第1話 十五歳、冒険の始まり
――眠れなかった。
正確には、一度は眠った。
けれど目を閉じて、次に目を開けたときには、窓の外はまだ真っ暗だった。
「……まだか」
布団の中でもぞもぞと寝返りを打つ。しばらくして、もう一度窓を見る。暗い。
「まだか……」
目を閉じる。開ける。やっぱり暗い。
「…………もう朝でいいだろ」
「クゥ……」
呆れたような鳴き声が、ベッドの脇から聞こえた。
「なんだよ。お前だって楽しみだろ?」
「クゥ」
「嘘つけ。絶対楽しみにしてるって」
返事はない。代わりに、白い塊がくるりと丸くなった。
「……寝るのかよ」
今日、俺は十五歳になった。
そして――今日から俺は、冒険者になる。
「よし!」
もう我慢できない。勢いよく布団を蹴飛ばした。
床に降り、窓を開ける。
ひんやりした朝の風が部屋へ流れ込んできた。
夜と朝の境目。遠くの空が、ほんの少しだけ白み始めている。
俺は窓枠に両手をついて、その向こうを眺めた。
山がある。その向こうには街がある。さらに向こうには、まだ見たことのない国がある。
砂漠。雪山。巨大な森。ダンジョン。そして、ずっとずっと先には――海。
その海を進んだ先にあるという、誰も越えられない場所。
――世界の果て。
どれだけ船を進めても、不思議な潮の流れに押し戻されてしまう。
父さんから初めてその話を聞いたのは、いつだっただろう。
たぶん、まだ俺が五つか六つの頃だ。
『父ちゃん。世界の果ての向こうって、どうなってるの?』
『さあな』
『父ちゃんも知らないの?』
『俺もそこまでは行ったことがないからな』
あのとき俺は、ものすごく驚いた。父さんは元冒険者だ。
俺が聞いたこともない国へ行った。巨大な魔物と戦った。古い遺跡にも潜った。
そんな父さんにも、知らない場所がある。
だから聞いた。
『じゃあ、その先には何があるの?』
父さんは笑った。
『それが分からないから、冒険するんだろ?』
その言葉を聞いた瞬間、子供だった俺の中で、何かが決まった。
「……絶対、見てやる」
誰も見たことがないなら、俺が見ればいい。
世界には、俺の知らないものが山ほどある。
だったら――全部、この目で見てみたい。
机へ向かう。
そこには昨夜から何度も確認した荷物と、一冊の古びたノートが置いてある。
表紙には、子供の頃の俺が書いた歪な文字。
『ぼうけんノート』
開く。父さんから聞いた場所。見てみたい魔物。行ってみたい街。食べてみたい料理。子供の頃に描いた、何なのか自分でも分からない魔物の絵まで残っている。
そして一番最初のページ。
『世界中を、この目で見る!』
「……よし」
パタンとノートを閉じる。
「行くぞ、クウ!」
「クゥ……」
ようやく白い塊が顔を上げた。
猫ほどの大きさの身体を覆う、白に淡い灰色の混じった柔らかな毛。頭から伸びる二つの大きな耳は、羽根を重ねたような妙な形をしている。
青い瞳が眠そうに俺を見つめ、二股に分かれた尻尾がゆらりと動いた。額にある小さな菱形の結晶が、差し込み始めた朝日を受けて淡く輝く。
「今日から俺たちの大冒険が始まるんだぞ!」
「クゥ」
クウは大きなあくびをした。
「……もうちょっと喜べよ」
まあいい。こいつとの付き合いも長い。
俺がどれだけ言ったところで、興味がないときのクウはこんなものだ。
荷物を背負う。
「水、食料、着替え、冒険ノート……」
指差し確認。
「よし。完璧!」
そのときだった。
「ルカー!」
聞き慣れた声が、家の外から飛んできた。
「起きてるー!?」
「とっくに起きてる!」
「だったらちょっと来て!」
「なんだよ?」
窓から顔を出す。
家の前に、一人の少女が立っていた。
短い茶色の髪。小柄な身体には、すでに旅用の服。腰には薬草なんかを入れる小さな鞄。
