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バード・フル(H5N1)  作者: 弥一


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BSL施設

 医師が扉を引く。開いた。


 中に入ってみると、広い実験台が置かれていて、シャーレやピペット、光学顕微鏡などが置かれている。右側の壁はガラス張りで、なかに実験動物のケージが幾つも置かれていた。アカゲザル、ミニブタ、マウス、ウズラ、ウサギなどがケージの中で飼われている。


 飼育室内の空気は感染予防のためのフィルターを通しているのだろう。ウズラは生きている。


 実験室の正面にも扉があり赤い字で『3』と書かれていた。


”バイオ・セーフティー・レベル・3ということか”と医師は思った。その扉も引いてみる。BSL3ならば、立ち入りが厳重に管理されているはずだった。


 驚いたことに、その扉も開いた。扉の向こうには、小さな更衣室とシャワー室があり、その向こうにもう一つの扉があった。

”BSL3だ。なぜ水工場に生物学実験施設があるのか”


 宇宙服を着たままなので、感染防護服を着ているようなものだ。医師が奥の扉を少し開け、中をのぞきこむ。こちらの扉は一回り小さく作られていたので、宇宙服を着たままでは通れそうもない。


 安全キャビネットやオートクレーブが置かれていた。


 安全キャビネットというのは、水槽のような透明な箱状の装置で、手前に二つの手袋ポートがあり、そこにゴム手袋のようなものが取り付けられている。


 作業者が病原体に直接触れることなく、それらを取り扱うことができる。ドキュメンタリーや映画で見たことがあるかもしれない。

 オートクレーブとは、加圧した高温の水蒸気で器具や廃棄物を滅菌する装置だ。121℃前後で一定時間処理することにより、多くの微生物を不活性化する。


 圧力釜のようなものだ。

.


「ここは、なんですか?気味が悪いです」背後の医療助手が医師に尋ねる。


「生物学の実験施設だ。まずまちがいないだろう」医師が答える。


「月で生物学の研究をするんですか。どうしてです。地上でやればいいのでは」


「生物学といっても、有害な細菌やウイルスを研究している。地球上にもあるが、危険性の高い病原体を扱うため、一部を月に持ってきたのだろう。隔離されているし、管理しやすい」


「そうなんですか」


「わが国も、国際共同の『ヒュギエイア』ステーション計画に参加している。地球軌道上の生物学実験ステーションだ」

「それ、聞いたことがあります」


 医師が助手の言葉を聞き流し、何か考え込む。そして実験動物の飼育エリアを見た。


「手伝ってくれ、実験動物を持ち帰る」


「え、いいですよ」


 医師が飼育エリアに入り、透明で四角いアクリルケースを二つ取り出して助手に渡す。


 助手がケースを見ると、一つの壁面が金属製の引き戸になっていた。


 そして、医師が少し思案して、ウズラとアカゲザルのケージを選び、これも助手に渡す。


「二匹を、それぞれアクリルケースのなかに入れてくれ」


「ちょうどいいケースがありましたね。すっぽり入りましたよ」


「そのケージを入れるためのアクリルケースだからだ、空気感染や飛沫感染の確認につかう」


「へえ、そうなんですか」


「感心していないで、それ専用の酸素ボンベがあるはずなんだ、探してくれ」


「あ、上のところのバルブがボンベを接続するところですね、そうですね……あ、それかな」


「どれだ」


「先生の背後の棚にある小さなボンベがそうじゃないですか」


 医師が振り返る。


「おお、これか、そうだろうな」医師が15センチメートルほどのボンベを持ち上げ壁面を見る。『O2 4 ~6 hours』という文字が読み取れた。

「念のため二本ずつ持っていくか、それとレギュレーターはこれだな」それらをつかんで助手に渡す。


 助手が手際よく組み立てながら言った。

「地球の自宅には熱帯魚の水槽があるんですよ。あっちのは二酸化炭素のボンベですけどね」

 あっというまにアクリルケースに取り付けた。


「これも一つ持ってくれ」


「なんですか、これ。宇宙食ですか」


「たぶんウズラとサルの餌だ」


「餌も持っていくんですか」


 二人でアクリルケースをひとつずつもち、実験室から出た。医師がウズラ、助手がアカゲザルだった。



「どうでした」設営担当者が言った。


「細菌などの研究室です」医師が答える。


「それで、この基地の隊員がインフルエンザに感染したのですか。アウトブレイクですね」


「おそらく、そうだろう」


「で、その小鳥はどうしたんですか」


「ウイルスを持ち帰る」医師が言った。


「どうしてです」


「もし、ここのウイルスがH5N1型のインフルエンザウイルスならば、ヒトからヒトへ効率よく感染する能力を獲得した変異株だということだ。持ち帰って研究し、防疫対策をたてなければならない」


「そういうことですか、でも、トリもサルも元気そうですが」


「これから感染させる。まず医務室だ」実験動物に感染させられるかどうか、自信はなかったが、急場だった。できることをやることにした。


 医師が一人で医務室に入り、鉗子(かんし)を持って出て来る。ハサミ型のピンセットのようなものだ。そして通信室に入る。


「通信室の遺体は死亡後10時間以内だ、感染性のウイルスが残っている可能性はある」


 医師が遺体の前で短く両手を合わせたあとで、遺体を少し横にずらす。下を向いた顔の一部が見えるようになる。

 口の周りにたくさんのピンク色の泡が付着していた。


 助手がウズラのケージをアクリルケースから出し、その上で餌袋を開く。中はゴマのような雑穀だった。

 医師が鉗子でピンク色の泡を採取し、袋の中の雑穀になすりつける。


「よし、いいぞケージに入れてくれ」


 助手が袋を傾けて餌をケージの床に撒く。床は金属板だった。


「アクリルケースに戻してくれ。次はサルだ」


 アカゲザルにも、ウイルスが付着した餌を与える。そして二匹をアクリルケースに移し、酸素を供給した。


「最後に、まだ見ていない居住区を一回りしてくる」医師が言った。


「なんでです。生存者の確認ですか」


「私は医師だ。死亡の確認には医師の判断が必要だ。私の患者ではないので名前もわからないが、数と死亡の確認はしておかなければならない」


 そう言って医師が一人で居住区に戻っていく。残された三人がエアロックで待つ。


 やがて医師が戻って来た。


「全員死んでいた。さあ、引き揚げよう」




 4人が基地を出て『斑竹姑娘(バンブー・クーニャン)』に乗り込み2時間ほど緩い斜面を下っていた。

 ウズラとアカゲザルのケージは、後ろの二つの座席を占めていた。副長と通信士も、感染を避けるため、ローバーの中で宇宙服を着用している。


 その時だった。ローバーの背後から鋭い光が射した。


「なんだ、あれは」コンピュータ技師が言う。


「後部カメラの映像を再生してみましょう」通信担当が言い、全員が見ることのできるメインディスプレイに後部カメラの映像を映す。

 なにか、赤黒いドームのようなものが映り、真空の夜空に消えていった。


「これは現在の画像です。30秒ほど巻き戻してみましょう」そういって、タッチパネルを操作する。


 初めは暗くて何も見えなかったが、5秒程で白い閃光が画面全体に拡がった。光は徐々に輝きを減らしていき、やがて最初に見た赤黒い半円状のものにになっていく。


「これは核だな」副長が言った。


「核って、核爆発ということですか。地球からですか。まだメーデー発信から10時間程ですよ」医師が言った。


「月面か、月軌道衛星に固体燃料式の核ミサイルがあったんだろう」副長が残念そうに言った。


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