チアノーゼ
医師と医療助手がうつ伏せの遺体を仰向けにする。男性だった。医師がヘルメットに装着されている『目線カメラ』で撮影する。
カメラはすでに動画を撮影していたが、医師が操作すれば高解像度の静止画を別途保存できる。
最初に気付いたのは、口の周りのピンク色の泡だった。そして、唇が紫色だ。医師が遺体の手を取り、爪を見る。爪も紫色だった。
「チアノーゼだな」医師が言った。
「ARDS(急性呼吸窮迫症候群)ですね」これは医療助手。
「そうだ、かなりひどく苦しんだようだな」医師が遺体の首筋を探りながら言った。
「呼吸筋が強張っている」
「無線でインフルエンザだと言っていましたが」
「高病原性のインフルエンザならば、重症肺炎やARDSによって肺のガス交換機能が広範囲に損なわれる」
「肺炎で深刻な低酸素状態寸前だったとすると、ベッドに横たわっているはずですが、急激に悪化したのでしょうか」医療助手が言う。
「かもしれないし、この男にどうしてもやらなければならないことがあったのかもしれない」
エアロックから横にまっすぐ延びる廊下がある。
最初のドアを開くと通信室だった。スピーカーから『オキナ』が発する自動音声が聞こえる。
男が机に向かって突っ伏している。
「この男がメーデーを発信したのかな」コンピュータ技師が言った。「私が『羽衣』基地に現状を報告します。あとから追っかけて行きます」
次の部屋は医務室だった。白衣を着た若い女性が椅子から転げ落ちて、仰向けに横たわっている。彼女の肌にもチアノーゼがあらわれていた。
ディスプレイにはX国の言葉が表示されている。電子メールでも書いていたのだろうか。三人はX国の言葉が解らなかったが、一か所、アルファベットと数字で『H5N1』とあるところだけ読み取れた。
白衣の女性と、ディスプレイの文字も『目線カメラ』で撮影する。この写真を遺族が見ることは無いだろうが、X国のしかるべき立場の人間が死亡の確認をすることはできる。
そうすれば労働災害補償保険の手続きをとることができるだろう。
「H5N1というと鳥インフルエンザのウイルスですよね」医療助手が言う。
「ああ、70年ほど前から、いずれ人間への感染が広がる可能性があると言われていたが、幸いなことに、まだパンデミックはおきていない」
「すると、これが……」
「さあ、それはまだわからない」
それから、幾つかの居住室が続く。ベッドに多くの人々が横たわっていた。医師と助手が一人一人診察するが、すべて事切れて、冷たくなっている。
「これは、生存の可能性は少なそうだ」医師が言った。「ほとんどが死亡して24時間以上たっている。死後数時間以内と思われるのは、いまのところ通信室の男だけだ。なんで、こんなになるまで連絡してこなかったんだろう」
三人は、居住区を後回しにして、まっすぐ延びる廊下を先端まで行ってみることにした。
「この先が水工場でしょう、たぶん」そういって設営担当者がドアを開けた。巨大な釜のような物があった。
「あれが蒸気釜と復水器でしょう」
「氷床の底に高温の水蒸気を送り込んで、氷を溶かし、送り込んだ蒸気と氷床から生じた水蒸気を回収して水に戻しています」設営担当者が言った。
「なので、ここで行き止まりでしょうね。この先は月の岩盤になっています」
「戻りながら、通過してきた部屋を見てみましょうか」そういってエアロックに向かって戻り始める。
「ここは管制室でしょうね。いくつもディスプレイがあります」
そして、ここにも数人の男女が倒れていた。
開け放していたドアからコンピュータ技師が入って来る。
「ここにいたんですね。基地との通信は終えたのですが、なんでも、X国がメーデーをキャンセルしたい、といってきたそうです」
「どういうことだ」
「なんでも、この基地はX国の核心的な領土であり、立ち入りを禁じるとのことだそうです」
「そんなこといっても、もう入ってしまっている。こちらが最初にX国に通報したときには、そんなことはいっていなかったらしいじゃないか」
「そうですよ。、それよりも、途中気になるものを見つけました。先生見ていただけますか」
四人が管制室から出て、ふたつ前の扉に戻る。
「ここです。この扉です」コンピュータ技師が言った。
医師がよく見ると、確かにこの扉だけが他とは異なる。扉の縁に、壁の隙間を埋めるように黒いゴムが張られていた。
扉の上を見る。そこに黒い三ツ輪のような『バイオハザード』の記号が記されていた。




