9.家族
再びうなだれたヘルマンは、刑の宣告を待つ罪人のような心持ちで、膝の上の指先は細かく震えていた。
「ヘルマンはずっと頑固なのね。三歳のときも、十六歳のときも。周りの大人たちが折れるまで、譲らなかったのね」
ウルリーケは、自分でも不思議なほどに落ち着いていた。ヘルマンの話はどこか他人事のようで、彼がそれに打ちのめされているようであるのが滑稽にさえ思える。
それくらいのことで、長く思い悩む必要はなかったのに、といってしまいたい。けれども、それではこの忠義の塊は納得しないだろうし、救われもしない。
ウルリーケは手を伸ばして、震える長い指先を包んだ。
「ねえ、ヘルマン。わたくしは生まれてこないほうがよかったのかしら?」
濡れた若葉色の瞳が見開いて、首を振る。
「そのようなことがあるわけがないです!」
ウルリーケは、頬をゆるめて穏やかにいった。
「ありがとう」
言葉を切って、ウルリーケはヘルマンの指を握る手に力を入れた。
「それなら、貴方の話はおかしいわ」
ヘルマンはそこではじめて手を取られていることに気がついて、解こうとしたが思いの外強く握られていて、振り払えなかった。
「そうでしょう? もし、ヘルマンのお母様が侍女を続けていたなら、そもそもわたくしは生まれていないわ。存在していないの」
「……それは、そうかもしれませんが」
「そういうことなのよ。ヘルマンが気に病む必要は最初からないの」
それは、きっと何度も聞かされた慰めで、ヘルマンにはその場しのぎとしか思えなかっただろう。
アイレンブルク伯爵夫妻もまた、頭では理解しつつも、割り切れない思いを抱えているに違いない。だからこそ、ヘルマンをここへ送り出したのだ。
優しい人たちが、会ったこともないウルリーケに心を寄せてくれている。それだけで充分だと思う。
「わたくし、ずっとコジマとふたりきりで暮らしてきたから、ヘルマンが来てくれてとても、とても嬉しかったのよ。跪いて騎士の誓いをしてくれたでしょう? ちょうど『エイルの騎士』を読んだばかりで」
『エイルの騎士』はウルリーケのお気に入りの絵本だ。大地の精霊に仕える乙女エイルが、彼女を支える騎士とともに、精霊の試練を乗り越える物語である。
精霊の試練に臨むエイルのもとに参じた騎士が、彼女に跪いて誓いを述べる頁を何度も開いて、うっとりと眺めていた。
ウルリーケの憧れの騎士の名前は、フィリベルトといった。
「ヘルマンの祖名はフィリベルトなのね。それを知っていたら、あのとき嬉しくて泣いてしまったかもしれないわ」
貴族は、家名の前にふたつの名前をつける。ひとつ目は個人の名前であり、こちらが呼び名となる。ふたつ目の名前は、その家系に連なる人物の名を受け継ぐ。
これを祖名という。先祖にあやかり、家の一員としての証とされるが、多くの貴族は由緒ある家だと示すために、より古い時代の名をつける。中には実在していたのかどうか怪しい、伝説の人物の名をつけるような家もある。
祖名は、自らが名のるとき以外に使うことはほとんどない。親しい間柄で用いる場合はあるが、目上に対して、祖名のみで呼びかけることは非礼とされる。
平民として登用されたヘルマンは、祖名を捨てている。当然、名のることはなかった。
ウルリーケのあまりにも素直な笑顔に、ヘルマンは緊張の糸が切れて、ようやく樺色の瞳を視界に収めた。
「私の母と父方の祖母も『エイルの騎士』を気に入っておりました。三男で父や祖父は祖名を選ぶのももう面倒だったので、好きにすればよいと」
苦笑とともに告げると、ウルリーケはさらに瞳を輝かせた。
「まあ、わたくしの騎士は本当に『エイルの騎士』なのね。なんて素敵なの!」
素直に喜ぶウルリーケに、ヘルマンは己の迷いがいくらか軽くなるのを感じていた。消えることはない。しかし、ウルリーケが存在しなかったほうがよかったなどとは、決して思わない。その上でできることを考えるのだ。
「私がこのままお仕えしても、よろしいのですか?」
「ヘルマンはただの護衛ではないのよ? わたくしの家族。忘れないで」
「はい」
ヘルマンはあらためて跪いて、ウルリーケの手を己の額に掲げた。
「家族だというのに」
「ありがとうございます」
「……ヘルマンにひどいことをいってしまったわ。ごめんなさい」
「ウルリーケ様が謝ることなどありません。仰る通り、あのとき、私はなにもできなかったのですから」
「いいえ、なにもしないことで守ってくれたわ」
