エピローグ 残されたもの
大正十五年、初夏。 帝都・東京は、再び平和な日常を取り戻していた。 あの日、旧陸軍工廠の跡地で大規模な地盤沈下事故があったと報じられたが、詳細は軍事機密として闇に葬られた。多数の軍人が行方不明となったが、表向きは「演習中の事故」とされた。
雑司ヶ谷の九条邸。 庭の紫陽花が咲き乱れる季節。 書斎の窓辺に、車椅子に座る男の姿があった。 九条宗一郎だ。 彼は奇跡的に瓦礫の下から救出されたが、代償は大きかった。 両目の視力を失い、全身に原因不明の麻痺が残っていた。 そして何より、言葉を失っていた。 あの日以来、彼は一言も発していない。医師は「極度のショックによる失語症」と診断した。
家政婦が、茶を持ってきた。 机の上には、真新しい原稿用紙が置かれている。 九条は、震える手でペンを握り、たどたどしい文字を書き連ねていた。
覗き込んだ家政婦は、首を傾げた。 そこに書かれているのは、日本語でも、英語でもない。 誰も見たことのない、奇妙な幾何学的な文字。 見るだけで不安になるような、歪んだ記号の羅列。
九条は、見えない目で虚空を見つめながら、一心不乱に書き続けている。 燃やしたはずの『アル・アジフ』の内容は、彼の脳髄に焼き付き、決して消えることはなかったのだ。 彼は、この世に存在させてはいけない知識を、忘れないように記録し続けているのか。 それとも、いつか再び開くであろう「門」への警告を書いているのか。
窓の外から、子供たちの遊ぶ声が聞こえる。 平和な帝都の日常。 だが、九条の見えない目は、地面の底を見つめていた。 帝都の地下深く、コンクリートで固められたその更に奥底で、何かがまだ、微かに呼吸していることを、彼だけが知っていた。
(完)
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。




