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女神テミスの異世界補講室――その判定、もう少し詳しく説明します――  作者: Altis


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【補講③:死に戻り】前提条件確定不能

『女神テミスの異世界審査室』の補講です。


本編でさらっと流した法律の話を、こちらではもう少しだけ詳しく。


「こういう論点もあるんだな」くらいの気持ちで、気楽にお楽しみください。


挿絵(By みてみん)



今回は、「死に戻り」です。


本編では、最初の世界でユアンに殺された少女が、その記憶を持ったまま午前零時へ戻ります。


二度目もユアンに殺され、さらに別の夜では、少女の方から先にユアンを刺しました。


ここで、最初の問題です。



《まだ何もしていないユアンを刺したら》



その世界だけを切り取って見るなら、かなり危ない行為です。


その夜のユアンは、まだ少女へ傘を差し出してすらいません。


当然、ナイフでも襲っていない。


そこへ少女の方から走っていき、先に腹を刺しています。


普通に考えるなら、「前の世界では殺されたから、今回も殺されるはずだった」というだけで、現在の相手を攻撃してよいことにはなりません。


日本法の正当防衛では、刑法36条の「急迫不正の侵害」が問題になります。


つまり、現在の世界で不正な侵害が差し迫っているのか。


ここが必要です。


では、少女は未来を「予想」していたのでしょうか。


少し違います。


彼女にとっては、ユアンに殺される未来をすでに二度経験しています。


雨が降り、同じ時刻に同じ場所へ現れ、同じ傘を差し出し、同じ路地へ連れていき、そこで刺す。


普通の予測とは比較にならないほど強い根拠があります。


それでも、その世界のユアンはまだ何もしていません。




では、「過去の世界で実際に殺された記憶」が、現在の世界における『急迫性』の判断材料になるのか?




ここで、いきなり分からなくなります。


さらに、仮に現在の世界に客観的な侵害がまだ存在しないのだとすれば、少女が「また殺される」と確信していたことを、誤想防衛のような問題として考える余地はあるのか。


ただし、これも普通の誤認とは事情が違います。


少女が見たものは幻覚でも勘違いでもなく、少なくとも本人の認識では、実際に経験した過去だからです。


日本法上の正当防衛や誤想防衛の議論はありますが、「別の世界線で一度成立した侵害を記憶している」という前提までは、当然ながら用意されていません。



ここで第一の壁です。




《そもそも、前の世界で起きたことは「事実」なのか》


次に問題になるのが、もっと根本的なところです。


少女は死に戻りの途中で、ユアンを刺しただけではありません。


他人の馬車を奪ったり、治安隊へ虚偽の情報を伝えたり、ユアンを背後から殴って気絶させたりもしています。


その世界がそのまま続いていたなら、それぞれについて法的な評価を考えることはできます。


でも、午前四時になると世界は戻ります。


最終的に残った世界では、その行為の多くが起きていません。


ここで考え方を大きく三つに分けることができます。



一つ目は、上書き型。



午前零時へ戻った時点で、それ以前の世界は消滅し、最終的に残った世界だけが法的にも存在すると考える。


この場合、少女が馬車を奪ったことも、ユアンを刺したことも、結果的には「存在しない出来事」になります。


かなりすっきりします。


ただし、それなら少女がなぜ組織の場所や移送時刻を知っているのか説明できません。


消えた世界は存在しないのに、そこから得た情報だけが現在へ影響しているからです。



二つ目は、分岐型。



一度発生した世界は消えず、それぞれ別の世界線として存在していると考える。


この場合なら、ユアンを刺した世界ではその行為を、馬車を奪った世界ではその行為を、それぞれ評価できます。


ただ今度は、どの世界の少女を審査しているのか?


という問題が出ます。


最終世界の少女に、別世界の少女が行った行為について責任を負わせてよいのでしょうか。


記憶は共通しています。


でも、世界そのものは別です。




三つ目は、消滅するけれど記録だけ残る型。




本編の審査室は、ある意味これに近く見えます。


世界そのものは残っていない。


でもテミスは、そこで起きた出来事を映像として確認できます。


これなら証拠はあります。


……ですが、そこで別の問題が出てきます。


証拠があることと、その証明対象が現在の法的事実として存在することは、同じではありません。


映像が鮮明だからといって、


「はい、ではこの世界で起きた犯罪として処理しましょう」


とは限らないわけです。




《少女はずっと同じ人物なのか》


さらに、人物の同一性があります。


少女自身は、何度戻っても記憶を保持しています。


一度目に刺されたことも、ユアンを刺したことも、妹を救えなかったことも覚えている。


本人の意識としては、完全につながっています。


では、法律上もずっと同じ人物なのでしょうか。


同じ人物だと考えれば、以前の世界で少女が行ったことも、ある程度引き継ぐという考え方が出てきます。


ところが、ユアンは違います。


次の世界のユアンには、前の世界で少女を殺した記憶がありません。


少女だけが連続していて、周囲の人間はリセットされている。



すると、「少女については前世界との連続性を認めるのに、ユアンについては認めない」という非対称な処理になります。



逆に、ユアンについても同一人物だから前世界の行為を引き継ぐ、と考えると、今度はまだ何もしていないユアンに「前の世界で殺人をした人」として法的効果を及ぼすことになります。


