第19話 それでも、見たい
「――風よ」
意識を集中する。
庭に吊るしてある布へ向けて、そっと風を送る。
ふわり。
濡れた布が揺れた。
「おお……」
「そのくらい。そのくらいでいいからね」
隣でミアが言う。
「分かってる」
もう少し。風を強くする。
ばさっ。
「……いける」
「ルカ」
「もうちょっとだけ」
「やめた方が――」
「もうちょっと!」
ばさばさばさっ!
「あっ」
一枚、飛んだ。
「クゥ!」
クウが走り出す。
「クウ! 頼んだ!」
「だから強くしすぎだって言ったでしょ!」
「乾くの早くなると思ったんだよ!」
「飛んでいったら意味ないでしょ!」
クウが服を咥えて戻ってくる。
「クゥ!」
「おお! さすがクウ!」
受け取る。泥がついていた。
「…………」
「洗い直しね」
「俺のだからいいだろ」
「よくない」
「なんで?」
「よくないものはよくないの!」
いつものミアだった。
いつものクウだった。
俺も、たぶん、いつもの俺だった。
大森林迷宮から帰った翌日は、身体中が痛くてほとんど動けなかった。
二日目には父さんに薪運びをさせられた。
そして今日。
セリアに教えてもらった魔法の使い方を試している。
戦うためじゃない魔法。
火をつける。水を出す。地面を整える。風で物を乾かす。
やってみると面白かった。
「次は煙だな」
「何するの?」
「風で煙を動かせるか試す」
「どこで?」
「焚き火」
「家の近くではやらないでよ」
「分かってるって」
「本当に?」
「信用ないな!」
「十五年かけてこうなったの」
「長い!」
ミアが笑う。俺も笑った。
「クゥ!」
クウが俺たちの間を走る。
いつも通りだった。何も変わっていない。
そう思った。
でも。
ふと、ミアの姿を目で追っている自分に気づいた。
「……?」
「何?」
ミアがこっちを見る。
「いや」
「何よ」
「なんでもない」
「変なの」
ミアが背中を向ける。
歩く。喋る。怒る。笑う。
生きている。
あの巨大な蛇の身体が、ミアの周りで閉じていく光景が頭に浮かんだ。
その直後、ガイルたちの姿が重なる。
生命活動――停止。
「…………」
「ルカ?」
「え?」
「またぼーっとしてる」
「……ちょっと考え事」
「魔法の?」
「そんな感じ」
「嘘」
「なんで分かるんだよ」
「長い付き合いだから」
ミアはそれ以上聞かなかった。
それが少しだけありがたかった。
◆
午後。
自分の部屋で冒険ノートを開く。
最後に書いたページ。
『冒険者は、帰ってこないことがある。』
その下は白いままだった。
何度か続きを書こうとした。でも、書けなかった。
ページを戻す。
昔の字。今よりずっと下手だ。
『世界中を、この目で見る!』
八歳の俺が書いた。
父さんの話を聞くたびに、行きたい場所が増えた。
海の向こう。
雪に覆われた山。
どこまでも続く砂の大地。
誰も奥まで調べたことのない迷宮。
世界の果て。
全部、自分の目で見たかった。
今も、見たい。
「…………」
でも、知らなかった。
冒険者が死ぬということを。
言葉では知っていた。
魔物がいる。危険な場所へ行く。死ぬ人だっている。
そんなことは分かっていた。
でも、分かっていなかった。
昨日まで話していた人が、次の日にはもう話せなくなる。帰ってこなくなる。
そして、それは俺かもしれない。ミアかもしれない。クウかもしれない。
「…………」
ペンを置いた。
窓の外を見る。隣にはミアの家。
もし、あのとき。
あと少し遅かったら。
俺は首を振った。
考えても仕方がない。分かっている。
それでも、考えてしまう。
世界の果て。
その言葉をノートに書くことが、前より少しだけ怖くなっていた。
◆
「ルカ!」
夕方。外からミアの声がした。
「何?」
窓を開ける。
「セリアさん!」
「セリア?」
「村に来てる!」
「どこ!?」
「入口!」
椅子を蹴るように立ち上がる。
「クウ!」
「クゥ!」
「行くぞ!」
「ちょっと! 私を置いていかないでよ!」
家を飛び出した。
村の入口へ走る。
遠くに、青い髪が見えた。
「セリア!」
振り返る。
「ルカ」
セリアは旅装だった。
短剣、鋼糸、大きな荷物。
大森林迷宮で初めて会ったときと同じ、旅をする冒険者の姿。
「もう行くの?」
「うん」
「どこ?」
「東にある町」
「何しに?」
「調べ物」
セリアが胸元へ触れる。
服の中には、あの小さな飾りがある。
「大森林迷宮で聞いたことを調べてみようと思って」
