第26話 地図にない道
街道が、二つに分かれていた。
「……どっちだと思う?」
立ち止まった荷車の前で、ミアが羊皮紙の地図を両手で広げる。
俺も荷車の引き手を置き、横から覗き込んだ。
「右だな」
「地図の通りなら、そうだね」
俺たちが進む予定の幹線街道は、右に伸びる道だ。
道幅も広く、乾いた地面には何台もの大型荷馬車が通った深い轍が刻まれている。
問題は――左に分岐している道だった。
「こっちは?」
「……載ってない」
「やっぱりか」
「うん」
ミアが首を傾げながら、地図を俺の目の前に突き出して見せる。
指先でなぞってみても結果は同じだった。俺たちが立っているこの分岐点そのものは記されているのに、そこから左手の丘陵地帯へ伸びているはずの道が、どこにも描かれていない。
「…………」
「ルカ」
「何?」
「その、獲物を見つけたみたいな目をするのやめて」
「まだ何も言ってないだろ」
「言わなくても顔見れば分かるから」
俺は視線を左の道へと戻した。
街道と呼ぶにはいくらか道幅が狭い。けれど、獣が通るだけの荒れた獣道では決してなかった。踏み固められた下草の間には、ところどころに小さな荷車の車輪が通ったような薄い跡が残っている。
誰かが、確かに日常的に行き来している道だ。
なのに、手元の地図には一切記載がない。
「……行ってみたい」
「やっぱり言った」
「だって、気になるだろ?」
「右の道をそのまま進めば、夕方前には次の宿場に着くんだよ」
「左の先は?」
「知らない」
「じゃあさ――」
「『知らないからこそ行きたい』んでしょ?」
「…………」
完全に先回りされた。
「よく分かってきたな、ミア」
「何年あんたの幼馴染やってると思ってるの」
「クゥ」
「お前まで腕組みして頷くな」
「クゥー」
ふさふさの尻尾を揺らすクウに軽く突っ込みを入れつつ、俺は左の道を見据えた。
昨日までの俺なら。
いや、大森林迷宮へ行く前の俺なら、間違いなく何も考えずに荷車を引っ張って突っ込んでいただろう。地図に載っていない、誰も知らない。ただそれだけの理由で十分だった。
けれど。
あの雨の中、泥沼にはまり込んで動けなくなった荷車の光景が、自然と脳裏をよぎる。
大森林迷宮の張り詰めた空気。
深手を負っていたガイルたち。
そして――何があっても生きて帰るために、常に周囲を観察し、最悪の事態を想定していたセリアの横顔。
「…………」
俺は息を吸い込み、頭上の空を見上げた。
「晴れてるな」
「うん」
「東の空にも、雨雲らしい黒い影はない」
「そうだね」
「食料の残りは?」
「干し肉と硬パン、あと買い足した穀粉で、詰めて三日分くらい」
「水は?」
「皮袋に二日分。途中で補給できなかったら、その時点で引き返したほうがいいかも」
「分かった」
俺はミアの広げる地図を指で測った。
「今いる場所は、昨日の町から東へ半日歩いた地点だな?」
「うん。引き返すとしても、半日もあればあの町に戻れる」
「よし。左の道を今日いっぱい進んで、もし何もなかったら?」
「戻る?」
「うん。それなら、最悪でも明日の昼過ぎにはこの分岐点まで戻ってこられる」
「……」
「よし、そうと決まれば準備だ」
「……ちょっと、ルカ」
「何?」
「あんた、本当にルカ?」
「めちゃくちゃ失礼だな!」
「だって……前ならもう荷車引いて駆け出してたでしょ」
「俺だって学ぶんだよ。雨の日に散々痛い目を見たし」
「数日前の話じゃん」
「反省を活かすのに時間なんて関係ないだろ!」
「クゥ!」
「ほら、クウも完全に同意してる」
「クウはただ鳴いてるだけでしょ」
ミアは呆れ混じりに笑いながらも、荷車のロープの結び目を一緒に点検してくれた。
水筒の蓋、毛布の防水シート、火口箱、簡単な応急薬、予備の麻縄。
すべて万全だ。
