インシデント・プロトコル
「で、ウズラとサルはローバー3の中で無事なのか」田所隊長が『斑竹姑娘』に一人残った医師に尋ねる。
「はい、いまのところ元気そうに動き回っています」
医師たちが『羽衣』に帰着してから24時間が経っていた。
「で、安全に輸送できるのだろうか」田所が尋ねる。
「アクリルケースは動物実験施設内にあったものです。酸素ボンベを接続していますから、ケース内の空気は排気フィルターを通って外に排出されているはずです。しかし、念のためローバーと同じように輸送後に徹底的に除染しなければなりません」
「なるほど」
「なにか、問題があるのでしょうか」医師が言った。
「じつは、問題がある」
「どういうことでしょう」
「X国が激昂している」
「なぜですか」
「君が持ち帰った画像だ」
「私のですか」
「X国の76名の遺体を撮影した写真だ。中には若い女性もいる。基地の医者だったかな」
「そのとおりです。あの状態ではそれぞれの身元の確認はできませんでした。死亡確認の必要があると思い、撮影しました」
「それはわかる。しかしそれが故人の尊厳を侵害した、と主張している」
「なぜそうなるのでしょう。X国以外に故人の写真を公開したのですか」
「いや、それはしていない。X国以外に公表したのは、医師のディスプレイを写した画像や生物学実験室の画像などだけだ。実験室画像の公開でも怒っている」
「彼女が書きかけの文書には何が書いてあったんですか」
「本国の要請で、インフルエンザ発生前後の基地内のできごとを詳細に報告しようとしていたようだ」
その報告書には、以下のようなことが書かれていた。
・17日前に軽微なインシデントが1件あったこと。
・作業者が安全キャビネットの密閉性に問題がある可能性を発見した。
・作業者は動作を停止し、ただちに同僚に異常を知らせた。
・同僚が管制室にインシデントを報告し、管制室は実験室内への出入りを禁止した。
・作業者は同僚の監視を受けながらキャビネットから離れ、第2レベルとの間にあるシャワー室に入る。
・作業者はシャワー室で陽圧スーツのまま、プロトコルで指定された除染剤を使用して決められた時間の洗浄を行った。
・さらにスーツとエアラインホースを外し、自身の体も人体用の洗浄剤で洗った。
・基地の隊員全員に抗インフルエンザ薬を予防投与。
・翌日、閉鎖区画の薬液噴霧とキャビネット、手袋、陽圧スーツなどを処分
・5日後、同作業者が悪寒、頭痛、筋肉痛を訴え、発熱がみられた。
・翌日、患者から採取した検体からH5N1の変異株が検出された
・ただちに基地の隊員全員に、再度抗インフルエンザ薬を処方。
……
「待ってください。隔離措置は行わなかったのですか」
「そこまでは書いていなかったそうだ」
医師が実験室内の間取りを思い出そうとする。たしかに隔離室のようなものはなかったかもしれない。
「医療評価と隔離措置を除けば、通常のインシデント手順のようですが。で、X国は、その報告書の公開も怒っているんですか」
「X国の内部文書を公開した。通信の秘密を暴露した、のだそうだ」
「そうですか。彼らが秘密裡に危険なウイルスを研究していたことのほうが、よほど物騒だと思いますが。それに核ですよ。彼らは同胞を核で基地ごと蒸発させてしまいました。わたしが遺体の写真を持ち帰らなければ、彼らは行方不明者のままです」
「たしかに、そうだ。そして、X国の基地から持ち帰った物があるのであれば、それはただちに同国に返却すべきだとも言っている」
「ウズラとアカゲザルのことですね。返すのですか」
「トリとサルが当基地にいることは、X国には知らせていない。JAXAが秘密裡に日本の厚生労働省経由で世界保健機関(WHO)に問い合わせた」
「どうなりました」
「国際共同の伝染病研究機関『ヒュギエイア』が動物個体--トリとサルのことだが--を受け入れるそうだ」
「そうですか、それはよかった」
「赤道付近にある合衆国のマス・ドライバーで『ヒュギエイア』付近まで動物個体を打ち上げる。君もマス・ドライバーまで同行してほしい」
「私も月の赤道まで行くのですか、遠いですね」ローバーならば片道7日かかる。
「君のような専門家が取り扱うべきだろう。ムーン・ホッパーなら半日もあれば着くだろう」
「ムーン・ホッパーですか」医師が言った。