「黒くて滑らかなやつ?」
「うん」
生き残った冒険者が言っていた。
未踏区域の奥、木々の間にあった、岩でも建物でもない、黒くて妙に滑らかな何か。
「昔の記録を扱ってる人がいるらしいの。何か分かるかもしれない」
「分からなかったら?」
「別の場所を探す」
「そこにもなかったら?」
「また次」
「それでもなかったら?」
「ルカ」
「何?」
「いつまで聞くの?」
「気になったから」
セリアが呆れたように笑う。
「見つかるまで探すよ」
「…………」
簡単に言った。
「怖くない?」
セリアが俺を見る。
「何が?」
「旅」
自分でも、こんなことを聞くとは思わなかった。
「大森林迷宮みたいなこと、またあるかもしれない」
「うん」
「もっと強い魔物がいるかもしれない」
「うん」
「……死ぬかもしれない」
隣でミアが黙った。
セリアも、少しだけ黙った。
「怖いよ」
やっぱり、そう答えた。
「怖くない人が冒険者になるわけじゃないって言ったでしょ?」
「覚えてる」
「私だって死にたくない」
セリアが自分の荷物を軽く叩く。
「だから準備する」
短剣。
「戦えない相手なら逃げる」
それから、俺たちを見る。
「一人じゃ無理なら、誰かに頼る」
「…………」
「それでも」
セリアが東へ続く道を見る。
「知りたいの」
自分がどこから来たのか。
どうして、この飾りを持っていたのか。
「怖いからってここでやめたら、たぶん私はずっと後悔する」
「……そっか」
「うん」
セリアが俺を見る。
「ルカは?」
「俺?」
「世界の果て」
「…………」
「行くんでしょ?」
すぐには答えられなかった。
「……分からない」
初めて、そう答えた。
セリアは驚かなかった。
「そっか」
「笑わないの?」
「どうして?」
「俺、ずっと行くって言ってたから」
「迷ったっていいでしょ」
セリアが笑う。
「世界の果ては逃げないよ」
「……たぶん」
「そこは信じようよ」
ミアが笑った。
俺も少しだけ笑った。
「じゃあ」
セリアが荷物を背負い直す。
「行くね」
「もう?」
「暗くなる前に次の宿場まで行きたいから」
「そっか」
「ミア」
「はい」
「またね」
「はい。また会いましょう」
「クウ」
「クゥ!」
セリアがクウの頭を撫でる。
「ルカ」
「うん」
「また」
「……セリア」
「何?」
「また会える?」
口から出た。
セリアが少し驚く。そして、笑った。
「冒険者を続けてれば」
道の先を指す。
「きっと、どこかで」
「……うん」
「そのときまでに火魔法、忘れないでね」
「忘れないって!」
「本当に?」
「俺を何だと思ってるんだ!」
「火をつけるのに一時間かける人」
「それはもう昔の俺!」
「数日前だけど」
「細かい!」
セリアが笑う。
そして、今度こそ歩き出した。
一人で。知らない場所へ。
青い髪が小さくなる。
やがて、道の向こうへ消えた。
「……行っちゃったね」
ミアが言う。
「ああ」
「寂しい?」
「ちょっと」
「素直」
「なんだよ」
「別に」
ミアもセリアが消えた道を見ている。
「また会えるよ」
「……うん」
俺は、しばらく道の先を見ていた。
◆
その夜。
父さんと家の前に座っていた。
星が出ている。
クウは家の中。ミアも自分の家へ帰った。
「父さん」
「ん?」
「冒険者だったとき」
「ああ」
「仲間が死んだこと、ある?」
父さんが黙った。ほんの少し。
「ある」
「……そっか」
「なんだ。急に」
「大森林迷宮で」
「ああ」
「三人死んだ」
父さんは何も言わない。
「昨日まで喋ってた人だった」
「……そうか」
「俺の祝福で確認した」
あの感覚。
「死んでるって……分かった」
「…………」
「父さんも怖かった?」
「怖かったぞ」
「それでも冒険者を続けた?」
「ああ」
「なんで?」
父さんはすぐには答えなかった。空を見る。
「お前は?」
「え?」
「どうなんだ」
「質問してるの俺なんだけど」
「たまには父親らしいことさせろ」
「それ父親らしいの?」
「たぶんな」
「たぶんかよ」
少し笑った。
でも、また黙る。
「俺……」
言葉を探す。
「世界の果てまで行きたい」
「ああ」
「ずっと行きたかった」
「知ってる」
「でも」
ガイル。ミア。クウ。
「怖くなった」
初めて、誰かに言った。
「自分が死ぬのも怖い。でも……」
隣の家を見る。
「誰かが死ぬ方が、もっと怖い」
「そうか」
「父さんは止めないの?」
