第22話 旅人の宿場
翌朝。
目を覚ました俺の視界を真っ先に塞いだのは、もふもふとした白い毛の塊だった。
「…………」
視界のすべてが白。そして、じんわりと暖かい。
鼻先をくすぐる微かな獣の匂いと、寝息に合わせて上下する小さな重み。
「……おい、クウ」
「クゥ……」
人の顔面を枕にするな。
両脇に手を入れてそっと持ち上げると、クウはまだ眠いのか、短い四本の足をだらんと垂らし、細めた目で俺をぼんやり見つめてきた。
「お前なぁ……窒息するかと思ったぞ」
「クゥ……」
「全然反省してない顔だな」
「朝っぱらから何やってるの?」
からかうような声に視線を向けると、近くの小川で顔を洗ってきたらしいミアが、手拭いで雫を拭いながら歩いてくるところだった。
「クウに暗殺されかけてた」
「大げさ」
「本気で息ができなかったんだって」
「毛布代わりになって暖かそうでいいじゃん」
「じゃあ今夜はミアの顔の上に貸し出す」
「いいよ、喜んで」
「クゥ!」
ミアの言葉に、俺の手の中でぶら下がっていたクウの尻尾が、ぱたぱたと嬉しそうに揺れた。
「……なんでお前が一番嬉しそうなんだよ」
やっぱりこいつ、俺よりミアのほうが好きなんじゃないだろうか。
簡単な朝食を済ませ、野営の跡を片づける。
焚き火の灰に水をかけ、完全に熱が消えていることを手で触れて確認した。
荷物を荷車へしっかりと積み直し、ロープで縛る。
身支度を整えた俺たちは、朝露の残る街道を再び東へと歩き出した。
昨日ジャンに聞いた話が正しければ、順調に行けば昼過ぎには街道沿いの宿場へ着くはずだ。
「宿場って、どんなところなんだろうな」
「普通に宿が並んでるんじゃない?」
「それは名前からして分かる」
「じゃあ聞かないでよ」
「もっとこう……あるだろ。リベル村にはない、すごい仕掛けとか」
「街道沿いの宿場に何を過剰に期待してるの」
「見たことがないから期待してるんだよ」
「都合のいい理屈だね、それ」
荷車を引きながら、そんな他愛もない軽口を交わす。
昨日の出発直後もそうだったが、村から遠ざかれば遠ざかるほど、目に入るものすべてが新鮮に映った。
足元に咲く、見たこともない紫色の野花。
文字の掠れた古い石造りの道標。
草原の向こうを軽やかに駆けていく、毛足の長い野生動物の群れ。
すれ違う商人たちの衣服の仕立て。
どれもこれも気になって、視線が吸い寄せられるたびに足が止まりそうになる。
「ルカ」
「……はい、前見ます」
そのたびに、後ろを歩くミアから鋭い釘を刺された。
◆
太陽が天頂を少し過ぎた頃。
なだらかな丘を越えた先、街道を挟むようにして立ち並ぶ無数の屋根が見えてきた。
「あれじゃない?」
「たぶん、そうだ」
ミアが指さした先には、村と呼ぶには手狭だが、ただの休憩所にしては立派すぎる集落が広がっていた。
街道の両脇に十数軒の頑丈な木造家屋が並び、その周囲には大型の馬車が何台も車輪を休めている。
遠くからでも目立つ宿の看板に、巨大な馬小屋、カンカンと乾いた金属音を響かせる鍛冶場。
そして何より――。
「……人、めちゃくちゃ多くないか?」
「多いね。村のお祭り並みかも」
ここに住んでいる住民よりも、明らかに街道を行き交う旅人の姿のほうが多かった。
山のような荷背負い籠を担いだ屈強な男。
複数の馬を引き連れた商人。
物騒な両手剣や弓を携えた護衛たち。
俺たちと同じように小さな荷車を引く旅の夫婦。
原色をふんだんに使った派手な衣装の三人組。
先が尖った奇妙な形の帽子を被った老人。
「ミア」
「何?」
「あの人、腰に剣を三本も差してる」
