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第一章 砂漠からの亡命者

小章① 帝大の訪問者

 大正十四年(一九二五年)、晩秋。  関東大震災から二年が過ぎ、帝都・東京は復興の槌音つちおとと砂埃に包まれていた。かつての江戸の情緒を残していた下町は焼夷によって灰燼に帰し、その焦土の上には無秩序なバラック小屋と、復興局が主導する真新しい鉄筋コンクリートのビルが不協和音のように混在している。  銀座の通りには、断髪にスカート姿のモダンガール(モガ)と、ロイド眼鏡をかけたモダンボーイ(モボ)が闊歩し、カフェーからはジャズの音色が漏れ聞こえる。破壊と創造、底知れぬ絶望と刹那的な享楽が入り混じる、奇妙な熱狂と退廃の時代だった。

 本郷。東京帝国大学、文学部の赤煉瓦校舎。  震災の被害を免れたこの建物は、アカデミズムの象牙の塔として静謐を保っていた。  薄暗い研究室で、九条くじょう 宗一郎そういちろう教授は、インクの匂いに包まれながら万年筆を走らせていた。  四十歳。専門は比較言語学および古代オリエント言語。英国留学の経験を持ち、楔形文字からヒエログリフまで、死せる言語に命を吹き込むことを天職としている。  合理主義と科学を信奉する彼は、震災以降、世間で爆発的に流行している「こっくりさん」や「千里眼」、あるいは新興宗教といったオカルトブームを「前近代的な妄想」「弱き心の逃避場所」として唾棄していた。彼が愛するのは、論理的な文法構造と、歴史という冷厳な事実に裏打ちされた言語の変遷のみである。

 コン、コン。  控えめだが、硬質で、拒絶を許さない響きを持つノックの音が響いた。

「入りたまえ」

 九条が顔を上げると、重厚なドアが開き、軍服姿の男が入ってきた。  陸軍の階級章。少佐だ。軍刀を帯び、直立不動の姿勢で敬礼する。  背が高く、南方の太陽に焼かれたような日焼けした肌に、カミソリのように鋭く、感情を押し殺した眼光を宿している。

「突然の来訪、失礼する。九条宗一郎教授でありますか」

 男は軍帽を取り、一礼した。その動作には一切の無駄がない。

「……如何にも。陸軍の方が、しがない文学部に何の用ですかな? 予算の陳情なら、学部長室へどうぞ」

 九条は不快感を隠さずに言った。学問の場に軍靴の音が響くことを、彼は何よりも嫌っていた。

「参謀本部第二部の、鏑木かぶらぎと申します。国家の安寧に関わる、極めて重大かつ機密性の高い案件にて、先生の類稀なる知見をお借りしたい」

 鏑木は懐から、油紙に厳重に包まれた四角い物体を取り出し、デスクの上に置いた。  ドサリ。  重く、鈍い音がした。それは、単なる書物の重さとは思えぬ、まるで鉛の塊を置いたような質量を感じさせた。  その瞬間、九条の鼻孔を奇妙な臭いが刺激した。  古い革、砂漠の乾いた香辛料、そして……甘ったるく、どこか懐かしさすら感じさせる、微かな腐臭。

「これは?」

「先日、満州経由で日本に亡命してきたロシア貴族が所持していたものです。彼は革命の混乱を逃れ、シベリア鉄道を経てハルビン、そして帝都へとたどり着きました。着の身着のままでしたが、この包みだけは、赤子を抱くように決して離そうとしなかったそうです」

 鏑木の声が低くなる。

「彼は取り調べに対し、『これは人類の至宝であり、破滅の鍵だ』『星の彼方から来る者たちへの招待状だ』と、狂ったようにうわ言を繰り返しておりました」

 鏑木がゆっくりと油紙を解く。  現れたのは、一冊の巨大な書物だった。  装丁は、見たこともない材質の革で作られている。牛や羊ではない。爬虫類のようでもあり、あるいは人間の皮膚のようでもある、ぬめるような不快な質感。  表紙にはタイトルらしき文字はなく、ただ見る者の不安を掻き立てるような、非対称の幾何学的な紋様が刻印されているだけだ。  その紋様を見ていると、視線が吸い込まれ、平衡感覚が狂うような錯覚を覚える。

