第21話 帰らなくていい日
リベル村を出てから、しばらく。
俺たちは、どこまでも東へ続く街道を歩いていた。
先頭を歩くのは俺。
その後ろをクウがちょこちょこと小走りで追いかけてきて、さらにその後ろを、荷物を積んだ小さな荷車が軋んだ音を立てて進んでいる。
「なあ、ミア」
「何?」
「そろそろ交代しない?」
「まだ十分も引いてないでしょ」
「十分『も』引いたんだよ」
「私はその荷車の中に一時間以上も隠れてたんだけど」
「それはお前が勝手に潜り込んでただけだろ!」
振り返ると、ミアは文句ひとつ言いたげな俺を尻目に、涼しい顔で歩いていた。
その足元では、クウが俺たちのやり取りを見上げるようにしながら、ふさふさとした尻尾をご機嫌そうに揺らしている。
俺は荷車の取っ手を握ったまま、じっとクウを見つめた。
「……クウ」
「クゥ?」
「お前、ちょっと引いてみるか?」
「クゥ」
クウは迷うことなく、ぽんと荷台の上へ飛び乗った。
「逆だよ!」
「クゥ!」
「なんで得意げに胸張ってんだ!」
「いいじゃない。クウは小さいんだから」
「甘やかすなよ……!」
「ルカよりずっと軽いし」
「重さの問題じゃない!」
荷台の毛布の上ですっかり丸くなったクウは、どうやら一歩も降りる気がないらしい。
俺は深くため息をついた。
――こんな調子で。
俺たちの旅は、あっけなく始まった。
昨日までと同じ街道。
依頼や買い出しで、これまで何度も通ってきた道だ。
なのに、不思議と今日は空気の匂いすら違って感じられた。
背中には、父さんから譲り受けた使い込まれた剣。
荷車には、食料に毛布、着替えに調理道具。
そして荷物のいちばん奥には、同じく父さんから託された、手のひら大の真っ黒な板。
目的地は、ひとまず東。
大森林迷宮を出たあと、セリアも東へ向かったと言っていた。もっと大きな町へ行けば、古い記録や古代遺跡についての手がかりが掴めるかもしれない、と。
俺たちも同じ方角へ進む。
だけど、セリアを追いかけるためだけじゃない。
世界の果てを目指すなら、どのみちこの村を出なければならなかった。
東へ行けば、俺の知らない町がある。
見たこともない景色がある。
まだ出会ったことのない人がいる。
踏み出す理由なんて、それだけで十分すぎた。
「ルカ」
「ん?」
「顔」
「顔?」
「ずっと笑ってるよ」
言われて、思わず頬に手を当ててみる。確かに、口元が緩みっぱなしだった。
「……そんなに?」
「村を出た瞬間からずっと」
「仕方ないだろ」
俺は再び前を向いた。街道の白茶けた土が、遠く地平線の向こうまで伸びている。
「この道の先、俺、ほとんど何も知らないんだからさ」
「はいはい」
呆れたように肩をすくめるミア。
けれど、横目で見たあいつの横顔も、どこか楽しそうに綻んでいた。
◆
昼過ぎ、俺たちは道すがらにある町、ローデンへ立ち寄った。
ギルドの重い木製扉を押し開ける。
「ジャン!」
「……うるせえな」
カウンターの奥で書類にペンを走らせていたジャンが、心底面倒くさそうに顔を上げた。
「朝っぱらから騒々しい……って、もう昼か」
「今から旅に出る!」
「見りゃ分かる。その重装備で突っ立ってりゃな」
ジャンの鋭い視線が、俺の背負った荷物から、すぐ後ろに立つ人影へと移る。
「…………なんでお前までそこにいるんだ」
「ついてきました」
ミアが至極当然といった口調で答えた。
「だろうな」
「ちょっと待て、なんで誰も驚かないんだよ!」
「お前だけだろ、こいつが村でおとなしく留守番すると思ってたのは」
「…………」
ぐうの音も出ない。
「クゥ」
「お前まで同意の相槌を打つな」
ジャンが鼻を鳴らし、小さく口端を持ち上げた。
「で。どこまで行くつもりだ」
「分からない」
「……は?」
「とりあえず東」
「お前なぁ……」
「でも、世界の果てまで行くよ」
ジャンの手が止まった。
ほんの少しだけ、その顔からからかいの色が消える。
