第25話 雨の街道
町を出るときから、空はどんよりと曇っていた。
東の空には薄い雲が幾重にも重なり、昨日までの青空はどこにもない。
東の地平線から薄暗い雲がじわりと広がっている。
けれど、風はまだ穏やかで、今すぐ雨が落ちてくるような気配はなかった。
「よし、行こう!」
「ちょっと待って」
意気揚々と荷車の取っ手を握り直したところで、ミアに袖を引かれた。
「何?」
「今日、雨降らないかな」
「雨?」
空を仰ぎ見る。確かに青空は見えない。
でも、雨雲特有のずっしりとした重苦しさはないように見えた。
「大丈夫だろ。雲もそんなに真っ黒じゃないし」
「そうかな……昨日の宿の人、午後から天気が崩れるかもしれないから気をつけてって言ってたよ」
「でも、今日中に次の宿場まで進んでおきたいだろ?」
「それはそうだけど」
「だったら早く出ればいいんだよ。雨が降る前に着いちゃえば問題ない!」
「…………」
「何その顔」
「そういうときのルカの勘って、だいたい外れるよね」
「外さない! 俺の野生の勘を舐めるな」
「本当に?」
「大丈夫だって!」
俺は自信満々に、東へ続く街道を指差した。
「絶対に行ける!」
◆
――それから、きっかり三時間後。
「行けなかったぁぁぁぁぁっ!」
「だから言ったでしょぉぉぉっ!」
視界が真っ白に霞むほどの、絵に描いたような土砂降りだった。
容赦なく叩きつける大粒の雨が、俺たちの頭や肩を容赦なく打ち据える。髪も上着も一瞬でずぶ濡れになり、冷たい水滴が首筋を伝い落ちていく。
乾いていたはずの街道の土は瞬く間に雨水を吸い、あっという間に粘りつく赤泥の沼へと変貌していた。
「こんな急に降るなんて聞いてないぞ!」
「午後から崩れるって宿の人が言ってたって言ったじゃん!」
「まだ昼過ぎだろ!」
「十二時過ぎたら午後なの!」
「理屈はそうだけどさぁ!」
「クゥゥ……」
情けない鳴き声に目をやると、クウは荷車の防水幌の奥深くにすっぽりと潜り込み、耳をぺたんと伏せて丸くなっていた。
「ずるいぞクウ! お前だけ乾いた場所に隠れやがって!」
「クゥ!」
「そこ、俺も入れてくれ!」
「ルカが入ったら荷車が壊れるでしょ!」
とにかく、一刻も早く雨をしのげる場所を探さないとまずい。
そう焦って荷車の取っ手にぐっと力を込めた、その瞬間だった。
ガクンッ。
「うわっ!?」
いきなり荷車が急制動をかけ、勢いよく引いていた俺は前のめりにつんのめりそうになった。
「どうしたの!?」
「ちょ、ちょっと待て……」
泥だらけの長靴で踏ん張りながら後ろを振り返る。
荷車の木製車輪が、轍にできた泥の深みへ見事に半分ほど埋没していた。
「…………」
ぐっと腰を落とし、渾身の力で引っ張ってみる。
「ぬおおおおおっ!」
びくともしない。
「何やってるの、早く引っ張って!」
「見れば分かるだろ、はまってんだよ!」
「分かるけど!」
「手伝ってくれ!」
ミアが荷車の後ろに回り、泥除けに手をかけた。
「せーのっ!」
「んんんーっ!」
車輪は嫌な音を立てるだけで、まるで動かない。
それどころか――。
ズブブッ。
「…………」
「…………」
「……余計に沈んだね」
「言うな……分かってるから……」
雨足はさらに激しさを増し、滝のように降り注いでいる。
このままもたつ行けば、荷車の中の荷物まで完全に水浸しになってしまう。
「一回、荷物を全部下ろす?」
「この土砂降りの中で荷を下ろしたら、それこそ全部濡れて終わりだろ!」
「じゃあどうするのよ!」