「帝大の図書館にも、これと同じ書物は存在しないと聞いております。大英博物館やミスカトニック大学にも、断片しか残されていない幻の書……。先生、この言語が読めますか?」

 九条は眼鏡の位置を直し、吸い寄せられるようにページを開いた。  指先に伝わる革の感触が生暖かい。まるで生きているかのようだ。  羊皮紙に記された文字。インクは赤黒く、血で書かれたかのように変色している。  それは、流麗なアラビア文字だった。だが、現代のアラビア語ではない。八世紀、アッバース朝時代のダマスカスで使われていた古語だ。

「……『キタブ・アル・アジフ』」

 九条は、冒頭の飾り文字を、震える声で読み上げた。

「ほう、読めますか」

「……『アル・アジフ』。夜の魔物たちの声、あるいは昆虫の羽音……。アラビアの詩人が、砂漠の悪霊ジンの囁き声を表現する際に使う言葉です。……内容は、詩歌の形式をとっているようですが」

 九条は数行を目で追った。  そこに書かれていたのは、狂気じみた、冒涜的な神話だった。  人類が誕生する遥か以前、星々の彼方から飛来した「旧支配者」たち。  海底に沈んだ都ルルイエで、死せるままに夢を見る神クトゥルフ。  名状しがたき邪神の系譜と、彼らを再びこの世に呼び戻すための禁断の儀式。  学術的な価値など皆無の、精神を病んだ詩人の妄想の産物に見えた。

「ただの奇書ですね。千年以上前の砂漠で熱に浮かされた狂人が書いた、悪趣味な創作物語です。……学問的価値はありません」

 九条は本を閉じようとした。指先が微かに痺れている。  だが、鏑木がその手を制した。軍人の冷たい手が、九条の手首を掴む。

「ただの創作なら、なぜこれを持っていたロシア人は、発狂して死んだのでしょうか」

「……死んだ?」

「ええ。憲兵隊での取り調べの最中に。突如として錯乱し、『奴らが見える、窓から入ってくる』『黄色い印が見える』と絶叫しながら、自らの両目を指でえぐり出し、脳髄まで指を突き刺して絶命しました」

 鏑木の目は笑っていなかった。そこにあるのは、未知への恐怖ではなく、未知を支配しようとする貪欲な意思だった。

「軍部としては、この書物に『精神に作用する何らかの強力な暗示』、あるいは古代文明が遺した『未知のエネルギーや兵器に関する技術』が含まれているのではないかと懸念しております。……教授、この全訳をお願いしたい。報酬は、あなたの研究費の十年分、いや、一生遊んで暮らせるだけの額を用意します」

 九条は、本を見下ろした。  不快な革の感触が、指先にまとわりつき、皮膚の下へと浸透してくるようだ。  学究の徒として、未知の書物、それも失われたとされる原典への興味はある。これは言語学者にとっての聖杯かもしれない。  だが、同時に本能的な、生物としての警鐘が頭の中でけたたましく鳴り響いていた。  関わってはいけない。これは、学問の光が届かない、原初の闇の底から来たものだ。

「……お引き受けしましょう。ただし、翻訳が終わるまで、この本は私が管理します。軍の施設ではなく、私の書斎で」

 九条は、知的好奇心という名の悪魔に負けた。  それが、破滅への第一歩だとも知らずに。


小章② 雑司ヶ谷の夜

 九条の自宅は、雑司ヶぞうしがやの墓地に隣接した、明治期に建てられた古びた洋館だった。  蔦の絡まる煉瓦造りの壁は湿気を帯び、夜になると墓地からの冷気が庭を這い回る。  書斎の窓からは、月明かりに照らされた墓石の群れと、風に揺れる卒塔婆が、まるで物言わぬ群衆のように見える。

 深夜二時。  妻と娘は寝静まり、屋敷は静寂に包まれていた。柱時計の音だけが、時を刻んでいる。  九条は一人、書斎のガスランプの下で『アル・アジフ』と対峙していた。

