【補講④:婚約破棄】婚約破棄・公開断罪・私信の暴露・証拠の使い方
『女神テミスの異世界審査室』の補講です。
本編でさらっと流した法律の話を、こちらではもう少しだけ詳しく。
「こういう論点もあるんだな」くらいの気持ちで、気楽にお楽しみください。
今回のテーマは、婚約破棄そのものではありません。
一つは、
『やられた側は、どこまでやり返していいのか』
そして、もう一つ。
『ものすごく怪しい。でも、何をしたのか分からないとき、どう扱うのか』
この二点です。
《公衆の面前で虚偽の告発をされたら?》
まずは、王子による公開の告発から。
セレスティアは、大勢の貴族が集まる王宮の広間で、リゼットへの嫌がらせや馬車への細工などを、自分が行った事実として告発されています。
しかも、その内容は事前に国王へも報告されていました。
つまり、単なる二人の口論ではありません。
侯爵家の令嬢であるセレスティアについて、「この人物は、このような行為をした」という情報が多数の人間へ伝えられ、その社会的な評価や信用に影響を与え得る状況です。
日本法を物差しにするなら、事実に反する内容によって他人の名誉や信用を害し、損害を生じさせた場合、不法行為に基づく損害賠償が問題になります。
さらに、名誉を傷つけられた場合には、お金を支払えば必ずそれで終わり、というわけでもありません。
民法には、損害賠償に代えて、または損害賠償とともに、名誉を回復するために適当な措置を命じることができる、という仕組みもあります。
もちろん、「大広間で告発されたのだから、必ず同じ大広間で訂正させる権利がある」というほど単純な話ではありません。
どのような方法が名誉回復のために適切なのかは、事情によって変わります。
ただ今回の場合、王子自身が多数の貴族の前で事実として告発しています。
ならば、その場にいた人々へ「先ほどの告発は事実ではなかった」と伝えることには、傷つけられた信用を回復するという意味があります。
だからセレスティアは、
「告発を訂正してください」
「それによって生じた損害については賠償してください」
と求めています。
本編では「ざまぁ」の一場面にも見えますが、ここまでは、やり返しているというより、崩された状態を元へ戻そうとしている場面です。
だから、
【虚偽の告発に対する訂正・損害賠償】
――SAFE。
《「婚約をやめる」と「何も払わなくていい」は別》
次は、婚約解消に伴う清算です。
ここは、日本法まで少し踏み込むと面白いところがあります。
日本の判例には、古くから「婚姻の予約」という考え方があります。
簡単に言えば、将来結婚するという約束が成立していたとしても、その約束を理由に、本人の意思に反して結婚そのものを強制することはできません。
ですが、その一方で、正当な理由なく約束を破った場合に、損害賠償まで否定されるわけではありません。
少し不思議に見えるかもしれません。
約束なのに、守らせることはできない。
けれど、破った結果について責任を負う場合はある。
これは、「結婚するかどうかを本人が決める自由」と、「それまでに相手へ生じさせた損害をどう処理するか」を分けて考えているからです。
本編のセレスティアも、ほぼ同じ切り分け方をしています。
王子が、「もう結婚したくない」と言う。
それに対してセレスティアは、「駄目です。約束したのだから私と結婚してください」とは言っていません。
婚約の解消自体は受け入れています。
そのうえで、婚礼のためにすでに支出した費用や準備した衣装・住居、婚約を前提として動いた財産、そして婚約が途中で解消された場合にどう処理するか。
そこは別でしょう、と言っています。
作中では、この部分について当事者間にあらかじめ取り決めが存在する設定です。
だから、「婚約を続けろ」ではなく、「婚約をやめるなら、決めていた方法で片付けましょう」になる。
ここはかなり重要な違いです。
今回の異世界では、貴族同士の婚姻準備に伴う費用負担や財産処理、婚約解消時の清算方法まで事前に定めておく独自の契約として設定しています。
また、日本法で考える場合には、
「婚約そのものを不当に破棄したことによる損害」と、「虚偽の告発によって名誉や信用を傷つけたことによる損害」
も、本来は分けて考える余地があります。
今回の本編では、前者については事前の契約による清算、後者については別途賠償という形で整理しています。
セレスティアは婚約破棄そのものを止めようとはしない。
しかし、婚約を破棄した瞬間に、それまで存在していた財産関係や責任まで全部消えるわけではありません。
そこだけは、きっちり残しています。
