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32.私と陛下の追いかけっこ


 振り返るとすぐそばに陛下が立っていた。

 私を黙って見下ろす。新緑思わせる緑色の瞳が私をまっすぐと見つめる。


「具合が悪いと聞いたが、大丈夫か?」


 ど、どうしよう。

 尋ねられたから答えなきゃいけないのに。言葉が全然でてこない。

 あれ?何で?だって、前までは普通に喋れたのに。

 それが、何で。


「おい、大丈夫か?」

「……さい」


 やっと出せた声もかすれる。

 だめだ。これじゃあ。このままじゃ。


「なに?」

「ごめんなさい!!!」


 私は叫ぶようにそれだけ言うと、陛下に背を向け、一目散に駆け出す。

 後ろから陛下のお付きの人達の驚きの声が上がる。

 わかっている。陛下に会って、挨拶もせず、逃げ出すなんて。とんでもないことをしている。

 そう、わかってはいるけれど。

 無理!今のこの状態じゃ陛下と話すなんてできないから!

 陛下には申し訳ないけど今日はもうこれで帰ってもらうしかない!


「本当にごめんなさい!!」


 後でどんなに怒られようと今は無理!だいたい陛下も陛下でしょう!なんでこのタイミングでくるかな!あれだけ事前に来るときは知らせて言ったのに!

 やっと陛下への感情に気付いたところなのに!このタイミングはないでしょう!

 後ろから止まれと陛下の怒鳴る声が聞こえたけど無視し、私は精一杯走る。

 離宮内にそのままの勢いで走りこむとラルフが驚いた様な声を上げる。


「姫様!?いったいどうして!?」


 ラルフのその問いかけに答えず、私は内心ごめんと謝りながらラルフの目の前を走り去る。

 ラルフには悪いけど今はラルフの相手もできそうにない。たぶんラルフならついてきてくれるだろうし。

 そう思っていると不意にまたラルフの驚きの声が上がる。


「へ、陛下!?な、なんで姫様を追いかけて!?」


 え?追いかけて?

 背筋に冷たいものがはしる。そっと私は首だけ振り返る。そしてその光景を見て凍り付く。

 陛下が、あの陛下が、あの陛下が。

 鬼の様な形相で私を追いかけてきていた。


「ちょ、なんでええ!?」

「おい、待てと言っているだろう!」


 いやいや、待てとかそうじゃないですよ!何で陛下が走って、私を追いかけているんですか!しかもめちゃくちゃ怒りながら!

 いやいや怖い!これは普通に怖いから!

 もはや足を止めることはできない。

 私は悲鳴を上げて、必死に足を動かす。少しでもスピードを落とせば、捕まる。

 捕まったらどうなるか。嫌な冷や汗が額から流れる。

 何で、何でこうなるのよ!?


「おい、待て!」

「待たないって、てか、陛下怖い!怖いから追いかけないで!」

「お前が逃げるから追うのだ!お前がまず止まれ!」

「それは無理だから!」


 ああ。いつか自分で言っていたな。陛下から逃げることもあるかもしれないって。

 本当にまさか現実に起こるなんて。

 私は全速力で足を動かす。もうドレスがどうとか気にしていられない。ルイザの贈り物がこんなにも早く役立つなんて。本当にルイザは優秀な待女だわ。

 陛下は手加減をしているのか、足の速さは私の方が上なのか、ある程度の距離はひらいている。

 ただし体力に関しては圧倒的に陛下の方が上である。陛下は走っているというのに全く息が切れていない。それに対して私はもう息切れが凄い。

 追いつかれるのも時間の問題だ。


「もう、陛下、諦めてよ!」

「諦めるのはお前だ!さっさと止まれ!」


 ここまできて止まる訳ないじゃん!絶対怒られるもん!

 でも、でも、もう疲れた!息がもたない!頭が痛い!足が重い!もう、体力が限界!

 ちらりと振り返る。陛下は少しも疲れた様子がない。

 もう駄目だ。

 そう思ったその時、私の足がもつれた。

 あっと思った時にはもう遅い。誰かが止める間もなく、そのまま私は思いっきり派手に転んだ。

 咄嗟に手で庇おうとしたが間に合わなかった。衝撃とともに顔面と腹を勢いよく床にぶつける。

 痛い!もの凄く痛い!