そしてその手には――見覚えのある毛布。
「……あ」
ミアが毛布を持ち上げる。
「これ、なんで庭に落ちてるの?」
「…………」
「昨日、『旅に必要だから絶対持っていく』って言ってなかった?」
「言った」
「じゃあなんで庭にあるの?」
「……風?」
「ルカ?」
「今行きます」
俺は窓から離れた。
完璧だったはずなんだけどな。
◆
「まったく……」
ミアは慣れた手つきで毛布を丸め、俺の荷物へ括りつけていく。
「出発する前からこれで大丈夫なの?」
「大丈夫だって」
「その台詞、何回聞いたと思ってるの」
「今回は本当に大丈夫」
「昨日も聞いた」
「…………」
言い返せない。俺より一つ年下のくせに、こういうときだけ妙に偉そうだ。
「クゥ!」
そんな声とともに、家から飛び出してきたクウが俺の横を駆け抜けた。
「あ、クウ。おはよう」
「クゥッ!」
さっきまで眠そうだった耳が、これでもかというほど立っている。
ミアの足元へ駆け寄ると、そのまま身体を擦りつけ始めた。
「よしよし。今日もかわいいね」
「クゥ♪」
「…………」
俺は黙ってそれを眺めた。
「クウ」
「クゥ?」
「お前、さっき俺が『大冒険が始まるぞ』って言ったとき、あくびしたよな?」
クウは首を傾げる。
「ミアが来たらそれか?」
「クゥ」
「お前、誰の相棒なんだよ」
「私じゃない?」
「違う!」
ミアが笑った。クウも嬉しそうに尻尾を振る。
……納得いかない。
「朝っぱらから元気だな、お前たちは」
後ろから声がした。
「父さん」
家の入口に、父さんが立っていた。
いつもと同じ格好。いつもと同じ顔。だけど、その手には一本の剣が握られていた。
鞘も柄も新しくない。細かな傷がいくつも刻まれ、長い間使われてきたことが一目で分かる。
俺はその剣を知っていた。
「それ……」
「ああ」
父さんが俺の前まで来る。
「俺が使ってた剣だ」
何度も聞かせてもらった。父さんが冒険者だった頃、ずっと使っていた剣。
「いいのか?」
「家に置いといても薪は割れんからな」
「剣で薪割るつもりだったのかよ」
「だから置いてあったんだろ」
「そういう問題か?」
父さんが笑う。そして、鞘ごと俺へ差し出した。
「持ってけよ」
両手で受け取る。
「……重い」
「剣だからな」
「知ってるよ」
でも、不思議だった。
ずっと見てきた剣なのに、自分の腰に下げると思った瞬間、まるで別のものに見える。
鞘に残った傷を指でなぞる。
この剣で父さんはいろんな場所へ行った。俺の知らない景色を見た。知らない魔物と戦った。
「見とれるほどすごい剣じゃないぞ」
父さんが言った。
「分かってる」
「名のある職人が打ったわけでもないし、魔法がかかってるわけでもない」
「うん」
「俺が若い頃に買った、ただの剣だ」
俺は腰に差した。少し重い。
でも――悪くない。
「それがいい」
父さんが一瞬だけ目を細めた。
「そうか」
そしてもう一つ。首に巻いていた古いスカーフを外した。
「これも持ってけ」
「これも?」
「砂避けにもなるし、寒いときにも使える。怪我したら布にもなるぞ」
「父さん、これ気に入ってただろ?」
「だからやるんだよ」
俺の首へ乱暴に巻きつける。
「うわっ、苦しい!」
「旅してりゃ、そのうち巻き方も覚える」
「教えてくれよ!」
「自分で覚えろ」
「雑だな!」
ミアが隣でくすくす笑っている。
父さんは一歩離れて、俺を見る。
「ルカ」
「ん?」
「そいつで俺はいろんな場所を見た」
父さんの視線が、腰の剣へ落ちる。それから俺を見る。
「次は、お前の番だ。お前が見たいものを見てこい」
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
「……ああ!」
大きく頷く。
