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第二章 黄昏の境界線

小章① 異界への入り口

 翌日。九条は鏑木少佐を大学の研究室に呼び出した。  内藤の死について問い詰めるためだ。研究室の空気は重く、窓の外の曇天が九条の心情を映しているようだった。

「私の学生が死んだ。君たちが何かしたのではないか? 彼に余計なことを吹き込んだり、脅したりしたのではないか!」

 九条の剣幕にも、鏑木は表情一つ変えなかった。軍帽のつばの下にある瞳は、冷徹な湖面のように静かだ。

「残念な事故でした。警察には手を回し、学業の悩みによる突発的な自殺として処理させました。新聞にも載りません」

「処理だと? 彼は発狂していたんだぞ! あの本に関わったせいで! 壁一面に血文字を残して!」

「……やはり、そうですか」

 鏑木は、九条の怒りを意に介さず、むしろ満足げに頷いた。口元に薄い笑みすら浮かんでいる。

「本には力がある。それを、何の訓練も受けていない学生が証明してくれたようなものです。……教授、翻訳はどこまで進みましたか?」

「まだ一割も進んでいない。……鏑木君、この本は危険だ。学術的価値はあるかもしれないが、それ以上に『毒』が強すぎる。これ以上関われば、私も、君も、破滅する。直ちに封印し、焼却すべきだ」

「焼却? とんでもない」

 鏑木は冷ややかに、嘲るように言った。

「教授、あなたは世界情勢をご存知ない。欧米列強は、科学だけでなく、こうしたオカルトの分野でも極秘裏に研究を進めています。特にドイツのトゥーレ協会などは、古代遺産の軍事利用に熱心だ。……我が大日本帝国も、この『見えざる軍拡競争』で遅れを取るわけにはいかないのです」

「正気か? 神話の怪物を戦争に使うつもりか? そんなものが制御できるわけがない!」

「使えるものは何でも使う。それが総力戦です。毒ガスだろうが、呪いだろうが、敵を倒せるならそれは正義だ。……教授、第7章まで翻訳を急いでください。そこには『異界からの召喚』に関する記述があるはずだ」

 鏑木は、本の内容をある程度知っているようだった。亡命ロシア人を拷問して聞き出したのだろうか。  九条は戦慄した。軍部は、本気で「何か」を呼び出そうとしている。関東大震災で壊滅的な被害を受け、まだ傷の癒えない帝都を、さらに地獄に変えるような何かを。

「断る。これ以上、悪魔の片棒を担ぐことはできない」

 九条がきっぱりと言うと、鏑木は懐から南部式自動拳銃を取り出し、無造作に机の上に置いた。  重い金属音が、研究室の空気を凍らせた。  脅しではない。静かな、しかし絶対的な決意の表明だ。

「これは国家命令です。拒否すれば、非国民として拘束するだけではない。あなたのご家族……奥様と、可愛らしいお嬢さんの安全も保障できませんよ」

「貴様……!」

「それに、あなたも既に『視えて』いるのではありませんか? もう、後戻りはできないところまで踏み込んでいる」

 鏑木は、九条の背後の空間を指差した。

「あなたの影。……形が変わっていますよ」

 九条はハッとして振り返った。  夕日が差し込む研究室。壁に映る自分の影。  その肩のあたりから、本来あるはずのない、細長くうねる「触手」のようなものが、ゆらゆらと伸びていた。  九条が腕を動かしても、その触手は連動しない。まるで影だけが別の生き物になったかのように、蠢いている。


小章② 夢の中の都市

 その夜から、九条は悪夢に苛まれるようになった。  眠りにつくと、彼は必ず「あの場所」に立っていた。  巨大な石造りの都市。  見たこともない、非ユークリッド幾何学に基づいた歪んだ建築物。直線はあり得ない角度で交差し、遠近法が狂っている。見ているだけで平衡感覚が失われ、吐き気を催す。  空には不気味な緑色の月が浮かび、粘着質の黒い海が、岸壁をヌルリと叩いている。  『ルルイエ』。  本の中に記された、海底に沈んだ死者の都。

 彼は都市の深部へと進んでいく。自分の意思ではない。何かに呼ばれているのだ。抗うことのできない引力に引かれるように。  巨大な、天を衝くような扉の前で、彼は立ち止まる。  扉の隙間からは、緑色の粘液が染み出し、向こう側から巨大な存在の寝息のような地響きが聞こえる。    『フングルイ……ムグルウナフ……クトゥルフ……ルルイエ……ウガフナグル……フタグン……』

 呪文が頭の中に直接響いてくる。  耳からではない。脳髄が直接震えている。  扉を開けろ。  鍵は、お前が持っている。  あの本こそが、鍵なのだ。

「はっ!」

 九条は叫び声を上げて目を覚ました。  汗びっしょりで、心臓が早鐘を打っている。  早朝。雀の鳴き声が聞こえる。  ここは雑司ヶ谷の自宅だ。ルルイエではない。  安堵してベッドから降りようとした時、足元に違和感を覚えた。  シーツが濡れている。  枕元からドアに向かって、点々と、泥のついた足跡が残っていた。  窓は閉まっている。外部からの侵入者ではない。  自分の足だ。  足の裏を見ると、緑色の粘液と、強烈な磯の香りがするヘドロのような泥が付着していた。

(夢遊病……? いや、私は夢の中で、肉体ごとあそこへ行っていたのか?)

 九条は洗面所で顔を洗った。冷たい水でも、恐怖は洗い流せない。  鏡を見る。  やつれ果てた顔。目の下には深い隈。  そして、充血した白目の中に、ちらりと黄色い光が走った気がした。

 彼は書斎へ向かった。  『アル・アジフ』を開く。  翻訳を続けなければならない。  もはや軍の命令だからではない。  自分自身が、この本の続きを知りたくてたまらないのだ。  この狂気の世界のことわりを理解しなければ、自分は本当に発狂してしまう。  毒を以て毒を制す。  この本の中に、呪いを解く方法、あるいはあの「扉」を二度と開かないようにする封印の方法も記されているはずだ。

 九条は憑かれたようにペンを走らせた。食事も摂らず、髭も剃らず。  第7章。『外なる神々の召喚』。  そこには、特定の星の配置と、生贄の血、そして幾何学的な紋様エルダーサインによって、次元の扉を開く方法が詳細に記されていた。  だが、そのページの端に、前所有者であるロシア人が書き残したと思われる、震える文字のメモがあった。

 『決して呼んではならない。奴らは来る。呼べば必ず来る。だが、帰す方法は書かれていない。これは一方通行の扉だ』

 九条の手が止まる。  帰す方法がない?  もし軍部がこれを行使すれば、東京に「それ」が出現し、制御不能になる。  関東大震災以上の災厄、いや、帝都の消滅が訪れる。

 ピンポーン。  その時、玄関のベルが鳴った。  鏑木だ。  進捗を確認しに来たのだ。彼らは九条を監視している。逃げることはできない。  九条はとっさに、第7章のページの一部を破り取った。  重要な呪文の詠唱部分、そして召喚に必要な「門」の座標計算式が書かれた箇所だ。  破り取った羊皮紙を口に含み、無理やり飲み込む。  古びた革の味と、インクの苦味。喉が焼けるように熱い。それはまるで、血の味のように感じられた。

「先生、お迎えに上がりました」

 ドア越しに、鏑木の冷徹な声がした。  九条は本を閉じ、立ち上がった。  戦うしかない。  言語学者としての知性と、残り少ない正気(SAN値)を賭けて、軍部の狂気と、太古の邪神に立ち向かうのだ。


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