 思わず私は床に蹲って、痛みに悶える。

 しばらくそうやって悶えていると足音がすぐ近くでした。

 ちらりと見れば陛下の靴がすぐそばにあった。

 見上げれば陛下が呆れたような顔をしてそこに立っている。


「お前は一体何をしているのだ?」

「もとはと言えば陛下のせいでしょう!?」


 私は涙目になりながらそう答える。

 追いかけないでって、言っているのに、追いかけるなんて!あんまりだ!


「余が悪いと言うのか?」

「どう考えても悪いでしょう!?何で追いかけるんですか!しかもあんな怖い顔で!もう捕まったら何されるのか怖くて足を止めるなんてできなかったですよ!」

「お前の理屈など知るか!余が止まれと言ったのだ!普通は止まるべきだろう!」

「それこそ知りませんよ!もう体中が痛い!絶対、青あざできてますって!顔に傷もできてるかも!女の子なのに!」


 わかっている。こんなの八つ当たりである。

 陛下はもちろん悪くないし、急に逃げ出した私がそもそも悪い。ちゃんとわかっている。

 でも分かって欲しい。もう、私自身混乱しすぎて、訳がわからない。

 ケンカ口調じゃないともう陛下と話すこともできない。

 とにかく心臓の音がうるさい。顔も熱いし、頭がぼおとする。

 もちろん、走ったからという理由もあるけれど、たぶんそれだけじゃない。


「本当に痛い!もう駄目かもしれない!」

「大げさに言うな。ただ転んだだけだろう」

「大げさじゃないですよ!顔に傷でも残ったら、どうするんですか!?陛下が責任とってくださいよ!?」

「わかった」


 陛下のその一言に私は思わず、えっと間抜けな声をだす。

 本気ではなかった。

 売り言葉に買い言葉みたいなもので、てっきり陛下なら「何を言っているのだ」とそう言って呆れた顔をすると、そう思っていたのに。

 わかったって、本当にわかっているのだろうか?

 陛下は相変わらず無表情で私を見ている。

 いつも陛下はそうだ。こっちはその行動や言動にこんなにも動揺して、混乱しているのに陛下はいつも平気そうで。

 それが無性に腹立たしい!


「本当にわかっています!?責任とるって意味が、本当にわかっていますか!?」

「うるさい!わかっている!だからお前を嫁にすると言っているだろう!!」

「本当ですよ!絶対ですよ!途中でキャンセルなんかしないで下さいね!」


 言った後にあっと思う。

 さすがに言い過ぎた!?というか、今嫁にするとかいった!?

 いや、もとからそのつもりで私を迎えいれたんだろうけど。

 でも、本当に大丈夫!?どさくさにまぎれてとんでもないこと私言っちゃったんですけど!

 もう、とにかく口約束だけでもとか思った自分がいる。

 大丈夫!?これ、本当に大丈夫なの!?

 陛下はなかなか答えない。

 まずい。私の顔から血の気が引く。徐々に私の頭も冷静になり、自分の言った言葉の重みを考える。

 どうしよう。冗談ですって言った方がいい?そうすればごまかせる?