俺は腰の袋から冒険ノートと炭ペンを取り出した。
「何描いてるの?」
「ここ」
分岐点の角に転がっている、苔むした大岩。
そこから少し南に離れた位置に、一本だけぽつんとそびえ立つ背の高い枯れ木。
戻ってきたときに見落とさないよう、周囲の目印をノートの余白へ手早くスケッチする。
『・街道の分岐点。苔の大岩と一本枯れ木。左に地図外の道あり。』
「…………」
「今度は何だよ」
「セリアの生き霊でも憑いてるんじゃないかと思って」
「失礼すぎるだろ! あいつは生きてるし髪の色も違う!」
「クゥ、クゥ!」
「お前、今明らかに馬鹿にして笑ったな!?」
騒がしく言い合う俺たちを見て、ミアはふっと表情を緩め、持っていた地図を丁寧に折り畳んだ。
「じゃあ、行こっか」
「……え?」
「何よ」
「止めないのか?」
「なんで?」
「いや……だって」
今までなら、俺が無茶な寄り道を言い出して、ミアが必死に止めて、それでも俺が押し切ろうとして小言を言われるのがお決まりのパターンだった。
「だって、ちゃんと考えたんでしょ?」
「うん」
「空も見て、食料も水も確認した」
「うん」
「引き返すタイムリミットも決めたし、退路の目印も記録した」
「うん」
「だったら」
ミアは左の道を見つめ、どこか悪戯っぽく口元を綻ばせた。
「私だって、行ってみたいよ。地図にない道の先」
「…………」
「何その顔」
「いや……ミアも気になるんだなと思って」
「当たり前でしょ。知らない場所が気になるのは、あんただけじゃないんだから。いつも止めてるのは、ルカが何も考えずに頭から突っ込むから!」
「……返す言葉もございません」
「よろしい」
「クゥ!」
三人で顔を見合わせ、俺たちは左の道へと足を踏み入れた。
◆
最初は、どこにでもありそうな緩やかな山道だった。
左右には膝丈ほどの青草が広がり、まばらに低木が生えている。
遠くにはなだらかな丘陵が連なり、魔物の気配や獣の咆哮は聞こえてこない。
「何があると思う?」
「さあね。知らない」
「予想でいいんだよ」
「うーん……炭焼き小屋か、小さな開拓村?」
「俺は古代の隠し遺跡だと思う」
「なんでそう大げさになるの」
「だって地図に載ってない道だぞ? 昔の王様が秘密裏に造らせた抜け道かもしれないじゃん」
「その王様、なんでこんな田舎の野原に抜け道造るのよ」
「……浪漫がないぞ、ミア」
「クゥ」
「クウ、お前はどう思う?」
「クゥー!」
「まったく分からん」
笑いながら歩き続ける。
一時間、二時間。
道は途切れることなく、緩やかなカーブを描きながら奥へと続いていた。
「やっぱり、ちゃんと使われてる道だな」
「うん、見て」
ミアが指差した地面には、比較的新しい荷車の轍が残っていた。
数日前、あるいは昨日にでも誰かが通り抜けたような、くっきりとした跡だ。
「人が生活してる証拠だね」
「ああ」
さらに進むと、さらさらと涼やかな音を立てる清流に行き当たった。
驚いたことに、そこには丸太を切り出して組まれた頑丈な木製の橋が架かっていた。
「橋まで整備されてるぞ」
「じゃあ、この先に確実に行き先があるってことだね」
俺は橋を渡り終えたところで足を止め、ノートに書き加えた。
『・丸太組みの木橋。川の水は澄んでいて飲用可能。』
書き終えてから、振り返って来た道を眺める。
「何してるの?」
「帰り道から見た景色を覚えてるんだ。行きと帰りじゃ、見え方が全然違うからな」
「へえ……ちゃんとセリアの言ってたこと、覚えてるんだ」
「昨日覚えたばっかりだけどな。『進むことと同じくらい、退路の景色を頭に叩き込め』って」
大森林迷宮で、セリアが口酸っぱく繰り返していた言葉だ。
知らない場所へ挑むための準備。
いつでも無事に戻ってこられるという確信。
それは、冒険のワクワク感を削ぐような窮屈なものじゃない。
