第23話 知らない味
次の日の朝
目を覚ました俺の鼻腔を、ふわりと妙な匂いがくすぐった。
「……なんだ、これ」
香ばしい。じっくりと肉を炙ったような、たまらなく食欲をそそる匂いだ。
だが、ただの焼き肉じゃない。どこか甘酸っぱく、リベル村では嗅いだこともない独特な香草の香りが混ざり合っている。
跳ね起きて、木枠の窓を押し開けた。
ひんやりとした朝の澄んだ空気と一緒に、その匂いがどっと部屋の中へ流れ込んでくる。
「……ん、いい匂い……」
隣のベッドで、毛布にくるまっていたミアがむにゃむにゃと身じろぎしながら上半身を起こした。寝癖のついた髪を気にする様子もなく、鼻をひくひくと鳴らしている。
「だろ? すげえ美味そうな匂いがする」
「クゥ!」
俺たちよりも素早く反応した影があった。
さっきまで床の毛布で丸まっていたはずのクウが、いつの間にか窓枠に前足をかけ、身を乗り出していた。
「早いなお前! いつの間に起きてたんだよ」
「クゥー!」
白い尻尾が、千切れんばかりの勢いで左右にブンブンと振られている。
「よし、行ってみよう!」
「待ってよ、まだ顔も洗ってないし髪もボサボサなんだけど」
「ぐずぐずしてたらあの美味い匂いの主が売り切れちまうかもしれないだろ」
「朝っぱらから逃げないよ」
「分からないだろ、旅人の朝は早いんだから!」
「何が売られてるかすら知らないくせに……」
「知らないからこそ、確かめに行くんだよ!」
「……はいはい」
結局、大急ぎで顔を洗い、最低限の身支度を整えて部屋を飛び出した。
◆
宿の外へ出ると、朝の宿場町はすでに活気で満ちあふれていた。
街道沿いには早くも出発の準備を整えた大型の荷馬車が軋んだ車輪を軋ませ、商人が威勢のいい声で荷積みの指示を飛ばしている。馬小屋の前では護衛の冒険者が愛馬に桶の水を飲ませ、道の両脇では昨夜とは違う朝専用の露店が湯気を立ち上らせていた。
俺たちは風に漂う匂いの糸を手繰るようにして、人混みを縫って歩いた。
「こっちだ、この角を曲がった先!」
「本当鼻がきくよね……本当に合ってるの?」
「俺の直感を信じろ」
「クゥ!」
「ほら、クウも完全に同意してる」
「二人とも、食べ物のことになると驚くほど息がぴったりだね」
呆れるミアを連れて角を曲がると、ひときわ白く濃い煙をもうもうと吹き上げている一軒の屋台があった。
その前で、俺たちの足がピタリと止まる。
「……うわ、なんだこれ。見たことないぞ」
黒々と油が馴染んだ大きな鉄板の上で、薄く丸く伸ばされた白っぽい生地がじゅうじゅうと音を立てて焼かれていた。
その上に、細かく刻まれたたっぷりの肉。
さらに山盛りの刻み野菜と、見慣れない濃い緑色の葉。
店主の親父さんが手際よくヘラを滑らせ、具材ごと生地をくるりと器用に包み込むと、表面に焦げ目がつくまでギュッと押し焼きにしていく。
じゅわっ、と弾ける脂の音。
立ち上る湯気とともに、香ばしさと爽やかな香草の風味が俺たちの顔を直撃した。
昨日の串焼き屋とは違う、未知の料理だ。
「へい、いらっしゃい! 朝飯に一つ食っていくかい、兄ちゃん?」
額の汗を拭った大柄な店主が、白い歯を見せて豪快に笑いかけてきた。
「食います!」
「迷いのない即答だね」
「だって、こんなの村で見たことないし!」
「理由になってるような、なってないような……」
「いいから! 親父さん、一つください!」
銅貨を渡すと、店主は焼き立てのアツアツを木皮の包みに載せて手渡してくれた。受け取った瞬間、ずっしりとした重みと強烈な熱が手のひらに伝わってくる。
「あちちっ!」
「焼き立てなんだから当たり前でしょ、落とさないでよ」
「落とすわけないだろ!」
息を吹きかけながら、手の中で慎重に半分に割ってみる。
ぷしゅっと音を立てて熱い蒸気が立ち上った。
中には、肉汁を吸ってツヤツヤと輝く肉と細切りの野菜、そして鮮やかな緑の葉がぎっしりと詰まっている。
「親父さん、これ何の肉?」
「角兎の腿肉さ。朝締めだから柔らかいぞ」
「へえ! じゃあ、こっちのいい匂いのする葉っぱは?」
「リュナ草だ。東の山にしか自生しねえ香草だな。胃袋を温めて旅の疲れを取るんだ」