「…………」
雨水で濡れた前髪をかき上げ、必死に思考を巡らせる。
車輪の周りの土は、完全にドロドロの泥水と化している。無理に力任せで引けば引くほど、柔らかい底へと沈んでいくだけだ。
なら――。
「地面を固めればいいんだ」
「固めるって……どうやって?」
「魔法を使う」
大森林迷宮での日々が脳裏をよぎる。
セリアが教えてくれたのだ。自分の得意な主属性じゃなくても、簡単な生活魔法の応用なら、魔力のイメージ次第で誰だって行使できると。
俺は泥水に膝をつき、沈んだ車輪の足元へ掌を向けた。
土。
俺が普段から得意としている風とは、手応えも性質もまったく違う。重く、鈍く、イメージがうまく定まらない。
「土よ――固まれ」
体内の魔力を指先から泥へと流し込む。
びちゃびちゃと波打っていた泥の表面が、かすかに震えた。
「……どう?」
「ちょっと待って」
ミアが泥を跳ね上げながらしゃがみ込み、指先でつつく。
「……ほんの少し、締まったかも?」
「よし!」
「でも本当に表面だけだよ」
「もう一回だ!」
再び意識を集中し、魔力を絞り出す。
水分を含んだ土の粒子をギュッと押し固めるイメージ。泥が少しずつ、ぐにゃりとした粘土状に固まり始めた。
けれど――。
「……っ、これ……めちゃくちゃ疲れるな……」
普段使い慣れていない土属性の魔法は、想像以上に精神を削る。
こめかみの奥がズキズキと重い。ただ雨に打たれている寒さとは違う、嫌な疲労感が這い上がってくる。
「代わって。私もやる」
ミアが俺の隣に膝をついた。
「できるか?」
「セリアに魔法の手ほどきを受けたの、ルカだけじゃないから」
ミアもまた、ぬかるんだ泥へ両手を向ける。
「土よ――固まれ」
凛とした声とともに魔力が注がれると、車輪の沈み込んだ底の泥が、めきめきと音を立てて硬化していった。
「おおっ!」
「……う、結構頭にくるね、これ」
「だろ?」
「でも、ルカのやつよりはちゃんと固まってる気がする」
「それ今わざわざ言う必要ある!?」
「事実だし」
軽口を叩き合いながら、二人で魔力を分け合って少しずつ地面を固めていく。
車輪の周囲と、進むべき前方の轍。完全に石のように固めることはできないけれど、車輪が転がるだけの足場はなんとか出来上がった。
「よし、もう一回引くぞ!」
「うん!」
二人で取っ手と泥除けを掴む。
「せーのっ!」
ぐっと踏み込むと、ズズッと車輪が泥の吸着から浮き上がった。
「いける、動いた!」
「もう一回! せーのっ!」
ズルンッ!
鈍い音とともに、車輪が泥沼から綺麗に抜け出した。
「抜けたぁぁぁ!」
「やった!」
「クゥ!」
安心したように、荷車の幌の隙間からクウがひょこっと顔を出した。
「お前は本当に最初から最後まで見てただけだな!」
「クゥ!」
「威張るな!」
だが、手放しで喜んでいる余裕はなかった。
ミアが荷車の幌をめくり、中の荷物を改める。
「……あ」
「どうした?」
ミアが持ち上げた毛布の端から、ぽたぽたと雫が滴っていた。
幌の合わせ目の隙間から、激しい横殴りの雨が吹き込んでいたらしい。
「こっちの袋も湿っちゃってる……」
「食料は!?」
「一番奥に詰めてあったから無事。でも、予備の薪がかなり水を吸ってるよ」
「……最悪だ」
この土砂降りの中、次の宿場まで辿り着くのはどう見ても不可能だ。
今夜の野営をどうするか。
目を凝らして周囲を見渡す。
打ちつける雨煙の向こう、街道から少し離れた小高い丘の斜面に、黒々とした岩肌が見えた。