むしろ――。
「……退路がちゃんとしてるからこそ、もっと遠くの知らない場所へ踏み込めるんだよな」
「え?」
「なんでもない」
ミアが少しだけ目を見張り、それから嬉しそうに微笑んだ。
◆
昼を少し回ったところで、街道脇の岩陰に腰を下ろして休憩を取った。
町で買っておいたパンをちぎり、干し肉を噛み締める。
足元では、クウが俺の膝の上に前足を載せ、じっと干し肉を見つめていた。
「お前にはさっき端っこをあげただろ」
「クゥ……」
「これは俺の分だ」
「クゥゥ……」
「その、捨てられた子犬みたいな目で見るのをやめろ」
「ルカ、本当にその顔に弱いよね」
「……一切れだけだからな!」
「クゥッ!」
差し出した瞬間、指ごと持っていかれそうな勢いで肉片が消えた。
相変わらずの早業だ。
喉を潤し、荷車を引いて再び歩き出す。
道は次第に緩やかな上り坂へと変わり、小高い丘の尾根へと向かって伸びていた。
「この丘を越えて何もなかったら、今日は引き返して野営の準備かな」
「そうだな。日暮れ前に戻れる範囲にしておこう」
「水筒の水、帰り用にも残しておいてね」
「分かってるって」
「本当に?」
「今日の俺は、一味違うんだよ」
「昨日からそればっかり」
そんな軽口を叩きながら、坂道を登りきろうとした、そのときだった。
先頭をとてとてと歩いていたクウが、ピタリと足を止めた。
三角の耳が、ピンと前方に向けられる。
「クゥ!」
「どうした、クウ?」
クウは短い足をフル回転させ、坂の頂上へ向かって一気に駆け出した。
「あ、こら! 待て!」
「クウ、走ったら危ないよ!」
慌てて荷車を引きながら丘の頂へと駆け上がる。
息を切らしながら頂上に到達した瞬間――。
「…………」
俺の言葉が、喉の奥で止まった。
「ルカ、急に止まらないで……って」
追いついてきたミアも、俺の隣で息を呑んだまま固まった。
「……村?」
丘の向こう側。
すり鉢状に窪んだ小さな谷間に、思いがけない景色が広がっていた。
家がある。
一軒や二軒じゃない。
十数軒の素朴な木造家屋が、谷底の小川を囲むように整然と並んでいる。
青々と茂る手入れの行き届いた段々畑。
石造りの煙突から立ち上る、幾筋もの白い生活の煙。
農具を担いで畦道をのんびりと歩く人影。
草を食む家畜たちの長閑な鳴き声。
紛れもなく、そこに人が暮らし、息づいている『村』だった。
「ミア、地図!」
「あ、うん!」
慌てて広げた羊皮紙の上を、二人で穴が開くほど見つめ直す。
現在地。
丘の位置。
谷の地形。
何度見比べても――。
「……やっぱり、載ってない」
「ああ」
この地図の上では、俺たちが今立っている場所も、眼下に広がる谷間も、ただの空白の緑地として描かれているだけだった。
俺は眼下の村を見下ろし、手元の地図を見下ろし、もう一度、煙が立ち上る村を見つめた。
「本当にあるじゃん」
「うん……本当にあるね」
「ちゃんと、人が住んでる」
「うん」
胸の奥底から、熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
派手な古代遺跡じゃない。
眩い財宝が眠っているわけでもない。
手強い魔物が潜む迷宮でもない。
ただ、名も知らぬ人々が慎ましく暮らす、ごく普通の村だ。
けれど。
俺たちの知る地図には、線の一本すら引かれていない場所。
自分たちの足で歩き、自分たちの目で確かめたからこそ出会えた、本物の未知。
「……行ってみよう」
俺が言うと、今度はミアも小さく息を呑んでから、しっかりと頷いた。
「うん。行ってみよう!」
「クゥ!」
誇らしげに胸を張るクウを先頭に、俺たちはゆっくりと丘の斜面を下り始めた。
地図にない道を歩いたその先には。
確かに、地図にない村が存在していた。