「なるほど……じゃあこの黄色い粒は――」
「坊主、質問攻めにする前に冷めねえうちに食いな!」
「あ、はい!」
たまらず大口を開けてかぶりついた。
「っ……あつ……はふっ、んんっ……!」
「どうなの?」
「……っ、うまっっっ!」
噛み締めた瞬間、パリッと小気味いい音を立てた薄皮の奥から、驚くほどの肉汁がじゅわっと溢れ出してきた。
香ばしい角兎の脂の甘みを、リュナ草の爽やかなほろ苦さがキュッと引き締めている。外側は香ばしくてパリパリなのに、中の生地は驚くほどもっちりとしていて、肉と野菜の旨味を余すことなく吸い込んでいた。
「ミア、これすっげえ美味い! 早く食ってみろって!」
「わ、分かったから顔に近づけないで……熱い!」
ミアは木皮ごしに恐る恐る受け取ると、フーフーと息を吹きかけてから、端っこを小さく一口かじった。
もぐもぐと咀嚼し、その大きな瞳がスッと見開かれる。
「……ん! ……おいしい」
「だろ!? すごいよな、この香草!」
「うん、全然臭みがない……って、なんでルカが作ったみたいに威張ってるの?」
「クゥー!」
不意に足元から、切実な鳴き声が上がった。
見下ろすと、クウが後足立ちになり、俺のズボンの裾を前足で必死にカリカリと引っ掻いていた。
「…………」
「クゥ……」
「ダメだぞ、クウ。これ、香草とネギみたいな野菜がいっぱい入ってるから、お前のお腹には毒かもしれない」
「クゥゥ……」
耳をぺたりと伏せ、この世の終わりのような悲痛な顔で見上げてくる。
「う……そんな顔するなよ……」
「ルカ、絶対にあげちゃダメだからね」
「分かってるよ! ……でも、なんか可哀想だな……親父さん!」
「なんだい?」
「味付けする前の、焼いただけの角兎の肉って少し分けてもらえませんか? お金は払うんで!」
「なんだ、そいつ用か! いいぜ、端肉でよけりゃ少しやるよ」
店主が鉄板の端で小さく刻んで火を通した肉片を、木の小皿に載せて渡してくれた。
「ほら、クウ。お前の分だ」
「クゥッ!」
小皿を地面に置いた瞬間、バクッと一口で吸い込まれるように消えた。
まさに一瞬。噛んだ形跡すらない。
「……もうちょっと味わって食えよ」
息を吐いて呆れていると、ふと屋台の片隅に置かれた小さな素焼きの小壺が目に入った。
中には、鮮やかな深紅色のペースト状の何かが入っている。
「親父さん、この赤いのは?」
「ああ、それかい? それは――」
「おいしそうなタレだな」
親父さんが制止の言葉を口にするより早く、俺は人差し指の先でその赤いペーストをちょんとすくい取り、ぺろりと舌に乗せてしまった。
「――辛えから気をつけろよって言おうとしたのによ!」
「…………ん? なんだ、別に甘酸っぱいだけで全然――」
安心しかけた、その次の瞬間だった。
「っっっっっっ!?」
口の中で、小さな爆発が起きた。
舌が、唇が、喉の奥が、まるで真っ赤に焼けた鉄串を押し当てられたようにカッと燃え上がった。
「っか――!? か、辛っっっ! 痛い! 火ィ吹く! み、水! 水ぅぅぅ!」
「ルカ!? 水飲んでも油の辛さは引かないよ!」
「じゃあどうすればいいんだよぉぉ!」
「牛乳とか甘いもの! ……って、今ここにないし!」
涙目になって舌を出し、その場でジタバタと飛び跳ねる俺を見て、ミアはお腹を押さえてゲラゲラと笑い転げ始めた。
「あっははは! ば、馬鹿じゃないの!? 自分から舐めといて!」
「笑ってないで助けろぉぉ! 喉が焼け死ぬ!」
「だって店主さんが辛いって言おうとしてたじゃん!」
「こんな暴力的な辛さだと思わないだろぉぉ!」
騒ぎを聞きつけたクウが、トコトコと小壺へ近づき、首を傾げて鼻先を近づけた。
「クウ、それは絶対に嗅いじゃだ――」
「クゥ」
クウは鼻先を壺に近づける寸前でピタリと止め、フンッと鼻息を一発鳴らすと、何事もなかったかのように素早く後ずさりした。
「……お前、俺より危機管理能力高いな……」
「クゥ」
なぜか胸を張り、ドヤ顔で見上げてくる白い毛玉。
涙目で舌をヒリヒリさせている自分が、猛烈に情けなくなった。
◆
朝食を終えた後も、俺たちの足は宿へ戻らなかった。