 ちらりと陛下の方を見る。陛下は黙って私を見下ろしている。

 その顔は何とも言えない表情をしている。

 今、冗談だと言えば確かにごまかせるかもしれない。そうすればさっき言った言葉をなかったことにしてもらえるかもしれない。

 わかっている。そうした方がいいと。

 でも、でも、そうしたくない自分もいる。できれば答えて欲しい。

 絶対にそうしないと。絶対に最後まで面倒みると。

 永遠にも感じる沈黙。思わず耐えきれず、私は俯く。

 そのままそうしているとようやく陛下が口を開いた。


「する訳がないだろう」


 それまでの怒鳴り声が嘘のように小さな声でそう答える。陛下はそっと屈むと私と視線を合わせる。


「大丈夫か?」


 その目が最初に比べるとやっぱり優しく見える。私は一瞬だけ目を合わせるとすぐにそらす。

 心臓がもうずっとうるさくて、本当にどうにかなりそうで。ああ、そうかと思う。

 これが恋だ。

 これが。私が前世では一度もしなかった。これが恋だ。

 嬉しくて、恥ずかしくて、どうすればいいかわからなくて。これが、この感情が、確かに恋だ。


「陛下がいけないんじゃないですか。怖い顔して追いかけてくるから」

「そうか」

「思いっきり転んじゃったじゃないですか」

「そうか」

「顔痛いです」

「そうか」


 本当に聞いているのだろうか。

 そう思って顔を上げようとした時、不意に頭に何かがあたる。手だ。陛下の大きな手が私の頭に何故か置かれる。

 何でと思う暇もなく、私の頭を強い力でつかむ。そして、その手ががしがしと乱暴に私の頭を撫でた。

 うわあ。頭撫でられている。

 そう感動したのは一瞬だった。その力があまりに強く、首が左右上下にぐいぐい動く。

 たぶん陛下はあまり誰かの頭を撫でたことがないのだろう。その手がやたらと強い。

 と言うか痛い!首が、首がとれる!そんなに首を動かさないで!気持ち悪くなるから!

 いくら何でも強く撫で過ぎ!!


「ちょ、陛下!首とれちゃうから!強すぎるから!」

「安心しろ。そんな簡単に首はとれん」

「いやいや、とれちゃうって、このままだと確実にとれるって!」


 私の必死の訴えに陛下は僅かに手の力を弱める。とはいえまだ強い。

 うん、あのね。嬉しいかと言われれば、確かに頭を撫でられるとか嬉しいんだけどさ。何て言うか思っていたのと違う。

 映画とかではこう、もっと優しく、軽くぽんぽんって感じだったのに。これはがしがしって感じで、まるで犬か何かを撫でるときの撫で方なんですけど!?本当に容赦ないし!髪も凄い勢いで乱れているし!


「陛下!髪が!髪が乱れるから!」

「お前の髪など最初から整っていないだろう」

「それは失礼でしょう!ちゃんと毎朝整えていますよ!」


 主にルイザが。

 毎朝寝ぼけている私をよそにちゃんと髪型を整えてくれている。

 もっとも、せっかくやってもらっても、昼間に私が散々好き勝手な事をするので、夕方にはすっかり髪型は乱れている。

 だからいいって言えばいいけど、でもこのまま撫でられるのはちょっと色んな意味で辛いと言うか。

 てか、もう一回手を止めて!一回止めましょう!


「陛下!ちょっと聞いています!?一回手を止めて下さい!」


 陛下の手が止まる。ようやく私の言葉が届いたようだ。

 ついでにその手も頭から離してくれるといいんだけどな。


「そんなに嫌だったか?」

「え?何がです?」

「口づけだ。嫌だったか?」

「なっ!?」


 突然の核心をつく質問に私は思わずたじろぐ。正直今すぐ逃げたいが、陛下が私の頭をしっかりとつかみ、それを許さない。

 ごまかすとか、そんなのできない雰囲気だよね。

 ど、どうしよう。


「嫌だったから、逃げたのだろう?」

「そ、それは違います!」

「違うのか?」

「いや、えっと、その、ですね」


 陛下が私を睨む。相変わらずその顔は怖い。

 どういう意味だ。そう言いたげな顔で私を無言で威圧する。

 これはもうごまかせる感じじゃない。

 私はぎゅうっと目を閉じ、覚悟を決める。


「その、嫌じゃないです!嫌ではないんですけど、その、慣れていないというか!とにかく恥ずかしいというか!」

「恥ずかしい?」

「そうですよ!だいたい陛下は慣れているかもしれないけど!私は初めてなんですよ!もっと、こう、段階を踏んで欲しいと言いますか!」

「額に口づけただけだぞ?」

「だけじゃないですよ!大事ですよ!」


 前世の世界で30年以上、恋愛と無縁に生きてきた私にとってしてみたら額にキスなんてもう大事だから!