「じろじろ見すぎ」
「なんで三本もいるんだ? 手は二本しかないのに」
「知らないよ」
「二本折れたとき用かな」
「本人に聞きに行かないでよ?」
「聞こうとして足が向いてた」
「やめなさい」
俺は慌てて引き戻された。気を取り直して、別の方向を見渡す。
「ミア」
「今度は何?」
「あの馬車、信じられないくらいデカい」
「うん、二階建てみたいだね」
「走る家じゃん。中、どうなってるんだろ」
「勝手に覗かないでね」
「覗かないよ!」
「ちょっと窓枠に手をかけようとしたでしょ」
「…………」
「しようとしたんだ」
呆れるミアの足元を、クウが楽しそうに小走りで進んでいく。
こいつはこいつで、上を向いてひくひくと小さな鼻を忙しなく動かしていた。
間違いなく、美味いものの匂いを嗅ぎ分けている。
「クゥ!」
案の定、短い足を器用に回転させて突撃していった。
「あ、こら! 待て!」
慌てて追いかけると、クウがピタリと足を止めたのは、軒先で分厚い肉塊を炭火で豪快に炙っている串焼き屋台の前だった。
したたる脂が炭に落ち、じゅうじゅうと香ばしい煙を立ち上らせている。
「やっぱりそこか!」
「クゥ!」
「さっき歩きながら干し肉食っただろ!」
「クゥー!」
「そんなウルウルした目で見上げても買わないからな!」
抗議の声をあげる俺たちのやり取りを見て、鉄板の前に立つ大柄な店主が豪快に喉を鳴らして笑った。
「わはは! 元気のいい連れだな、兄ちゃん!」
「すいません、食べ物の前でだけ異様に元気なんです」
「クゥッ!」
「お前は文句を言うな」
背後でミアまでくすくすと肩を揺らしている。
結局、肉の串焼きは予算の都合で見送った。
……けれど、屋台の隅にあった川魚の素干しを、あまりにも物欲しそうに見つめるクウの視線に耐えかねて、一串だけ買い与えてしまった。
俺が甘いんじゃない。あんなに切なそうな顔をするクウが悪い。
◆
街道沿いの一角にある手頃な旅籠に宿を取り、荷車を預けて部屋に荷物を運び込んだ。
だが、部屋のベッドに腰掛けても、俺の心はそわそわと落ち着かなかった。
「ちょっと外、見て回ってくる」
「私も行く」
「部屋で休んでなくていいのか?」
「部屋に一人でいたって退屈だし」
「クウは?」
「クゥ!」
当然のように、クウは俺の足元に駆け寄ってスタンバイしていた。
三人で連れ立って、夕暮れ前の宿場を歩く。
鍛冶屋の店先には、リベル村の道具屋では見たこともない形状の鉈や、旅用の折り畳み鍋が所狭しと並んでいた。
商人の露店には、東の特産品だという目の覚めるような藍色の織物。
怪しげな薬売りの茣蓙には、乾燥させた毒々しいキノコや知らない根茎。
広場のような辻では、道化のような衣装を着た男が、宙にいくつもの木製の玉を放り投げて器用にジャグリングを披露していた。
「何やってるんだ、あれ……落ちてこないぞ」
「旅芸人の大道芸じゃない?」
「へえ……初めて見た」
「私も」
「……え、ミアも初めてなの?」
「そりゃそうでしょ。私だってずっとリベル村から出たことなかったんだから」
「なんかミアって、本もいっぱい読んでるし何でも知ってる気がしてたからさ」
「ルカよりは知ってるってだけ。それに、本で読むのと本物を見るのは全然違うし」
「それ、俺を遠回しに貶してないか?」
「全然? 事実を言っただけ」
澄ました顔で言ってのけるミア。
けれど、その横顔を盗み見ると、あいつの瞳もきらきらと輝いていた。
俺みたいに大声をあげたり駆け寄ったりはしないけれど、珍しい品物が並ぶ棚をじっと覗き込んだり、行き交う旅人の装束に目を奪われたりしている。