舌の痺れがようやく治まると、宿場町のあちこちに並び始めた朝の露店が気になって仕方がなかったのだ。
「おじさん、これ何?」
「見りゃ分かるだろ、果物だよ」
「いや、果物なのは見れば分かります。名前です」
「ああ、リムの実さ」
「これ、そのまま食べられるの?」
「果物だって言ってるだろ」
「どんな味?」
「買ってみりゃ分かる」
「よし、一個ください!」
「ルカ」
背後から、底冷えのするような冷ややかな声が降ってきた。
振り返ると、ミアが腕を組んでジト目を向けていた。
「……何?」
「お金」
「…………」
俺はそっと自分の腰の革財布に手を当てた。心もとない軽さだ。
「私たちの旅費、無限にあるわけじゃないんだよ?」
「分かってます……」
「さっき、お肉の包み焼き食べたよね?」
「食べました……」
「じゃあ、この果物は本当に今すぐ必要?」
「……一個だけ。銅貨二枚だから!」
「子どもじゃないんだから、我慢を覚えなさい」
「十五歳だもん! 立派な冒険者だもん!」
「昨日、ジャンにも『十五は十分ガキだ』って言われたばっかりでしょ」
結局、ミアの厳しい視線に耐え兼ねて、俺のお小遣い分から銅貨二枚を出して一個だけ購入した。
掌に収まるくらいの、淡い黄色をした丸い果実。
皮ごと食べられるというので、親父さんに拭いてもらい、思い切りかじりつく。
「すっぱぁぁぁぁっ!?」
思わず両目をぎゅっと瞑り、肩をすくめた。
レモンを何倍も濃くしたような強烈な酸味が、口いっぱいに弾け飛ぶ。
「朝から本当に忙しい顔するね、ルカは……」
呆れ顔のミアにも半分差し出すと、彼女は恐る恐る口をつけた。
「……すっぱ! ……あ、でも」
「だろ? なんか後から甘みが出てくる」
「うん、瑞々しくて結構おいしいかも。目が覚めるね」
俺は小さくちぎった実を、クウの前にも差し出してみた。
クウは期待に満ちた目でクンクンと匂いを嗅ぎ、ぺろりと一舐めして――。
ピキッ、と動きを止めた。
「どうだ、クウ?」
「…………クゥ」
クウは口をへの字に曲げ、くわえていた果肉をそっと地面に吐き捨てた。そして、これ見よがしに後退りする。
「嫌いなんだな」
「本当に分かりやすい子だね」
その後も宿場を練り歩いた。
琥珀色に輝く木の実の蜜漬け。
紫や黒など、見たこともない色とりどりの雑穀。
巨大なガラス瓶に詰められた、異国のスパイスの数々。
塩を吹いた、奇妙な形をした深海魚の干物。
全部買っていたら宿代すら消し飛んでしまうので、見るだけにとどめたけれど、それでも胸のワクワクはまったく収まらなかった。
「なあ、ミア」
「何?」
「村からたった一日歩いただけなのにさ。食べるものも、売ってるものも、こんなに違うんだな」
「そりゃそうでしょ。土地が違えば気候も土も違うんだし、育つ植物も集まる交易品も変わるんだから」
「じゃあさ……もっと遠く、この先へ行ったら?」
「もっともっと変わるんじゃない? 見たこともない料理ばっかりになると思うよ」
俺は街道の真ん中で、思わず立ち止まった。
「…………」
「何よ、急に立ち止まって変な顔して」
「世界の果てに着くまでに、俺たちの知らない食べ物って、一体何種類くらいあるんだろうな」
「……まさか、全部数えるつもり?」
「すっげえ面白そうじゃないか?」
「絶対途中で何食べたか忘れて分からなくなるに決まってるでしょ」
「だったら――」
頭の中に、パッといいアイデアが閃いた。
◆
急いで宿の部屋へ駆け戻った。
部屋に入るなり、荷解きしたザックからあの革表紙のノートと炭ペンを引っ張り出す。
擦り切れたページをパラパラとめくる。
これまでに書き込んできたのは、モンスターの特徴や弱点、危険な薬草、迷宮の地図、受けた依頼の記録。
父さんから「冒険者なら記録を怠るな」と言われてつけてきた、生き残るための知識ばかりだ。
俺は、誰も触れていない真っ白な新しい見開きページを開いた。
そして、太い文字で大きく書き込んだ。
『旅で食べたもの図鑑』
「…………」
背後から机を覗き込んできたミアが、呆れたように沈黙した。
「……何?」
「それ、一応は魔物や迷宮の情報を書く『冒険ノート』なんじゃなかったの?」
「そうだよ。だからこれも書くんだ」
