第28話 風が止まる森
「――『風が止まる森』の話、知ってる?」
少年のその一言で、俺の意識は完全に夕飯から離れた。
「何それ。どこにあるの? なんで風が止まるの? 森の中だけ? いつから? 魔物はいる?」
「ちょ、ちょっと待ってよ兄ちゃん!」
「ルカ」
隣から低い声が飛んできた。振り向くと、ミアが両手で顔を覆ったまま、指の隙間からじっと俺を睨んでいる。
「なに?」
「昼間、おじいさんに質問攻めにして怒られたの、もう忘れたの?」
「怒られてはいないだろ」
「そこじゃない!」
「クゥ」
ミアの足元で丸くなっていたクウまで、なぜかうんうんと頷いている。
「お前までそっちにつくのかよ……」
「クゥ!」
力強く返事をされた。昼間の件をまだ根に持っているらしい。
少年は俺たちのやり取りを見てケラケラと笑うと、木の椀を置いて口元を拭った。
「村の北に森があるんだよ。山を一個越えたところ」
「北……」
昼間、村人から聞いた話を思い出す。谷の北側の尾根。その向こうには、昔使われていた古い山道が残っているという。
「そこにあるの?」
「うん。でも、大人は近づくなって言う」
「なんで?」
「知らない」
「危ない魔物がいるとか?」
「知らない」
「毒の草とか?」
「知らない」
「じゃあ――」
「だから知らないってば!」
「ルカ、子ども相手に尋問しない」
「聞いてるだけだって!」
すると、向かいで酒を飲んでいた村の男が豪快に笑った。
「ははは! 坊主、本当に冒険者なんだな。目の色が変わっとるぞ」
「だって『風が止まる森』ですよ!?」
「名前だけ聞けば大層だがな」
男は木杯を傾けながら、何でもないことのように続けた。
「実際、何があるわけでもない。ただの森だ」
「……ただの森?」
「ああ」
「風が止まるのに?」
「止まるな」
「ただの森じゃないじゃないですか!」
「そこが変なだけだ」
「十分変ですよ!」
思わず立ち上がると、ミアが無言で俺の上着を引っ張り、強制的に座らせた。
「昔からあるんですか?」
今度は少しだけ落ち着いて尋ねる。
「俺がガキの頃にはもうそう呼ばれてたな」
「その前は?」
「さあな。親父も爺さんも、昔からそうだったって言ってた」
「誰か調べたことは?」
「あるんじゃないか? 俺たちは行かんから知らん」
「どうして行かないんです?」
その問いに、男は少しだけ首を傾げた。
「行く理由がないからな」
「…………」
あまりにも単純な答えだった。
「山菜なら村の周りで採れる。薪も足りとる。狩り場だって南側にある。わざわざ尾根を越えて、気味の悪い森に入る必要なんぞない」
「でも、気にならないんですか?」
「ならんなあ」
「なんで!?」
「ルカ」
「はい」
ミアに睨まれ、再び座り直す。
信じられない。風が止まる森だぞ。名前だけで三日は眠れなくなりそうなのに。
「……ちなみに」
「まだ聞くの?」
「最後! 最後だから!」
俺は男へ向き直った。
「何がどう『止まる』んですか?」
「ああ、それか」
男は酒を一口飲んだ。
「森へ入れば分かる」
「…………」
ごくり、と唾を飲み込む。
「外でどれだけ強い風が吹いててもな。森の中に一歩入った途端――ぴたりと止まるんだとよ」
ぞくり、と背筋を何かが駆け抜けた。
「……一歩?」
「ああ」
「徐々に弱くなるんじゃなくて?」
「知らん。俺は入ったことないからな。昔入った奴がそう言ってたってだけだ」
「誰ですか、その人!」
「死んだ」
「えっ」
「八十過ぎまで生きて、十年くらい前にな」
「びっくりさせないでくださいよ!」
「かかか!」
周囲の村人たちから笑い声が上がった。どうやらこの村にとって『風が止まる森』は、恐ろしい禁足地というより、子どもを近づけないための少し不気味な場所程度の扱いらしい。
けれど――俺には、その話を笑い飛ばせなかった。
風。それは、俺が十五歳の儀式で授かった属性だ。
目には見えない。けれど、いつだってそこにある。草原を渡り、木々を揺らし、雲を運び、鳥の翼を押し上げる。
完全に消えるなんてことが、本当にあるのだろうか。
「…………」
確かめたい。自分の目で。
「ルカ」
「ん?」
「明日行くつもりでしょ」
「…………」
「その顔やめて」
「まだ何も言ってないだろ」
「分かるよ。何年一緒にいると思ってるの?」