「全部見てくる!」
「全部は欲張りすぎだろ」
「父さんが言ったんだろ。世界は広いって」
「言ったな」
「だったら全部見る」
「そうか」
父さんはまた笑った。
「じゃあ長生きしろ」
「そこ!?」
「当たり前だ。冒険者なんて、生きて帰ってなんぼだぞ」
その言葉だけ、少し声が違った気がした。
けれど、すぐにいつもの父さんへ戻る。
「ほら。行くんだろ?」
「ああ!」
踵を返そうとして――ふと家の中が目に入った。
棚の上。使われていない道具に混じって、一枚の黒い板が置かれている。
「あ」
俺は家へ戻り、それを手に取った。
黒い。石とも金属とも違う、妙につるりとした手触り。板というには薄く、何に使うのかも分からない。
子供の頃から、何度触ったか分からない。
振ってみたり。叩いてみたり。魔力を流してみたり。クウの額に乗せてみたり。
何をしても、何も起こらなかった。
「父さん」
「ん?」
「結局これ、何なんだ?」
「さあな」
「どこで拾ったんだっけ?」
「昔、潜った遺跡だ」
「どこの?」
「忘れた」
「絶対嘘だろ」
「年寄りは物忘れが激しいんだよ。いつか自分で見つけろ」
「またそれかよ」
俺は黒い板を棚へ戻した。
「帰ってくるまでに思い出しとけよ」
「期待しないで待ってる」
「そこは期待しろ!」
ミアが外から声を上げた。
「ルカー! 早くー! 本当に置いてくよー!」
「今行く!」
俺は家を飛び出した。
◆
村の出口まで来て、俺は足を止めた。
何度も通った道。遊んだ森。魚を捕った川。転んで膝を擦りむいた坂道。ミアに怒られた場所なんて、数え始めたらきりがない。
十五年間。ここが俺の世界だった。
「……ルカ?」
隣にミアが立つ。
「どうしたの?」
「いや」
もう一度だけ、村を見る。
父さんが少し離れた場所からこちらを見ていた。
手を上げる。
父さんも上げる。
寂しくないと言えば、たぶん嘘になる。
だけど、前を向いた。
一本の道が、遠くまで続いている。
その先には、まだ見たことのない景色がある。知らない街がある。知らない人がいる。知らない魔物がいる。知らないダンジョンがある。
そしていつか――
世界の果てだって、この目で見る。
風が吹いた。
父さんからもらったスカーフが、ばたばたと大げさになびく。
「うわっ!」
「ちょっと、ちゃんと巻けてないじゃない!」
「父さんのせいだ!」
「もう、貸して!」
「いいって! 旅してたら覚える!」
「今覚えなさい!」
ミアが俺のスカーフを掴もうとする。
俺は笑いながら逃げた。
「行こうぜ、ミア!」
「だから待ちなさいって!」
「クウも!」
「クゥ!」
「……って、なんでお前ミアの横走ってんだよ!」
クウは聞こえないふりをしている。
まったく。まあいい。
腰の冒険ノートを取り出す。歩きながら、最初のページを開いた。
子供の俺が書いた、ずっと変わらない夢。
『世界中を、この目で見る!』
「ねえ、ルカ」
「ん?」
「最初はどこに行くの?」
決まっている。
十五歳になった俺が、冒険者になるための最初の場所。
神から最初の祝福を授かる場所。
そして――俺にとって初めての、本物のダンジョン。
ノートを閉じる。
「まずは――」
胸いっぱいに朝の空気を吸い込んだ。
「【始まりの迷宮】だ!」
俺は走り出した。
「だから先に行くなってば!」
後ろからミアの声。その横を、白い小さな影が駆けていく。
知らないことだらけの世界へ。
俺たちの最初の冒険が今――始まった。
お読みいただきありがとうございます。
テンポの良い会話をイメージしてるので読みにくかったらすいません。
ルカたちの冒険を一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。




