奥へと歩を進める。
素朴な平屋の民家、木組みの共同井戸、軒先に並べられた手作りの農具。
石造りの水路には澄んだ雪解け水がさらさらと流れ、軒先という軒先には、乾燥させるためらしき青白い植物の束がずらりと吊るされていた。
「あれ……さっきの畑の花じゃない?」
「あ、本当だ」
軒下で籠を編んでいた初老の女性に、思い切って声をかけてみた。
「すみません、おばさん。あの吊るしてある草って何ですか?」
「ん? ああ、リュナ草だよ」
「えっ!?」
思わずミアと顔を見合わせた。
「リュナ草って……料理に使う、あの香草ですか?」
「そうだよ。兄ちゃんたち、食べたことあるかい?」
「昨日食べた!」
「街道の宿場で食べた包み焼きに入ってました!」
俺とミアが興奮気味にまくしたてると、おばさんは嬉しそうに目を細めて笑った。
「そうかいそうかい。街道の宿場や大きな町の市場へも、うちの村から卸してるからね。あんたたちが食べたのも、うちの畑で採れたやつかもしれないねえ」
「ここから運んでるんですか?」
「ああ、週に二回ほど、若い衆が荷車を出して街道まで届けてるんだよ」
なるほど、と胸のつかえが下りた。
あの地図にない道に、真新しい荷車の車輪の跡が残っていたのはそのためだったのだ。
「じゃあ、結構外から人が買い付けに来たりするんですか?」
「まさか。たまに馴染みの商人が顔を出すくらいさ。あんたたちみたいな旅人が迷い込んでくるなんて、何年ぶりかねえ」
「あんなにちゃんとした道があるのに?」
「大きな幹線街道からすっぽり外れてるからね。わざわざこんな袋小路の谷間まで入ってくる物好きは、滅多にいやしないよ」
俺は懐の地図を取り出し、空白のままの緑地を見つめた。
確かに、幹線街道から見ればほんの少し脇道に逸れただけの、何の意味もない山裾の谷間だ。
けれど――その『少しの外れ』にあるというだけで、この村は地図の線から完全に零れ落ちていた。
「なんか……不思議な感じだな」
「何が?」
「昨日俺たちが宿場で感動しながら食べた美味いものの中に、この村で育てられた草が入ってたかもしれないんだろ?」
「うん」
「なのに俺たちは、今日ここに来るまで、この村の名前すら知らなかった」
「そうだね」
知らなかっただけで、世界は確かに見えないところで繋がっていたのだ。
◆
昼時になり、村の中央にある小さな広場の木陰で休ませてもらうことになった。
荷車を止め、井戸の水で喉を潤していると、先ほどのリュナ草農家のおばさんが「旅の足しにしな」と湯気の立つ昼食を差し入れてくれた。
灰の中でじっくり蒸し焼きにされた丸ごとの芋。
干し肉と根菜が溶け込んだ温かい塩スープ。
そして――。
「これ、パンの上に何かが塗ってある」
「リュナ草の若葉を細かく刻んで、岩塩と植物油で練り合わせたものだよ。うちじゃいつもこうして食べるんだ」
薄切りの硬パンに、鮮やかな緑色のペーストがたっぷりと塗られていた。
たまらず大口でかぶりつく。
「…………っ、うまっ!」
「ルカ、昨日から『うまっ』しか言ってないよ」
「だって本当に美味いんだから仕方ないだろ!」
噛みしめると、パンの香ばしさの奥から、リュナ草の爽やかな青い香りとまろやかな油のコク、そして引き締まった塩気が口いっぱいに弾けた。昨日の肉の包み焼きよりも、素材そのものの澄んだ風味が鮮烈に伝わってくる。
俺は夢中でパンを頬張りながら、ノートを広げて炭ペンを握った。
『・ハル村』
『地図には載っていない隠れ里。』
『特産品:リュナ草(宿場の包み焼きに入っていた香草)。街道へ出荷している。』
『リュナ草の油塩ペーストを塗ったパン:もの凄くうまい。毎日食える。』
「……最後の感想、絶対に冒険に関係ないでしょ」
「関係ある! 俺にとっては最重要情報だ!」
「はいはい」
そのとき――。
「クゥゥゥ……」
広場の隅の草むらから、情けない唸り声が響いた。
見ると、ボロ布のように草まみれになったクウが、這々の体で戻ってくるところだった。
背中には一番小さなおチビちゃんが一人乗り、左右の耳元には女の子が二人、さらに後ろから四人の少年たちが歓声をあげて追いすがっている。