「止めてほしいのか?」
「……分からない」
「なら、今は分からないでいい」
「え?」
父さんが俺を見る。
「怖いなら怖がれ」
「…………」
「迷ってるなら迷え」
「でも」
「怖くない奴が勇気あるわけじゃない」
父さんが夜空を見る。
「何が怖いのか知ったあとで、それでも行くのか。それとも別の道を選ぶのか」
そして。
「それはお前が決めろ」
「父さんなら?」
「俺の話じゃない」
「ずるい」
「父親だからな」
「便利だな、それ」
「便利だぞ」
父さんが立ち上がる。
「答えが出たら教えろ」
「……うん」
「それまでは薪割りだ」
「なんで!?」
「旅に出ないなら働け」
「急に現実的!」
父さんが笑いながら家へ入っていく。
俺は一人、しばらく星を見ていた。
◆
翌朝。
まだ村が眠っている時間に目が覚めた。
眠れなかったわけじゃない。
ただ、目が覚めた。
外へ出る。朝の冷たい空気。
誰もいない道を歩く。
子どものころ、ミアと何度も走った道。クウを追いかけた畑。父さんに剣を教わった空き地。
全部、知っている場所。
村の入口まで来た。道がある。
ローデンへ。その先へ。
セリアも、昨日、この道を歩いていった。
もっと先には、俺の知らない町がある。知らない国。知らない迷宮。海。世界の果て。
知らないものが、たくさんある。
「…………」
怖い。知らないということが、少しだけ怖くなった。
でも、それ以上に知りたい。
道の先に何があるのか。見たい。
誰かから聞くんじゃない。本で読むんじゃない。父さんの昔話でもない。自分の目で。
「……やっぱり」
なくなっていなかった。
冒険したい気持ちが消えたんじゃない。
俺は、冒険が怖いものでもあると、初めて知っただけだった。
「…………よし」
村へ戻る。
もう、迷わなかった。
◆
「父さん」
朝食を作っていた父さんが振り返る。
「ん?」
「俺……行くよ」
父さんの手が止まった。でも、驚かなかった。
「ああ」
それだけ。
「……そろそろだと思ってた」
「分かってたの?」
「十五年も世界の果て世界の果てって聞かされてるからな」
「そこ?」
「他に何がある」
「父親の勘とか」
「ない」
「ないの!?」
父さんが笑う。
「いつ出る?」
「準備ができたら」
「どこまで行く?」
「分からない」
「いつ帰る?」
「……それも分からない」
「そうか」
父さんが頷いた。
「止めないの?」
父さんが眉を上げる。
「俺が止めたぐらいで止まるのか?」
「止まらない」
「なら聞くな」
「……うん」
父さんの手が頭に乗る。
「ただし」
「何?」
「帰ってこい」
大森林迷宮へ行く前にも言われた。
あのときとは、聞こえ方が違った。
「……うん」
頷く。
「帰ってくる」
世界の果てへ行く。知らないものを見る。
その先に何があるのか、自分の目で確かめる。
でも、それで終わりじゃない。
生きて、帰ってくる。
「よし」
父さんがいつもの調子に戻った。
「なら準備だ」
「うん」
「水、保存食、毛布、薬、ロープ、着替え、調理道具、予備の靴――」
「ちょっと待って」
「なんだ」
「多くない?」
「長旅だぞ」
「持てないって!」
「だから荷車を使え」
「荷車!?」
「小さいのがある」
「冒険者っぽくない!」
「荷物を全部背負って腰を痛める方が格好悪い」
「それはそうだけど!」
「あと――」
父さんが何か思い出したように、部屋の奥を見た。
「……いや」
「何?」
「明日でいい」
「気になるんだけど」
「荷造りするときに渡す」
「何を?」
「縁起物だ」
「……縁起物?」
「そうだ」
父さんはそれ以上教えてくれなかった。
気になる。ものすごく気になる。
でも、それより先にやることが山ほどある。
「じゃあ飯食ったら準備する!」
「ああ」
「世界の果てまで行くなら、何日分くらい食料いる?」
「お前は途中で食料を買うという発想がないのか?」
「……なるほど」
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫!」
父さんがため息をつく。
俺は笑った。
怖さは、まだ残っている。
たぶん、これからも。
でも、それでいい。
何も知らなかった俺が、村を出るんじゃない。
冒険が楽しいだけじゃないと知った。
帰ってこない人がいることも知った。
それでも、俺は世界を見たい。
だから、行く。
世界の果てを、この目で見るために。