「料理まで記録するの?」
「当たり前だろ!」
俺は鼻息荒く、炭ペンを走らせた。
『・角兎の包み焼き』
『すごくうまい。パリパリの皮ともちもちの生地。中に入っている緑の香草は「リュナ草」。胃袋を温める効果あり。』
そのすぐ下。
『・赤いやつ(ペースト状)』
『超危険。一口で口の中が燃える。喉が死ぬ。二度と舐めるな。』
「……ちょっと、その赤いやつの名前は聞いてないの?」
「……あ」
「あんなに親父さんに質問攻めしてたのに」
「辛すぎて名前聞くの完全に吹き飛んでた」
「もう一回行って聞いてくれば?」
「嫌だ! あの赤い壺に近づくのすら今は怖い!」
「食べなきゃいいだけでしょ……」
ミアのため息を聞き流しながら、さらに書き足す。
『・リムの実』
『黄色くて丸い。死ぬほど酸っぱいが、後味が甘い。目は覚める。クウは一口で吐き出した。嫌いらしい。』
「クゥ!」
足元で文字を見ていたクウが、抗議するように一声鳴いた。
「事実だろ? 吐き捨てただろ」
「クゥー!」
「じゃあ、これ食えるか?」
ポケットから包み紙に入った残りのひとかけらを取り出して見せると、クウはフイッと露骨に顔を背けた。
「ほら見ろ」
「あはは、くだらない」
ミアが吹き出し、楽しそうに笑った。
俺は机の上のノートを見つめた。
昨日までの俺にとって、「冒険」っていうのは、未知のダンジョンに潜ったり、恐ろしい魔物と命がけで戦ったり、世界を救うようなお宝を見つけたりすることだと思っていた。
だけど。
今日食べたあの包み焼きの味を、昨日の俺は知らなかった。
舌がちぎれるほど辛い赤い薬味も、酸っぱくて目が冴える黄色い果実も、全部知らなかった。
知らないものを見て。
知らないものに触れて。
知らないものを味わって、知っていく。
「……なあ、ミア。これも立派な冒険だよな」
「え?」
「知らないものを食べるのだってさ」
ミアは少し驚いたように目を瞬かせ、それから腕を組んで考え込んだ。
「……そう言われたら、ルカにとっては世界にあるもの全部が冒険になっちゃうんじゃない?」
「それでいいじゃん! 最高だろ」
「…………」
「だって、この世界には俺の知らないものがまだまだ星の数ほどあるんだからさ」
迷宮だけじゃない。
魔物だけじゃない。
町も、人も、道端に咲く花も、そこで暮らす人たちが毎日食べている温かいご飯も。
全部、俺にとっては見たこともない未知の世界だ。
パタン、と小気味いい音を立ててノートを閉じた。
「よし!」
「何?」
「出発の準備をしよう!」
「もう? お昼までゆっくりするんじゃなかったの?」
「次の町に行ったら、またそこでしか食えない知らない料理があるかもしれないだろ!」
「……目的、完全にすり替わってない?」
「すり替わってない! 世界の果てを目指す道すがら、ついでに美味いものを制覇するだけだ!」
「それを『目的が変わった』って言うんだよ」
「クゥ!」
「ほら見ろ、クウだって全力で賛成してる!」
「クゥー!」
「二人とも、ただ食い意地が張ってるだけでしょ……」
文句を言いながらも、ミアの手はすでに手際よく毛布を畳み始めていた。
荷車にすべての荷物を積み直し、わずか半日ほど過ごしただけの宿場町を後にする。
迷宮には潜らなかった。
剣を抜いて魔物を倒すこともなかった。
ギルドで依頼をこなしたわけでもない。
それでも。
俺の冒険ノートには、昨日よりも鮮やかで確かな記録が、新しく刻まれていた。
宿場の東門をくぐり、どこまでも続く土の道へと踏み出す。
東へ。
まだ見ぬ、もっともっと知らない場所へ。
「次はどんな町かな。何があるかな」
「とりあえず、食べ物以外の情報もちゃんと集めてよね」
「分かってるって!」
「クゥ!」
先頭を走るクウが、元気いっぱいに大地を蹴った。
……たぶんこいつも、美味しいもの以外のことはこれっぽっちも考えていない。
でも、今はそれでいい。
世界の果ては、気が遠くなるほどまだ遠い。
だったら、そこへ辿り着くまでの道中にあるすべての景色を、すべての味を。
俺はこの目で見て、この舌で味わい尽くしてやりたい。
見上げる東の青空には、どこまでも千切れ雲が流れていた。