「クウ、おかえり」
「クゥ……」
真っ白だった毛並みをぐしゃぐしゃに乱し、クウは助けを求めるような涙目で俺を見上げてきた。
「大人気だったね、クウ」
「クゥーッ!」
「ルカ、相棒なんだから助けてあげなよ」
「よし分かった。……こら、お前たち! クウもお腹が空いてヘトヘトだから、少し休ませてやってくれ」
「えーっ!」
「もっとモフモフしたい!」
「あとでな。クウがお昼寝から起きたら、また遊んでいいか聞いてやるから」
「本当!?」
「クウがいいって言ったらな」
子どもたちの視線が一斉にクウへと突き刺さる。
「クゥ!?」
クウは悲鳴のような声を上げ、素早く俺の背中へと潜り込んだ。
……が、俺が「よしよし」と手を伸ばした瞬間、するりと身をかわしてミアのスカートの後ろへ避難した。
「……おい、誰が本物の相棒だよ」
「ふふ、やっぱり私でしょ?」
「裏切り者め……!」
広場に、どっと温かい笑い声が広がった。
いつの間にか、農作業の手を休めた村人たちが遠巻きに集まり、笑顔で俺たちのやり取りを眺めていた。
知らない土地。
地図にすら載っていない、名前も知らなかった村。
なのに、胸を締め付けるような居心地の悪さはどこにもなかった。
◆
午後は、村の中をのんびりと歩いて回った。
武器を打つような鍛冶場はない。
あるのは木造の共同食糧庫、家畜の山羊小屋、カタカタと長閑な音を響かせて回る小さな水車、そして村外れの小高い丘にある、石を積んだだけの質素な墓地。
何か特別な伝説が眠っているわけでもない。
隠された財宝も、魔導具も、迷宮の入り口もない。
本当に、どこにでもあるような、けれど確かに息づいているだけの静かな村だった。
「……結局、何もなかったね」
夕暮れ時。
村全体を見渡せる丘の斜面に腰を下ろし、茜色に染まる谷間を見つめながらミアが言った。
「うん」
「ちょっと、がっかりした?」
「なんで?」
「だって、地図にない道を見つけたとき、古代遺跡かもとか、昔の王様の隠し通路かもって、あんなに目を輝かせてたから」
「ああ……」
確かに、あの分岐点に立った瞬間は、何か途方もない冒険の秘密が眠っているんじゃないかと期待していた。
けれど。
「ううん。来てよかったよ」
「そっか」
「だってさ」
俺は膝の上に広げた地図の、ぽっかりと空いた空白の緑地を見下ろした。
そして、炭ペンの先で、小さな丸印を丁寧に描き込んだ。
『ハル村』
「地図に線が引かれていなくたってさ」
顔を上げる。
石造りの煙突から立ち上る、夕餉を支度する白い煙。
鍬を担いで家路につく農民たちの笑い声。
夕闇が迫るあぜ道を、まだ名残惜しそうに駆け回る子どもたちの影。
「ここにはちゃんと、人が生きて、笑って、暮らしてるんだなあって」
「……うん」
「地図に載っていないからって、そこに何もないわけじゃないんだよな」
ミアは俺の書き足した地図を覗き込み、それから優しく目を細めた。
「また一つ、増えたね」
「何が?」
「ルカの知らなかった、この世界の本当の姿」
「…………」
俺は思わず照れくさくなって、頭をかきながら笑った。
「うん。増えた」
◆
その夜、村長の計らいで、物置に使われていた清潔な空き家を一晩貸してもらえることになった。
明日は一度幹線街道へ戻るか、あるいは村の先を少し探索してみるか。
村人の話では、この谷の北の尾根を越えた先にも、昔使われていたという古い山道が残っているらしい。
村の集会所で振る舞われた素朴な夕飯の席でのことだった。
昼間クウを追い回していた腕白少年のひとりが、木皿の芋を頬張りながら、身を乗り出して話しかけてきた。
「ねえ、兄ちゃんたちって、本物の冒険者なんだろ?」
「おう、一応な」
「へへっ、やっぱり! じゃあさ、じゃあさ」
少年は秘密の話を打ち明けるように声を潜め、悪戯っぽくニヤリと笑った。
「――『風が止まる森』の話、知ってる?」
俺の手が、ピタリと止まった。
口元へ運ぼうとしていたパンを皿に戻し、少年の顔を見据える。
「……何それ」
思わず身を乗り出した俺のすぐ隣で。
ミアが両手で顔を覆い、この世の終わりのような、もの凄く嫌そうな深いため息を吐き出した。