 難易度でいえば達人クラスだから!こっちは初心者!もっとレベルを下げてほしい!

 私の訴えがわかったのかわからないのか、陛下は黙って聞いている。しばらくして、私の頭からようやく手をどかし、私を真っ直ぐと見る。


「なら、慣れればいいのか?」

「え?」

「慣れればいいのだな?」


 陛下は何故かそう言い、私に近づく。嫌な予感がして私は思わず後ずさる。それに陛下が不機嫌そうに私を睨む。


「何故離れる?」

「いやいや、今やろうとしたでしょう!?」


 そんなことさせる訳ないじゃないですか!?ただでさえ、全力で走って心臓に負担がかかっているのにこれ以上負担をかけられたら本当に身体がどうにかなっちゃうから!

 そう思い私は更に下がり、身構える。そんな私を見て、陛下はため息をつく。


「まあ、良い。まだ時間はある」

「ええ!?ちょ、どういう意味です!?」


 私の問いかけに陛下は答えない。私を見て、まるで悪戯を思いついた子供のようににやりと笑う。

 ああ!そういう顔もできるんだ!へえ!やっぱり無駄に顔だけはいいですね!

 内心そう毒つくと私は顔をそらす。

 そんな私に構わず、陛下が立ち上がる。そして私に黙って手を差し出す。

 とれということだろうか。

 断りたいけど、それはそれで失礼だよね。うん、とるしかないよね。うん。

 私は覚悟を決め、手を取る。そのまま手が引かれ、立たせられる。

 手はつないだまま、陛下はいっこうに離さない。

 どうしよう。自分から離せばいいって、わかっているけど。離したくないかもしれない。

 顔が熱い。心臓もうるさい。手もなんだか汗ばんできている。

 でも、離したくない。


「どうした?」

「どうもしませんよ!」

「そうか」


 そうだ。どうもしない。大丈夫。

 これが恋だと言うなら私の願いは順調に叶っているということだ。今度こそ恋愛にいきたい。そう思ってここまできたのだから。


「おい」

「何ですか?」

「今日は菓子の用意はないのか?」

「ありますよ!もう!陛下、もしかしてお菓子目当てで来たんじゃないですか!?」

「阿呆が。そんな訳がないだろう」


 そう言って、陛下が私を見て、笑う。

 見とれるほどに穏やかで優しい笑顔。まともに見られないとか言って、それでも陛下のことをついつい盗見てしまう自分がいる。

 陛下が笑っている。変わったのは陛下か、それとも私か。もうわからない。

 私は最後の抵抗に手をつないだまま、赤い顔をして、得意げな顔で言い放つ。


「今日はシュークリームですよ!すっごく美味しくて、絶対にびっくりしちゃいますからね!」

「そうか」


 陛下は私をまっすぐと見たまま、笑ってそう答えた。







「側室をもつ話を一度とめると、そう陛下が仰ったのですか!?」


 驚きのあまりレンドルト侯爵は思わず人目も気にせず、そう叫んでしまった。

 慌てて自分の不注意さに気づき、口に手を当て、周りを見る。

 幸いなことにレンドルト侯爵を責めるものはいなかった。それぐらい衝撃的な内容だったのだ。

 レンドルト侯爵にその驚きの内容を話した人物は豪勢なソファーに身体を預けながら、気だるげに言う。


「全く陛下にも困ったものだ」


 言葉とは裏腹にその態度はレンドルト侯爵ほど焦ってはない。ただ、少し憤っている感じがあった。

 僅かなそれを感じとり、レンドルト侯爵は身を縮こませる。

 いくら彼が侯爵だと言っても、その人物を怒らせては今後の貴族社会ではいられない。

 そう身に染みてわかっているからである。


「形だけの王妃にするはずが、まさか王があれほどまで寵愛するとは」

「どうしますか?」

「しばらく様子を見るしかあるまい?私の娘を使うつもりだが、それでも駄目ならば、早めに消さなければ」


 そう言って、その人物は笑う。

 誰を消すのか。それを尋ねるものはここにはいない。いや、むしろ知ってはいけない。

 それは恐ろしい事実なのだから。


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