考えてみれば、当たり前のことだ。
ミアにとっても、この村の外の世界は、今日が初めてなのだから。
◆
日が沈み、外が藍色の闇に包まれる頃。
夕飯を食べるため、俺たちは宿の一階にある併設の酒場兼食堂へと降りていった。
階段を下りた瞬間、熱気とどよめきに圧倒された。
「……うわ、すげえ熱気だな」
昼間とは比べものにならないほどの混雑ぶりだった。
使い込まれた長机という長机を旅人たちが埋め尽くし、木のジョッキを打ち鳴らして安酒をあおり、山盛りのシチューを平らげながら怒鳴るように談笑している。
儲け話に、街道に出没する盗賊の噂。
東の迷宮で見つかったという魔導具の話。
ここから何日も先にあるという、大都市の名前。
聞いたこともない土地の言葉や地名が、食堂のあちこちから飛び交っていた。
運よく空いていた隅っこの長机の端に、滑り込むようにして腰を下ろす。
すぐ隣には、足元に革の大型ボストンバッグを置いた、仕立布を羽織る商人風の中年男が座っていた。
「見ない顔だな、坊主たち」
木皿の豆料理を突いていた男が、ジョッキを片手に気さくに声をかけてきた。
「今日着いたばかりなんです」
「駆け出しの冒険者か?」
「はい」
「へえ、二人とも若いのに大したもんだ。どこまで行く予定なんだ?」
「世界の果てです」
俺が即答すると、男のエールを運ぶ手がピタリと止まった。
ついでに向かいの席で麦酒をちびちび飲んでいた髭面の老人も手を止めた。
さらには、すぐ後ろの席でカード賭博に興じていた男たちまで、何事かとこちらを振り返る。
隣でミアが「また言った……」とばかりに両手で顔を覆った。
「……おいおい、坊主。今なんて言った?」
「世界の果てに行きます」
「本気で言ってるのか?」
「本気です」
数秒の、ぽっかりとした静寂。
次の瞬間、商人風の男が腹を揺らして吹き出した。
「あっはははは! いやあ、若い! 若すぎるな!」
男の笑い声に釣られるように、周囲のテーブルからもドッと野太い笑いが巻き起こった。
「笑うことないだろ!」
「悪い悪い、馬鹿にして笑ったんじゃねえよ」
男は笑い涙を指で拭いながら、エールを一気に煽った。
「俺もな、昔はそうやって大口叩いて冒険者気取ってた時期があったのさ。世界の果てに何があるのか見てみたいってな」
「じゃあ、行ったんですか?」
「行けるわけねえだろ!」
「なんで?」
「遠すぎるんだよ!」
男は机をバンと叩き、身を乗り出してきた。
「この大陸を東へ東へと横断して、気が遠くなるほど歩いた先にようやく海が出る。そこからさらに先だぞ? 一生かかっても辿り着けるかどうか怪しい距離だ」
「船を使えば行けるんじゃないですか?」
俺が食い下がると、向かいに座っていた白髪混じりの老人が、深く刻まれた眉間の皺を寄せて口を挟んだ。
「行けやせんよ、若い衆」
「どうしてですか?」
「海がな、船を押し返すんじゃ」
「海が……船を?」
俺は身を乗り出した。胸の奥が、トクンと跳ねる。
「大陸の外縁へ近づけば近づくほど、潮の流れが狂暴になる。どんな巨大なガレオン船だろうと、まるで生き物のように押し戻されて、最後には沈没するか難破するのがオチじゃよ」
「おい爺さん、俺が船乗りから聞いた話じゃ海流じゃねえぞ。年中吹き荒れる黒い大嵐だ」
隣の商人が口を挟むと、別の席の酔っ払いからも声が飛んできた。
「何言ってやがる! 神様が人間を外の世界へ出さないために、天まで届く見えない壁を建てたってのが教会の言い伝えだろ!」
「おいおい、酔っ払いの寝言を真に受けるな! あそこはな、海の終わりなんだよ!」