「俺たち十五歳だから、最大でも十五年だな」
「そういう話じゃない!」
俺は笑った。でも、否定はしなかった。
◆
翌朝。
「よし!」
村の北側、荷車を置かせてもらった空き家の前で、俺は背負い袋の紐を強く締め直した。
「行こう!」
「……やっぱり行くんだ」
「もちろん」
「クゥ……」
クウが露骨に嫌そうな顔をした。
「大丈夫だって。ちょっと見てくるだけだから」
「昨日も聞いた気がする、その言葉」
「気のせいだ」
「古い橋を渡ったときも言ってた」
「気のせいだ」
「知らない道に入ったときも言ってた」
「気のせいだ」
「もう信用しないからね」
ミアはため息をつきながらも、しっかり弓と矢筒を背負っている。なんだかんだ言いつつ、来てくれるのだ。
「荷車はどうする?」
「村に置かせてもらおう。山道じゃ邪魔になるだろうし」
「それがいいね。必要なものだけ持っていこ」
水筒、干し肉、火打ち石、ロープ、簡単な薬草、野営用の布。そして、俺のノートと地図。最低限の装備だけを背負い、俺たちは村の北へ向かった。
村外れを抜けると、すぐに道は細くなった。人ひとりが歩ける程度の土道が、山の斜面を縫うように続いている。
「これが昔使われてた山道かな」
「たぶん。完全には消えてないね」
草に覆われてはいるものの、注意して見れば道筋は分かる。ところどころに苔むした石が並べられ、斜面が崩れやすい場所には古びた丸太が打ち込まれていた。
誰かが造った道だ。けれど、長い間ほとんど使われていない。
「なんで使われなくなったんだろ」
「村の人が言ってたでしょ。北に行く必要がなくなったんじゃない?」
「昔は必要があったってこと?」
「……そうなるのかな」
また一つ、気になることが増えた。俺はノートを取り出そうとして――。
「歩きながら書かない!」
「まだ何もしてない!」
「顔で分かる!」
仕方なくノートをしまう。
しばらく山道を登り続けると、木々の間からハル村が見えた。朝靄の残る谷底、小さな家々、青々としたリュナ草の畑。昨日までは名前すら知らなかった場所が、今ではもう地図の中の一つの点ではなくなっている。
「……また来たいな」
「リュナ草のパン目当て?」
「それもある」
「やっぱり」
やがて道は尾根へ到達した。
「うわ……」
思わず声が漏れる。
山の向こう側に、広大な森が広がっていた。昨日歩いてきた森とは違う。巨大な針葉樹が密集し、濃い緑色の海のように山肌を覆い尽くしている。その奥には、さらにいくつもの山々が連なっていた。
「結構広いね……」
「地図だと……」
俺は羊皮紙を開く。ハル村を書き加えた場所から北、やはり何も描かれていない。
「また空白だ」
「ルカ、嬉しそう」
「そりゃ嬉しいだろ」
まだ知らない場所がある。それだけで胸が高鳴った。
「森はどれだろ?」
「たぶん……あれじゃない?」
ミアが指差す。尾根から北東へ下った場所、周囲より一段低くなった盆地のような地形に、ひときわ密度の高い森が広がっていた。
「……あそこだけ、ちょっと暗く見えない?」
「うん」
雲がかかっているわけではない。朝日は森全体へ平等に降り注いでいる。なのに、その一帯だけが妙に沈んで見えた。
俺たちは顔を見合わせる。
「行ってみよう」
「うん」
「クゥ……」
「クウもな」
「クゥー……」
明らかに帰りたそうだった。
◆
尾根から下り始めて、およそ一時間。
道は次第に荒れていった。倒木を跨ぎ、伸び放題の草をかき分けながら進む。それでも、古い山道そのものは森へ向かって続いていた。
「……変だな」
「何が?」
「この道」
俺は足元を見る。長い年月で土に埋もれているものの、平らな石が一定の間隔で敷かれている。
「ハル村の南側の道より、ちゃんと造られてる」
「本当だ……」
「昔は、この先に何かあったのかな」
ミアは答えなかった。いや、答えられるはずがない。今はまだ。
だからこそ、確かめる。
さらに歩く。木々が増え、空が狭くなる。風に揺れる葉の音が、さわさわと頭上から降り注いでいた。
「もう近いと思う」
「どうして?」
「ほら」
俺は前方を指差した。木々の種類が変わっている。俺たちが歩いている場所には細身の針葉樹が多いが、数十歩先から突然、幹の太い黒っぽい木々が密集していた。まるでそこに見えない境界線でも引かれているように。
「……あれが?」
「たぶん」