コジマのいった通り、ウルリーケは随分と大人になっていたらしい。成長していないのは自分のほうかもしれない。椅子に座り直して、華奢な手をそっと返した。
「コジマにも心配をかけたわね」
「私もです」
「コジマはずっと、わたくしたちの心配ばかりしてくれているのよ」
一瞬曇った表情は、なにか不安に思っているのか。いや、これまでもずっと不安はつきまとってきた。それが日常であっても、ウルリーケは弱音を吐かなかった。
両手を膝に重ねて、ウルリーケはヘルマンに二週間ぶりに明るい声を聞かせる。
「今でも国王陛下がお父様とは思えないし、どうしてわたくしが生まれることになったのかは、コジマも知らないみたいなのだけれど、お母様はとても楽しみにしてくださっていたのですって」
「そう、だったのですか」
若いエテリンデが身籠り、王城に留められて臨む出産にどのような思いを抱いていたのか。案じる家族は皆、苦々しく思っていた。
後に聞かされたヘルマンも、エテリンデがどれほど心細かっただろうか、と勝手に同情を寄せていた。
「文机の引き出しを開けてみて? 小さな木箱が入っているの」
軋む引き出しの中から、不似合いな立派な木箱を取り出す。つるりとした蓋には、薔薇の花が精巧に彫られている。
ウルリーケに促され、蓋を摘み上げるとレース編みの布があった。手を伸ばしたウルリーケがそれを手に取る。
「かわいいでしょう? お母様が編んでくださったわたくしの手袋なの」
広げて指先を差し込んでも掌まで届かない小さな手袋は、クリーム色の柔らかい糸で細かい花の模様が連なって編まれている。
「お腹が大きくなってから編みはじめて、間に合うかしら、似合うかしらって、楽しそうにしてらしたのですって。ほかにも絵本を用意したり、おもちゃを用意したり、本当に嬉しそうだったとコジマはいっていたわ」
外した手袋を指先でなでながら、ウルリーケも嬉しそうに笑う。エテリンデも同じように笑っていたのだろうか。
「コジマがお母様の話をたくさんしてくれたから、わたくしはお母様に愛されていた、と信じているの」
熱くなる目頭から意識を逸らして、ヘルマンはうなずき、手に持った木箱の蓋を目にとめた。品質のよい木材に、熟練の職人が彫ったと思われる細工。あらためてウルリーケの手袋にも目を向けると、素材の糸は高価なものとわかる。
「この品は、エティコーネン子爵が用意されたものでしょうか?」
今、ウルリーケの生活の中にこれほどの品はない。子爵からの贈り物を受け取ることも、許されていない。
「いいえ。これは王城でお母様が使っていたものよ」
ヘルマンの疑問に気がついたウルリーケは、手袋を木箱に戻して、口を開いた。
「前にコジマから聞いたことがあるわ。王妃様は、はじめはお母様に申し訳ないと仰っていたと」
「本当ですか?」
王妃のウルリーケに対する仕打ちを目の当たりにしたヘルマンには、到底信じられない。
「ええ、わたくしに聞かせるつもりはなかったみたいで、聞き返したら焦っていたけれど、渋々教えてくれたわ。妊娠中は体調も気遣ってくださって、それこそ、お妃様のような扱いをしていただいていたそうよ。少なくとも、お母様が亡くなるまでは」
ヘルマンは木箱に蓋をして、引き出しに戻した。
「コジマにしっかりと話を聞いたほうがいいですね。エテリンデ様が懐妊されてからは、王城からの知らせもコジマの連絡も途絶えがちになった、と両親はいっておりました。実際に今も連絡に支障がないわけではありませんし」
コジマとヘルマンが送った書簡、エティコーネン子爵、アイレンブルク伯爵からの書簡、それらのいくつか、あるいはそのほとんどが届けられていないのではないか。これまでに、そう思われる齟齬が何度もあった。
しかし、王妃のエテリンデに対する気遣いがあったというなら、ウルリーケが生まれる以前から、コジマの連絡が滞っていたのはどうしてなのか。
王妃の差配を止めることができるのは、誰か。
「わたくしを、最も面倒が起こりやすい場所に留め置くわけが、なにかあるはずだとコジマがいっていたわ」
ヘルマンが大きくうなずく。
「王女としての待遇は与えない。しかし、王城から出ることは許さない。秘密裏に護衛を手配する。なにかあるはずです」
「その手がかりが、あの中にある?」
エイリーケがわざわざ必要だと知らせにきたものが、それなのか。
狭い部屋の小さな窓から、傾く夕陽の光が差し込んで、ふとふたりの視線が交わった。そのとき。
鐘が鳴った。
鳴り響いた回数は、十一。
服喪の鐘である。