「……そうか」
それ以上、ジャンは詮索しなかった。
俺たちはギルドで街道の最新情報を買い、携行食を少し補充した。
ジャンが言うには、東へ続く街道沿いには旅人がよく使う宿場町があり、順調に歩けば明日の昼過ぎには着くらしい。
「無理に今日中に着こうとすんなよ」
「分かってる」
「暗くなる前に、余裕を持って野営場所を決めろ」
「分かってるって」
「川沿いだからって生水をそのまま飲むな。ちゃんと煮沸しろ」
「子どもじゃないんだから……」
「十五は十分ガキだ」
「れっきとした登録冒険者なんだけど」
「冒険者だろうがガキはガキだ」
むっと唇を尖らせる俺の肩を、ジャンがポンと軽く叩いた。
「ルカ」
「ん?」
「――帰ってこいよ」
不意に落とされたその言葉に、大森林迷宮での光景が一瞬だけ頭をかすめた。
冷たい空気。失われかけた命。
だけど、俺はまっすぐにジャンを見つめ返した。
「うん」
今度は、迷わずに頷いた。
◆
ローデンの東門を出ると、そこから先は俺にとって本当の未知の領域だった。
何時間歩いただろう。
見慣れていた畑や木立が徐々に減り、民家の姿も途絶えた。
代わりに広がったのは、風に波打つ一面の緑の草原と、幾重にも重なる緩やかな丘陵。
すれ違う顔ぶれも一変した。
何頭もの馬に引かせた重厚な荷馬車と商人たち。
腰に長剣を佩き、鋭い視線を配る護衛の冒険者。
旅慣れた様子で早足に追い抜いていく単身の旅人。
すれ違うすべてが新鮮で、俺は何度も首を巡らせて見入ってしまう。
「ルカ」
「何?」
「前見て」
「見てるって」
「今、木にぶつかりかけたよ」
「街道の真ん中に木なんか生えてるわけ――」
ごんっ。
「いったぁぁっ!?」
「だから言ったのに!」
道端から低く張り出していた太い枝に、額をまともにぶつけた。
痛む額を押さえてしゃがみ込む俺の横で、ミアがお腹を抱えて吹き出す。
「笑うなよ!」
「だ、だって……あんな綺麗にぶつかる人、初めて見た……!」
「クゥ、クゥ!」
「クウまで真似して笑うな!」
……旅立ちの初日って、想像していたよりずっと慌ただしい。
やがて西の空が茜色に染まり、太陽が丘の向こうへと傾き始めた。
俺たちは街道から少し外れ、手頃な窪地を見つけて野営の準備に取りかかった。
すぐそばを清らかな小川が流れ、背後には冷たい夜風を遮ってくれそうな大きな岩場がある。
周囲を歩き、魔物の足跡や獣の匂いがないか慎重に確かめる。
大森林迷宮を経験する前の俺なら、きっとここまで念入りには確認しなかったはずだ。
「ここなら大丈夫そうだね」
「うん、風通しも悪くない」
荷車から荷を下ろし、敷布と毛布を広げる。
小川で水を汲み、鍋を用意する。
そして、組み上げた枯れ枝の前にしゃがみ込んだ。
指先を向け、精神を集中させる。
「――火よ」
ぼっ、と小さな音を立てて、乾いた木片に赤い火が灯った。
オレンジ色の炎が、パチパチと音を立てながら枝を包み込んでいく。
「…………」
「どうしたの? じっと見つめちゃって」
「いや」
燃え上がる炎を見つめたまま、俺はぽつりと零した。
「初めての野営のときさ。火をつけるだけで一時間近く手こずったな、と思って」
「ああ、あったね。煙ばかり出て目が痛かったやつ」
「俺、少しは成長しただろ」
「火を点けただけで?」
「冒険者にとっては超重要だぞ」
「はいはい」
ミアがくすくす笑いながら、鍋を火にかける。
そのすぐ隣に、香ばしい匂いに釣られたクウがちょこんと座り込んだ。
「クウ、まだ煮えてないぞ」
「クゥ」
「そんな潤んだ目で見ても量は増えないからな」
「クゥ……」
「ミア」
「増やさないよ」
「まだ何も言ってないだろ!」
「どうせ『クウの分、少し分けてやろうぜ』って言うつもりだったでしょ」
「…………」
「ほら、図星」
他愛もない言い合いをしながら食べた夕飯は、干し肉と野菜を塩と香草で煮込んだだけの、ごく簡素なスープだった。
