宇宙の旅 1
第一段ロケットの燃焼が終了し、それまで感じていた加速度が無くなる。
エレナは虚空に放り出されたように思い、恐怖を感じる。
だが、すぐに第二段ロケットが点火し、体がシートに埋め込まれて安堵する。
宇宙は初めてだった。
エレナ・ロペスは感染症学者だった。
学位は分子生物学で取得した。タンパク質の一種である酵素の立体構造と触媒反応に関する研究だった。
酵素は正式に分類されているものだけでも数千種類ある。潜在的にはどれほどあるか、想像もできない。
そして触媒作用をするのであるから、産業的にも有用で、一生食べるのに困らないだろう。
そう思っていた。
エレナが二十代半ばの時にアフリカの奥地で未知の感染症が流行した。当時彼女が所属していた研究機関が『国際感染症警戒・対応ネットワーク』GOARNに分子生物学者を派遣することにした。
現地で『ナノポアシーケンサー』を使用して病原体のゲノム解読を行う仕事だった。
短期の仕事だったので、それほど危険なこともあるまいと思い志願した。
しかし、エレナはそこで、感染症流行地の惨状を目にすることになった。
『このままにしておくことはできない』
帰国したエレナは感染症学に転進する。研究対象には『エボラウイルス』を選んだ。以来20年このウイルスの研究をしている。
今回彼女が『ヒュギエイア』に出向することになったのは偶然だった。
『ヒュギエイア』は必要な時、いつでも感染症学者を『ヒュギエイア』に送り込める体制をとっていた。
世界中から50人程の学者を選び、交代で『ヒュギエイア地上センター』に待機させていた。
2週間の隔離期間と、2か月の待機期間、あわせて2か月半を『地上センター』で過ごす。
待機中の研究者は、予算に限りはあるものの、その期間『ヒュギエイア』のラボを一つ、自分の研究用に使うことができる。
なので、待機希望者は多かった。
『ヒュギエイア』のラボでは、地上にいる研究者が『AI複合体』と会話しながら、上空のステーションで生物学実験を進めることが出来た。
研究者が実験計画書をAIに与えると、AIが手順を定め、実験室内では身長1メートル50センチほどのロボット『ロビ』が人間の代わりに実験を進めてくれる。
結果はカメラ画像や数値、グラフなどで地上に送られてくる。
『ヒュギエイア』には人間も居住している。結果次第で手法を変えなければならない込み入った実験などは、研究者自身が『ヒュギエイア』の居住棟に一時滞在して実験を行う。
実験環境の維持や管理のための職員も上空に滞在している。
今回は、エレナが待機当番だった。
『ヒュギエイア地上センター』はケープ・カナベラルに近いココア・ウエストにある。宇宙飛行は商業飛行の時代になっている。低軌道までならば、ケープ・カナベラルでは週に2,3回、必要があれば1日1回ロケットを打ち上げることができる。
ファルコンXロケットの上にドラゴン7宇宙船を載せて打ち上げられる。
ドラゴン7のトランク・セクションには『ヒュギエイア』が必要とする様々な装置、試薬、実験器具などが載せられる。過去のドラゴン2と異なり加圧モジュールとなっている。
変わった物では実験動物の餌、寒天粉末なども載っている。寒天はシャーレで使う培地の基材になる。
ドラゴン7は通常4人乗りだった。横並びに四席が並んでいて、中央が司令とパイロットの座席になる。
残りの二つはミッション・スペシャリスト用だ。
宇宙ステーションからの脱出時などのため、座席は後部にもう三基展開できるようになっている。
今回はその部分に、宇宙での繁殖が確立されていないサルなどの実験動物のケースが置かれている。
ドラゴン7の操縦室はビジネス・ホテルのシングルルームくらいの広さだ。そのまんなかの中空に、アームに支えられて先ほどの座席が4席、浮いている。
座席の手前に24型ほどのタッチパネル・ディスプレイが並んでいて、青を基調とした画面が表示されている。
中央には白色の物理ボタンが並んでいて、これは主に緊急時の操作につかわれる。中央の司令とパイロットの席の間には操縦用のジョイスティックが一つあった。
第二段ロケットの燃焼が停止した。
さきほどと同様に微小重力状態になり、こんどはそのままだった。しかし、エレナは恐怖を感じなかった。心理的なものなのだろう。
『ここまで上がって、軌道に乗ってしまえば、落ちることはない……』
エレナが目の前のタッチ・パネルディスプレイに括り付けた『無重力メーター』を見る。吊り下げられた金魚の『ぬいぐるみ』だった。紐がS字になって、宙に浮いている。
ディスプレイの向こうにある窓カバーが自動的に開き、宇宙が見えた。