だから、
【婚約解消に伴う契約上の清算】
――SAFE。
《恋文の内容、本当なら公開していい?》
セレスティアは、王子が複数の令嬢へ送った恋文を大広間へ撒きました。
その中には、
「卒業後に必ず迎える」
「現在の婚約は政略上のものにすぎない」
といった、かなり私的な内容まで含まれています。
ここで、少しややこしい問題が出てきます。
仮にその恋文がすべて本物で、王子が実際に書き、内容にも偽りがなかったとします。
では、真実なのだから好きなだけ公開していいのでしょうか。
これは別の話です。
プライバシーの問題は、「公開された内容が嘘だったか、本当だったか」だけで決まるものではありません。
本人がみだりに公開されたくない私生活上の情報について、公開されない利益がどの程度あるのか。
一方で、それを他人へ知らせる必要性や理由がどの程度あるのか。
そうした事情を比べながら考えることになります。
今回、王子が複数の女性へ同時に将来を約束していたという事実は、婚約破棄をめぐる経緯を説明するうえで、一定の意味を持つかもしれません。
ですが、その事実を示すことと、恋文そのものを大勢の前へばら撒き、具体的な文面まで読める状態にすることは同じではありません。
必要な事実を示すだけなら、もっと狭い方法もあり得ます。
ところがセレスティアは、そこを越えた。
もちろん、日本法上、私信を公開すれば常に違法になるわけではありません。
今回は、公開する必要性に比べて、恋文の具体的な文面まで大勢の前に晒すという方法が行き過ぎている、という評価です。
そして、もう一つ大事なことがあります。
王子が先にセレスティアを公衆の前で辱めたことも、王子自身が複数の女性へ不誠実な言葉を送っていたことも、それだけで王子の私生活に関する利益がすべて消える理由にはなりません。
「自分が先にやられた」
「相手の方が悪い」
「公開した内容は本当だった」
それぞれ事情として考える余地はあります。
でも、だから何を公開してもいい、とはならない。
今回の「やり返していい範囲」が、もっとも分かりやすく現れたのがここです。
そのため、
【必要な範囲を超えた私信の公開】
――OUT。
セレスティアが明確に一線を越えたのは、ここです。
《ところで、その恋文はどうやって手に入れたの?》
実は今回、恋文についてはもう一つ問題があります。
入手経路です。
三人の令嬢本人から提供されたのであれば、それだけでセレスティアによる違法な情報収集があったとはいえません。
ですが、もし他人の保管場所から勝手に持ち出したのであれば、話は変わります。
誰かを欺いて入手したのか。
使用人へ命じて盗み見させたのか。
通信の途中で取得したのか。
それとも、本当に令嬢たち自身から受け取っただけなのか。
方法によって、評価はまったく違ってきます。
ところが本編では、その部分が一切分かりません。
だから、「恋文を公開した」という確認できる行為についてはOUTと判断できます。
しかし、「違法な方法で恋文を取得した」とまでは認定できない。
この二つは分けて考えています。
《そもそも「事前工作」って悪いことなの?》
そして、今回一番怪しいところ。
セレスティアは、あまりにも準備が良すぎます。
王子の告発を崩す反証資料。
婚約解消後の清算に備えた契約。
絶妙なタイミングで現れる三人の令嬢。
手元に揃っていた恋文。
さらに、執事へ送ったらしい謎の符号。
どう考えても、何かしていそうです。
ただ、事前に準備していたこと自体は、別に悪いことではありません。
自分が虚偽の告発を受ける可能性を考えて反証資料を整理しておく。
婚約が破綻した場合に備えて契約書を確認しておく。
関係者へ連絡し、必要な資料を本人から受け取っておく。
それだけなら、用意が良すぎるという以上の話にはなりません。
ここでまず問題になるのは、「計画的だった」という印象それ自体ではなく、その準備のために具体的に何をしたのか、です。
違法な方法で情報を取得した。
他人を騙した。
脅した。
証拠を捏造した。
王子を違法・不当な方法で誘導した。
そうした具体的な行為が確認できるのであれば、初めてその行為を評価できます。
逆に言えば、「あまりにも上手くいきすぎている」だけでは、まだ何を審査すればいいのかすら決まりません。
ここが、今回のセレスティアの厄介なところです。
《「直接証拠がないから分かりません」ではない》
ここも少し踏み込んでおきます。
法律上の事実認定は、
本人が「私がやりました」と言った。
あるいは、実行している映像が残っていた。
そんな直接的な証拠がなければ何も認定できない、というものではありません。
