第四章 邪神の胎動
小章① 不完全な儀式
深夜零時。 地下空間に、重低音の振動が響き渡り始めた。 巨大な発電機が唸りを上げ、莫大な電力がケーブルを通じて黒い石柱へと注ぎ込まれる。石柱がブーンと共鳴し、青白い放電現象が起きる。 鏑木は祭壇の中央に立ち、九条が書いた呪文を高らかに詠唱し始めた。
「イア! イア! ハスター! 名状しがたきものよ、星辰の彼方より来たりて、我が声に応えよ! カシエル、カシエル、フタグン!」
空間が歪む。 石柱の内側に、漆黒の闇が渦を巻き始めた。 それは単なる暗闇ではなく、光を拒絶する「無」の裂け目だった。 生贄として捧げられた同僚教授の悲鳴が、一瞬で途絶える。闇から伸びた不可視の力に引きずり込まれ、骨の砕ける音だけが残った。
「成功だ……! 見ろ、門が開くぞ! 神の力が我々のものになる!」
鏑木が狂喜の声を上げる。 だが、その直後。 技師たちが計器を覗き込み、悲鳴のような報告を上げる。
「次元震、計測不能! 重力波が逆流しています!」 「制御できません! エネルギーが許容量を超えています! 封印結界が持ちません!」
バリバリバリッ! 石柱の一つが砕け散った。 闇の裂け目から、黄色い霧が噴き出した。 それは生き物のようにのたうち回り、地下空間を満たしていく。霧には甘ったるい死臭が含まれていた。 霧に触れた兵士たちが、喉を掻きむしりながら倒れていく。皮膚が溶解し、見るも無惨な肉塊へと変わっていく。
「な、なんだこれは!? 防御壁を作動させろ! なぜ従わない!」
鏑木が叫ぶが、もう遅い。 裂け目から、巨大な「何か」が這い出そうとしていた。 不定形の、ボロ布を纏ったような巨体。 顔があるべき場所には、空白の仮面のようなものが浮かんでいる。 その下から、無数の触手が蠢き、現実の空間を侵食していく。
『黄衣の王』。
九条は机の下に身を隠しながら、その光景を目に焼き付けた。 座標をずらしたせいで、召喚されたのは「兵器として利用可能な下級の神話生物」ではなく、制御不能な「王」そのものの投影だったのだ。
「馬鹿な……呪文は完璧なはずだ! 貴様、騙したな!」
鏑木が『アル・アジフ』を掲げて、九条の方を振り返る。 だが、黄衣の王は、嘲笑うかのように触手を伸ばした。 触手が鏑木の体を貫く。 血飛沫は上がらなかった。鏑木の体は一瞬で水分を失い、ミイラのように干からびて、砂のように崩れ落ちた。 「帝都の魔道書」が、床に落ちる。
小章② 封印
地下要塞は阿鼻叫喚の地獄と化していた。 生き残った者たちは出口へと殺到するが、黄色い霧に追いつかれ、次々と砂になっていく。 九条は、床に落ちた『アル・アジフ』を見つめた。 あの本が、門の楔となっている。 あれを閉じなければ、この現象は地上へ溢れ出し、東京を飲み込むだろう。
九条は這い出した。 全身の皮膚がピリピリと痛む。霧が迫っている。 彼は本に手を伸ばした。 その時、幻覚が見えた。 死んだはずの内藤が、鏑木が、そしてロシアの亡命貴族が、彼を取り囲んで笑っている。
『こっちへ来い、九条。ここでは全ての真理が手に入るぞ。死も苦痛もない、永遠の知識の世界だ』
「……断る! 私は人間だ! 人間のままで死ぬ!」
九条は舌を噛み切り、その痛みで正気を保った。 口いっぱいに広がる鉄の味。 彼は本を掴むと、近くにあった発電機の高圧ケーブルを引きちぎった。 バチバチと火花が散る。
「燃えろ! 忌まわしき知識と共に!」
九条はケーブルを本に押し付けた。 数万ボルトの電流が、革表紙を焦がす。 『ムングゥ、ウヌグゥー、ギャアアアアッ!』 本が、断末魔のような悲鳴を上げた。 それは紙の燃える音ではない。生き物が焼かれる音だった。
本が炎上すると同時に、黄衣の王の姿が揺らぎ始めた。 門の維持ができなくなったのだ。 巨大な吸引力が生まれ、霧と瓦礫、そして死体たちが、逆流する闇の中へと吸い込まれていく。
九条もまた、その嵐に巻き込まれた。 体が宙に浮く。 意識が遠のく中、彼は最後に見た。 完全に燃え尽き、灰となる魔道書を。