俺たちは足を止めた。
風が吹いている。山を下ってくる冷たい風。
俺の髪が揺れ、ミアの短い髪がなびき、木々の葉が擦れ合う。
ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ。
いつもの森の音だ。
「行くよ」
「……うん」
俺が先頭に立った。
一歩、二歩、三歩。黒い木々へ近づく。まだ風は吹いている。
五歩、四歩、三歩――なぜだろう、胸がざわつく。
二歩、一歩。
そして、俺は黒い木々の間へ右足を踏み入れた。
「――っ」
思わず息を呑んだ。音が、消えた。
「……え?」
後ろからミアの声。俺は動けなかった。
右足は森の中、左足は森の外。その境界に立ったまま、ただ前を見つめる。
葉がある。枝がある。草がある。
けれど、何一つ揺れていない。
俺の背後では、今も風が吹いている。ざわざわと木々が鳴っている。なのに、目の前の森だけが――完全に静止していた。
「……本当に」
ミアが小さく呟いた。
「風が、ない……」
俺はゆっくりと森の中へ入った。左足も境界を越える。
その瞬間、肌を撫でていた風が完全に消えた。
「…………」
試しに振り返る。ほんの一歩後ろ、そこでは木々が風に揺れている。
俺は右手だけを境界の外へ伸ばした。指先に風を感じる。引き戻す。消える。
「なんだ、これ……」
もう一度。出す、風。戻す、無風。
「ルカ」
「見て。ここ、本当に境目がある」
「分かったから、何回もやらなくていい」
「すごいぞ、ミア!」
「うん……これは、ちょっとすごい」
ミアも恐る恐る森へ足を踏み入れた。
「……気持ち悪い」
「そうか?」
「だって、森なのに音がしない」
言われて気づく。鳥の声がない。虫の羽音もない。葉擦れの音もない。
俺たちの呼吸と、靴が土を踏む音。それだけが、妙にはっきり聞こえる。
「クウ?」
振り返ると、クウは境界の外にいた。四本の足を踏ん張り、こちらをじっと見つめている。
「おいで」
「クゥ……」
「大丈夫だって」
「クゥゥ……」
来ない。普段なら俺が先へ行けば、なんだかんだでついてくる。けれど今日は違った。耳を伏せ、二股の尻尾を低く垂らし、森の奥を睨みつけている。
「……クウ?」
俺は笑うのをやめた。クウの額、白い毛の間にある小さな菱形の結晶。それが――
「ミア」
「なに?」
「あれ……」
淡く。本当に淡く、光っていた。
「……光ってる?」
「うん」
初めて見る反応だった。クウ自身も戸惑っているらしく、前足で額をこすろうとしている。
「クウ、こっち来れるか?」
「クゥ……」
一歩、クウが恐る恐る近づく。境界の直前で止まり、鼻先を伸ばした。
「クゥ……」
そして、前足を一歩、森の中へ入れた瞬間――
――キィン!
「っ!?」
「きゃっ!」
甲高い音が森に響いた。クウの額の結晶が、一瞬だけ強く輝く。
「クゥッ!」
驚いたクウが飛び退いた。
「クウ!」
俺は慌てて駆け寄る。
「大丈夫か!?」
「クゥ……」
怪我はない。額の結晶も元に戻っている。
けれど。
「今の……何?」
「分からない」
分からない。だからこそ、俺は森を見る。
さっきまでとは違って見えた。ただ風が吹かない不思議な森、それだけではない。
ここには何かある。クウが反応する、何かが。
「…………」
胸の奥が熱くなる。怖い。でも、それ以上に――知りたい。
「ルカ」
「うん」
「その顔してるとき、絶対ろくなことにならない」
「ひどくない?」
「事実だもん」
俺は苦笑しながら、ノートを取り出した。
『ハル村北方。地図に記載なし。』
『風が止まる森。境界を越えた瞬間、完全な無風状態になる。』
『クウの額の結晶が反応。原因不明。』
『――要調査。』
「よし」
「……帰る?」
「まさか」
「だよね」
ミアは諦めたように弓を握り直した。俺も立ち上がる。
「少しだけ行ってみよう」
「その『少しだけ』、今日何回目?」
「まだ一回目だ」
「昨日から数えたら?」
「……行こう!」
「誤魔化した!」
「クゥー!」
クウの抗議まで背中に飛んでくる。
それでも、俺は森の奥へ目を向けた。
風のない森。音のない森。
そして――クウの結晶が初めて反応した場所。
まだ、このときの俺は知らなかった。
この森で見つけるものが、父さんが持ち帰った、あの『黒い板』と――初めて繋がることになるなんて。