「海が終わるってどういうことだ!」
「文字通りだよ! 水が全部、奈落の底へ滝みたいに落ちてんだ!」
「落ちた先はどこへ行くんだよ!」
「そんなの落ちた奴にしか分からねえよ!」
わっと食堂全体が笑い声に包まれる。
皆、それぞれ勝手な法螺話を楽しんでいるようだった。
だが、俺は笑えなかった。
心臓が早鐘を打っていた。
急いで懐から革表紙のノートと炭ペンを引っ張り出す。
「ちょっとルカ、何してるの?」
「メモするんだよ」
「これ全部!? 絶対半分以上は酔っ払いの出鱈目だよ?」
「どれが出鱈目なんだ?」
「……それが分からないから言ってるの」
机の上にノートを広げ、夢中でペンを走らせる。
「だったら、自分の足で行って確かめればいい」
走らせていたペンの音だけがカリカリと響いた。
ミアが息を呑んで黙り込む。
向かいの老人が、杯を置いた。
ふざけ半分だった旅人たちの喧騒の中で、その老人の濁りのない瞳だけが、じっと俺を見据えていた。
「坊主……本当に行くつもりなんじゃな」
「はい」
「潮に押し戻されようと、嵐に阻まれようと、世界の果てまで?」
「はい」
そこに何が待っているのか。
狂暴な海流なのか。
黒い嵐なのか。
神様が作った見えない壁なのか。
あるいは、世界が裂けて海が落ちていく奈落なのか。
今の俺には分からない。
だけど――。
「誰も本当のところを知らないなら、俺が自分の目で見て確かめたいんです」
老人はしばらくの間、俺の顔を無言で見つめていた。
やがて、その口元が優しく緩んだ。
「……そうか。無茶はするなよ」
それ以上、老人は俺の言葉を否定しなかった。
◆
その夜。
木造の宿の粗末なベッドに寝転がりながら、俺は天井へ向けてノートを掲げていた。
油灯の淡いオレンジ色の光が、紙面を照らし出す。
『世界の果てについて』
今日書き留めたばかりの、乱雑な箇条書き。
『・狂暴な海流(船を押し返す)』
『・黒い大嵐』
『・神様が作った見えない壁』
『・海が終わって奈落に落ちている?』
四つの異なる仮説。
どれか一つが正解なのかもしれない。
あるいは、全部が誰かの作った出鱈目で、まったく別の何かが待っているのかもしれない。
「……楽しみだなあ」
天井を見つめたまま、思わず声が漏れた。
すぐ隣のベッドから、衣擦れの音とともに呆れたような返信が届く。
「……普通、そこは不安になるところじゃない?」
「なんで?」
「だって、誰一人として『行けた』って言ってないんだよ? 船は押し戻されるし嵐はあるし海は落ちてるんでしょ」
「だからだよ」
「……?」
「誰も本当の景色を見たことがないんだろ」
俺は腕を下ろし、ノートを胸の上に抱えた。
「誰も知らないなら、俺が最初に見に行けるじゃん」
「……ほんと、変なところで前向きなんだから」
「いつか確かめに行こうな、ミア」
「…………うん」
ほんの少しの間を置いて、毛布の向こうから、小さくけれど確かな声が返ってきた。
二つのベッドの隙間、床に敷いた毛布の上では、クウが干した小魚で満たされた腹をぽっこり膨らませて、すやすやと心地よさそうに丸くなっている。
壁の向こうからは、まだ夜更かしを続ける旅人たちの話し声や、時折遠くで響く馬の嘶きがかすかに聞こえていた。
今日一日だけで。
昨日まで知らなかったたくさんの人に出会った。
知らなかった世界の謎を聞いた。
見たこともない景色を歩いた。
世界の果てという遠いゴールには、まだ指の先ほども近づいていない。
それでも。
――旅に出て、本当によかった。
俺は暗闇の中で目を閉じながら、心の底からそう思っていた。