「あそこだ! あそこの下に行こう!」
俺たちは泥濘に足を取られながら、必死に荷車を押して岩場へと駆け込んだ。
◆
そこは、巨大な一枚岩が庇のように大きく張り出した天然の雨宿り場所だった。
岩の下だけは乾いた土が残り、吹き込む雨風を綺麗に防いでくれている。
「助かった……」
荷車を押し込み、荷物を地面に下ろす。
全員、絞れるほどのずぶ濡れだった。俺の濡れた前髪からは絶え間なく雫が落ち、ミアの服も肌に張り付いて寒そうに震えている。
唯一、幌の奥にいたクウだけが、足先を少し濡らした程度でふわふわの毛並みを保っていた。
「…………」
「クゥ?」
「……なんか無性に腹立つな、お前のその無傷な白さ」
「クウに八つ当たりしないの」
「クゥー」
何はともあれ、まずは火だ。
身体が芯まで冷え切ってしまう前に、暖を取らなければならない。
岩陰の乾いた小枝を集め、荷車から湿った薪を取り出す。
「火よ」
指先から小さな火種を薪の隙間へ放り込む。
だが――。
じゅっ。
白い煙をひと筋残して、一瞬で立ち消えた。
「…………」
気を取り直して、もう一度。
「火よ!」
じゅっ。
「…………」
横から、ミアの冷ややかな視線が突き刺さる。
「何だよ」
「別に」
「言いたいことがあるなら言えよ!」
「『魔法で簡単に火をつけられるようになった』って、昨日あんなにドヤ顔でノートに書いてたのになーって思って」
「薪がぐっしょり濡れてたら誰だって火がつかないんだよ!」
どうする。
頭を抱えて薪を見つめる。
薪が濡れている。水分を含んでいるから燃えない。
なら――。
「火をつける前に、乾かせばいいんだ」
俺は積み上げた濡れ薪へ向けて、両手をかざした。
今度は、俺が最も得意とする属性。
「――風よ」
そっと魔力を解き放つ。
強く吹き飛ばしてしまわないよう、薪の隙間をすり抜ける微細で温かな風をイメージする。
弱く、細かく、絶え間なく。
薪の表面にまとわりつく水分を、風の刃で細かく削ぎ落とし、蒸発させていく。
「それ……私たちの服にも使えない?」
ミアが目を見張って言った。
「あ、できるかもな」
「先に薪を乾かして」
「分かってるって」
数分間、慎重に風を送り続ける。
薪の表面が白っぽく乾き始めたのを見計らって、三度目の呪文を唱えた。
「――火よ」
ぼっ!
小気味いい音を立てて、乾いた木肌に赤い炎がしっかりと喰らいついた。
「ついた!」
「今度こそ、ちゃんとした成長だね」
「だろ!」
細い枝から太い薪へと火を移していく。パチパチと心地よい爆ぜる音が岩陰に響き、オレンジ色の温かな光が広がった。
「……あったかい。生き返る……」
焚き火の前にへたり込み、かじかんだ手をかざす。
ミアも隣に座り、震える吐息を漏らしながら手を温めた。
クウはと言えば、当然のような顔をして、俺たちの間で一番煙が来ない特等席に陣取っている。
「お前、本当に世渡り上手だな」
「クゥ」
ひと心地ついたところで、俺は濡れた上着を脱いだ。
「よし、服も風で乾かしてみるか」
「本当にできる?」
「たぶん」
「その『たぶん』、今日一日で一番信用ならない言葉なんだけど」
「今度は得意な風魔法だから大丈夫だって!」
集中し、手のひらから柔らかい風をミアの上着へ向けて放つ。
衣類に染み込んだ水分が、白い湯気となってふわりと立ち上り、少しずつ生地が軽くなっていく。
「お、すごい。本当に乾いていく」
「だろ? 俺を誰だと思って――」
調子に乗って魔力の出力を少し強めた、その瞬間。
ボオッ!