村でも数え切れないほど口にしてきた、いつもの味。
それなのに。
どうしてか、これまで食べたどんな料理よりも体に染み渡るようにうまかった。
◆
片付けを終えると、夜の静けさが一気に濃くなった。
クウは俺とミアの間に挟まるようにして丸まり、満腹の腹を上下させながら気持ちよさそうに寝息を立てている。
俺は荷車から、革表紙のノートを取り出した。
擦り切れた表紙を開く。
一番最初のページに並ぶ、歪で力強い文字。
『世界中を、この目で見る!』
子どもの頃、ただがむしゃらにペンを走らせた夢。
ページをめくると、そこにはこれまでの足跡が記されていた。
始まりの迷宮。
牙猪。
森の異変。
初めての野営。
ベルナの町。
大森林迷宮。
セリア。
そして――ガイルたち。
ページをめくる指が、ぴたりと止まる。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
忘れない。
きっと、この先どこへ行こうと、忘れることはない。
胸に残る痛みを抱えたまま、俺は次の真っ白なページを開いた。
炭のペンを握り、少し考える。
それから、今日の日付を書き込んだ。
『リベル村を出発。』
その下に、さらさらと文字を走らせる。
『ミアが荷車に隠れて勝手についてきた。』
「……ちょっと!」
「うわっ、覗くなよ」
「なんでそんなこと書くの!? 消して!」
「今日の最大のハプニングだろ。記録は正確に残す主義なんだよ」
「ルカの意地悪!」
「クゥ!」
「クウ、お前はどっちの味方だ?」
声をかけると、クウは眠そうに瞬きをしながら、のそのそとミアの膝の上へ這い上がっていった。
「裏切られた……!」
「ふふん、最初から私の味方ですー」
小さく騒いで、笑い合って。
やがて言葉が途切れると、あたりには再び薪がはぜる小さな音だけが残った。
俺は焚き火の向こうの暗闇を見つめた。
夜の帳に呑まれて、昼間歩いてきた街道の先はもう何も見えない。
けれど、明日になれば太陽が昇り、またあの道を歩き出す。
「……なあ、ミア」
「ん?」
「俺たちさ」
「うん」
言葉にしようとして、胸の奥に落ちてきた感覚に、自分自身でハッとした。
「明日、帰らなくていいんだよな」
「……え?」
「だって、依頼じゃないだろ」
これまでは、いつだってそうだった。
森の浅瀬へ薬草を採りに行っても。
隣町へ荷物を届けに行っても。
危険な迷宮へ潜ったときですら。
目的を果たせば、必ずリベル村へと帰っていた。
夕暮れの空を見上げながら、住み慣れた家へと続く道を歩いていた。
でも、今回は違う。
「明日も、この先へ進んでいいんだ」
口に出してみると、胸の奥がじわりと熱くなった。
明日の夜も。
明後日の夜も。
そのずっと先の夜も。
俺たちは、まだ見たこともないどこかの空の下で野営をしているのだ。
ミアはぽかんと目を丸くしていたが、やがて呆れたように、けれど柔らかく笑った。
「……今さら気づいたの?」
「今、実感した」
「遅すぎでしょ」
「どこまで行けるかな」
俺が夜空を見上げて呟くと、ミアは炎を反射させて瞳を輝かせながら、ごく自然に言ってのけた。
「世界の果てまで行くんでしょ?」
焚き火の光が届かない闇の向こう。
冷たい風が吹き抜ける先には、どこまでも続く一本の道がある。
その先に何が待っているのか、今の俺にはまるで見当もつかない。
見たこともない町。
出会ったことのない人々。
息を呑むような絶景。
食べたことのない料理。
まだ誰も踏み入れたことのない迷宮。
そして――父さんすら辿り着けなかった、世界の果て。
「……うん。そうだな」
俺は膝の上のノートに視線を落とした。
今日の日付の余白に、しっかりと力を込めて、最後の一行を書き加える。
『明日も、この先へ行く。』
顔を上げると、木々の切れ間に広がる夜空には、息を呑むほど無数の星々が瞬いていた。
明日は。
今日よりもほんの少しだけ、知らない世界へ行ける。