それもかなり危ない。


本人の記憶が連続していること。


身体が同じであること。


世界線上の存在が連続していること。


法律上、同一人物として扱うこと。


普段ならほとんど同じ方向を向いているものが、死に戻りでは全部ばらばらになります。




《最終世界だけを見れば、何も起きていない》


そして、一番厄介なのが最終世界です。


最後の世界では、少女はユアンを刺していません。


馬車も奪っていません。


虚偽の情報で治安隊を動かしてもいません。


ユアンも妹も生き残り、少女自身も朝を迎えています。


なら、最終世界だけ審査すれば、ほとんど問題なし。


そう言ってしまうこともできます。


でも、それでは彼女がそこへ辿り着くために何をしたのかが、丸ごと消えます。


最終世界の平穏は、消えていった世界で少女が繰り返した試行錯誤によって成立しています。


法的に存在しないことにした行為の結果だけを、最終世界で利用している。


ここでも、きれいには切れません。



《時間旅行の法律論はある。でも》


今回を書くにあたって、時間旅行そのものを法的に扱った議論も探しました。



ちょうど2026年9月、Mirosław M. Sadowski と Alexander Simmonds によるLegal Realities of Time Travel: Lessons from Popular Cultureという論文が公表されています。



この論文は、タイムトラベル作品を素材にしながら、


時間旅行者の法的地位をどう扱うのか。

過去で犯罪をした場合、どの時代・場所の法律に従うのか。

歴史を変更して人の存在そのものが変わった場合、どう考えるのか。



といった理論上・実務上の問題を検討しています。


かなり近いところまでは来ています。


ただし、本編の「死に戻り」は普通の時間旅行とも少し違います。


本人が過去へ移動するだけなら、少なくとも「過去で何をしたか」は残ります。




今回の場合、行為をした世界そのものが消えている可能性がある。




しかも、本人だけがその記憶と情報を持ち越しています。


そのため、時間旅行について考える法律論をそのまま当てはめても、


「消滅した世界線で成立した出来事を、現在の法的事実として扱えるのか」


というところは残ります。




《そして、審査記録そのものが怪しい》

さらに本編では、テミスが消えた世界の映像を普通に見ています。


ここも、本気で考えるとかなり怖いところです。


あの映像は何なのでしょう。


実際に存在した世界を外部から保存した客観的記録なのか。


少女の記憶を再構成した映像なのか。


それとも、消滅した世界線そのものが、審査システムの中にだけ保存されているのか。


もし少女の記憶にすぎないなら、事実認定の資料としてどこまで信用してよいかという問題になります。


反対に、完全な客観記録なら、


「その世界は消えたのに、客観的な記録だけは存在する」


という、さらに妙な状態になります。


つまり、



世界線がどうなったのか。

人物は同一なのか。

出来事は法的に存在するのか。

その映像は何を証明しているのか。



ここを一つずつ決めない限り、その先の法律論へ進めません。


……というわけで。





作者もテミスと一緒にギブアップしました。笑






《「審査不能」は「セーフ」ではない》


ここだけは、はっきりさせておきたいところです。


今回の「審査不能」は、死に戻りなら何をしても許される、という判定ではありません。


セーフとも、アウトとも判定していません。


そもそも、誰の、どの世界での、どの行為を、現在の事実として評価するのか?



その前提を確定できなかった。


だから、審査不能です。


法律に答えがなかったというより、法律を当てはめるための事実関係を固定できなかった、と言った方が近いかもしれません。




《でも、能力の説明は別です》


ただし。


死に戻りそのものを審査できないことと、担当女神の仕事を確認できないことは別です。


今回の記録では、担当女神側には能力の仕様が残っています。



発動条件。

午前零時への復帰。

午前四時での強制的なやり直し。

記憶の保持。



つまり、付与する側は仕様を把握していた。


ところが、少女への説明記録は空欄です。


少女は実際に死に、戻り、また死に、午前四時まで生き延びても戻されて、


自分で仕様を確認しています。


死に戻りものでは、主人公が何度も失敗しながら能力の条件を知っていくこと自体が、物語の面白さになることがあります。


でも、審査室で見ているのはそこではありません。


その能力を渡した側が、必要な説明をしたのか。


こちらは世界線が分岐していようが、上書きされていようが確認できます。


そして、記録上は説明していません。



なので――

本人に命懸けで仕様確認させないでください。



死に戻りによって消えた世界線の行為は、前提事実を確定できず審査不能。


一方、能力付与時の説明については、別の問題として手続上の瑕疵。


そして担当女神タイムレスは、


出頭してください。

補講③は、死に戻りでした。


今回は、消えてしまった世界線で起きたことをどこまで法的な事実として扱えるのか、そして前提そのものを確定できない場合にどうするのかを、少し踏み込んで考えてみました。


本編ではさらっと流したところを、こちらではもう少しだけ真面目に掘り下げています。


異世界の出来事を日本法の物差しで眺める補講ですので、「こういう論点もあるんだな」くらいの気持ちで楽しんでもらえたら嬉しいです。


それでは次回。


今度は、婚約破棄。公開断罪、私信の暴露、証拠の使い方――やり返すなら、どこまで許されるのかという補講です


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