「きゃっ!?」
突風が巻き起こり、ミアの濡れた長い髪が全部後ろへ勢いよく吹き飛んだ。
「…………」
「…………」
「……ごめん」
「……出力を下げて」
「はい」
その後、濡れた毛布、湿った着替え、予備の薪を、風魔法を微調整しながら一枚ずつ丁寧に乾かしていった。
すべての作業が終わる頃には、雨の寒さとは別の意味で、俺の体力は限界を迎えていた。
「はぁ……魔物と一匹も戦ってないのに、死ぬほど疲れた……」
「使い慣れない土魔法使ったあとに、ずっと風魔法で微調整してたんだから当然でしょ」
「頭がガンガンする……」
敷き直した乾いた毛布の上に、そのまま仰向けに倒れ込む。
大森林迷宮で、セリアが厳しく言っていた言葉が身に染みる。魔力を無計画に使い果たせば思考が鈍り、冒険者として命取りになる、と。
「ルカ、今日はもう魔法禁止ね」
「う……でも、晩飯の用意が……」
「私がやるから寝てて」
「できるか?」
「簡単なスープを温めるくらいなら、私だってできるよ」
「…………」
「何?」
「ミアのほうが、よっぽど旅慣れた冒険者っぽいなと思って」
「何を今さら」
ミアは焚き火の上の鍋に水を張り、手際よく干し肉と乾燥野菜を放り込んでいった。
出来上がった夕飯は、ただ煮込んだだけの塩辛いスープと、炙った硬いパンだけだった。
宿場の屋台で食べたような珍しい味付けも、感動するような美味さもない。
それなのに。
「……うめぇ」
「お腹が空きすぎて、凍えてたからでしょ」
「それもあるけどさ」
岩の外では、依然として激しい雨が大地を叩き続けている。
ザァザァと降る雨音と、パチパチと薪がはぜる音。
その狭間で、クウがスープの匂いに鼻を鳴らしながら、器用に分け前の肉片を口に運んでいた。
「なあ、ミア」
「ん?」
「セリアならさ」
「うん」
「今朝のあの空を見た時点で、昼過ぎに雨が降るって見抜いてたと思うか?」
「…………」
ミアは木のスプーンを止め、少しの間だけ焚き火の炎を見つめていた。
「……うん。見抜いてたと思う」
「だよな」
あの大森林迷宮の中で、セリアはいつだって先を見ていた。
空の色、風の匂い、足元の土の湿り気、魔物の痕跡、残りの食料、そして万が一の逃げ道。
生き残るために。
無事に帰ってくるために。
「……まだまだだな、俺たち」
「そうだね」
ミアは否定せず、静かに微笑んだ。
俺も思わず苦笑いを漏らす。
「でもさ」
「?」
「次はちゃんと、出発前に空の雲の形を見るよ」
「宿の人の話も、ちゃんと最後まで聞いてね」
「分かった」
「無理に進もうとしないで、天気が悪い日は待つ勇気を持つこと」
「分かってるって」
「荷物の防水シートの結び目も、毎朝しっかり確認する」
「…………」
「ルカ?」
「……覚えること、めちゃくちゃ多くないか?」
「旅って、そういうものなんじゃない?」
どうやら、そういうものらしい。
俺は身体を起こし、濡れずに済んだ荷物の奥から冒険ノートを取り出した。
今日の日付のページを開き、炭ペンを走らせる。
『・雨の日の教訓』
『朝、空が曇っていたら絶対に油断しない。』
『地元の人(宿の人)の忠告はちゃんと聞く。』
『荷物の幌の隙間はしっかり縛る。』
『泥に車輪がはまったら、土魔法で地面を固める。』
『濡れた薪や服は、弱い風魔法を当て続ければ乾く。』
少し考えて、最後に一行だけ書き足した。
『セリアなら、たぶん絶対に濡れてない。』
「……ちょっと、その最後の一行は必要?」
「うわっ、覗くなよ!」
「見えちゃったんだから仕方ないでしょ」
「クゥ!」
「クウまで覗き込むな!」
ノートをパタンと閉じる。
今日一日。
予定していた宿場町には辿り着けなかった。
珍しい料理も食べられなかったし、魔物を倒して稼ぐこともできなかった。
雨に降られて、泥にはまって、服を濡らして、失敗ばかりの一日だった。
それでも。
泥から荷車を脱出させる方法を知った。
濡れた薪を乾かして火を起こす方法を知った。
雨の日の街道を進むことが、どれだけ危ういかを知った。
昨日までの俺たちより、ほんの少しだけ、俺たちは旅の仕方を学んだのだ。
岩場の外へ視線を向ける。
夜の闇の中、雨はまだ弱まる気配もなく降り続いている。
「……明日は、晴れるかな」
「どうだろうね。雨雲、結構厚いよ」
「晴れたら出発しよう」
「もし、明日も雨だったら?」
今朝までの俺なら、間違いなく「それでも行く」と答えていただろう。
けれど、焚き火の暖かさと、ずきずきと痛むこめかみの重みを感じながら、俺は言った。
「……晴れるまで、ここで待つよ」
ミアが少し驚いたようにこちらを見た。
それから、ふっと柔らかく目を細めて笑った。
「うん。それでいいと思う」
「クゥ」
焚き火の熱を浴びながら、クウも満足そうに喉を鳴らした。
世界の果ては、どこにも逃げたりしない。
だったら、焦って走る必要なんてないんだ。
失敗しながら、学びながら、ちゃんと一歩ずつそこまで辿り着けばいい。
雨音に包まれた岩陰で、俺たちは静かに身体を寄せ合い、次の朝を待った。