 翻訳は難航を極めた。  単語の一つ一つが、多層的で曖昧な意味を持っている。表層的な意味は「星の配置」や「季節の巡り」だが、深層的な意味は「次元の扉」や「血の生贄」を示唆している……といった具合に、読む者の精神状態によって意味が変化するような、呪われた構造をしていた。  著者の名は、アブドゥル・アルハザード。  「狂える詩人」と呼ばれ、白昼のダマスカスで、見えない怪物に喰い殺されたとされる男。

「……『永劫に横たわるものは、死することなく』……『奇妙なる永劫アイオーンの中では、死すらも死に絶える』……」

 九条は辞書を引きながら、震える手で日本語に置き換えていく。  文字を書くたびに、インクが紙に染み込むのではなく、紙から血が滲み出してくるような錯覚を覚える。  読み進めるにつれて、奇妙な感覚に襲われた。  部屋の温度が急激に下がっている気がする。吐く息が白い。  そして、耳鳴り。  ブーン、ブーンという、低い羽音のような音が、鼓膜の奥で響き続けている。いや、それは羽音ではない。何千、何万もの何かが、地下深くで蠢き、擦れ合う音だ。

(疲れているのか……。コーヒーを飲みすぎたか)

 九条は眼鏡を外し、目をこすった。  ふと、視界の端に何かが映った。  書斎の隅。本棚と壁の隙間。  そこにある濃い影が、不自然に揺らいでいる。  ランプの光は届いているはずなのに、そこだけ光を吸い込むように黒く、そして立体的だ。

 九条は目を凝らした。  影の中に、黄色いボロ布を纏ったような、背の高い人型の何かが立っているように見えた。  顔はない。ただ、蒼白な仮面のようなものが、中空に浮いている。

「……誰だ?」

 九条が声を上げると、その影はスッと壁の中に溶け込むように消えた。  あとに残ったのは、カビとオゾンが混じったような異臭だけ。  幻覚だ。  あのロシア人の話を聞いたせいで、神経が過敏になっているのだ。  九条はそう自分に言い聞かせ、震える指で再び本に目を落とした。

 だが、ページをめくった手が止まる。凍りつく。  次の章のタイトル。  『黄衣のハスターしるし』。  挿絵には、今しがた幻覚で見たのと同じ、襤褸ぼろを纏った影の姿が描かれていた。

 先ほど見た影。黄色い布。  偶然の一致だろうか?  それとも、この本は読んでいる者の脳に直接干渉し、本の中の怪物を現実世界に投影させているのか?

 ジリリリリリリ!!

 その時、階下で電話が鳴った。  深夜の静寂を引き裂く、暴力的なベルの音。  九条は心臓が止まるような思いで飛び上がった。  こんな時間に。  不吉な予感しかしない。彼は階段を駆け下り、受話器を取った。  相手は、助手の学生だった。

『せ、先生……! 大変です! 助けてください!』

「どうした、騒々しい。今は何時だと思っている」

『内藤君が……内藤君が、死にました』

 内藤は、九条のゼミ生で、一番の秀才だった。今回の翻訳作業の下調べとして、関連するアラビア語の文献整理を手伝わせていた学生だ。

『下宿で、首を吊って……。遺書があったんですが、内容が支離滅裂で……』

 助手の声は恐怖で裏返っていた。

「何と書いてあった?」

『「窓に気をつけろ」。「名状しがたきものが来る」。……そして、「テケリ・リ、テケリ・リ」という奇妙な言葉が、部屋中の壁に、彼自身の血で書き殴られていたそうです』

 九条は受話器を握りしめたまま、言葉を失った。  内藤には、まだ『アル・アジフ』本体を見せていない。ただ、関連する文献を貸し出しただけだ。  それだけで、彼はおかしくなってしまったのか?  この本の毒気は、間接的に触れただけで人を殺すほど強力なのか?

「……分かった。すぐに行く。警察には私が話す」

 電話を切り、九条は二階の書斎を見上げた。  暗闇の中に浮かぶドアの隙間から、黄色い光が漏れているように見えた。  机の上に置かれた『アル・アジフ』。  その革表紙が、まるで呼吸をするように、微かに波打ち、生き物のように脈動している幻影が見えた。


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