周囲の事情や行動の前後関係、記録、連絡、時間、利害関係。
そうした間接的な事実を積み重ねて、一つの事実を認定することもあります。
ですから、「直接証拠がない=判定不能」ではありません。
問題は今回、その積み重ねに必要な材料まで抜けていることです。
誰が三人の令嬢へ連絡したのか。
その記録がない。
恋文を誰から受け取ったのかも分からない。
王子があの日に婚約破棄を宣言することを、セレスティアが事前に知っていたのかも確認できません。
王子へ何らかの働きかけをした形跡もない。
そして、執事への符号らしきもの。
残っているのは、
――コツ、コツ。
ほんの少し間を置いて、もう一度。
それだけです。
比較できる別の符号もなければ、対応表もありません。
その直後に執事が動いた記録も、何を指示されたのか分かる記録もない。
つまり、怪しい事実はいくつもあります。
でも、それらを結んで一つの具体的行為を認定するための部分だけがない。
「準備が良すぎる」
「タイミングが良すぎる」
「どう考えても何か知っていたように見える」
そこまでは言えます。
ですが、そこから、
「だからセレスティアは違法な方法で情報を収集した」
「だから婚約破棄そのものを裏から誘導した」
と飛ぶことはできません。
その間が抜けています。
だからテミスは、
【情報収集及び事前工作】
複数の疑義あり。
ただし、取得方法、指示系統及び準備経緯を確認できる資料なし。
具体的行為を認定するに足りないため――
判定対象外。
そこで止めました。
《「白」ではない。「分からない」》
今回、ここはかなり大事なところです。
判定対象外は、SAFEではありません。
もちろん、OUTでもありません。
証拠が足りないからといって、「何も悪いことはしていませんでした」と認定したわけではない。
同じように、怪しいからといって、「きっと悪いことをしました」と認定したわけでもありません。
分からないものを、分からないまま残した。
それだけです。
物語を読む側なら、行間を読むことができます。
「絶対これ、何かやってるだろう」
と思ってもいい。
むしろ、それも物語の楽しみ方です。
でも、審査する側が、
「読者としてはそう見える」
を、そのまま、
「事実として、そうである」
へ置き換えることはできません。
ここでは、物語として見えるものと、審査によって認定できるものが、初めてはっきり分かれています。
《では、なぜリリアは減点なし?》
恋文を大広間へ撒いたのは、セレスティア本人の判断です。
そして、事前工作については、何をしたのか自体が認定できません。
このシリーズで行っているのは、転生者そのものへの処罰ではなく、担当女神が与えた能力や、その説明・管理についての内部査定です。
転生者が自分の判断で行ったすべての行為が、そのまま担当女神の責任になるわけではありません。
今回、リリアが与えたものと恋文の公開を結び付ける事情はない。
事前工作についても、そもそも具体的な行為を認定できない。
ですので、「きっと何かしているはず」という推測だけを根拠に、「では担当女神も減点」とすることはできません。
そのため、
【担当女神査定】
――減点なし。
今回のセレスティアは、法律で確認できる部分と、物語だからこそ見えてしまう部分。
その境目にいる人物でした。
確認できた行為には、判定を出す。
確認できないものは、どれだけ怪しくても判定しない。
それは、セレスティアを信用しているからではありません。
むしろ、テミスは最後まで疑っています。
でも、疑っていることと、認定することは違う。
だから止まる。
たぶん、テミスがセレスティアを嫌がった一番の理由も、そこです。
マリアのように、何を考えたのか、何をしたのか、そしてどこで止まったのか。
それが見える相手なら、テミスはむしろ好みます。
でもセレスティアは、こちらから覗こうとすると、その少し向こう側へ立っている。
そして最後まで、何も説明してくれません。
今回の補講は、ここまでです。
最初の問いは、「セレスティアは、どこまで大丈夫だったのか」でした。
確認できた範囲については、答えを出せます。
では、セレスティアは、どこまで分かっていたのか。**
そちらについては、まだ答えがありません。
何を知っていたのか。
何を準備していたのか。
何を指示していたのか。
そして。
あの符号が、誰に向けたものだったのか。
今のところ、審査室には分かりません。
ですので、その先は――
鏡の向こう側まで含めて。
皆様に楽しんでいただければ幸いです。
――コツ、コツ。




