8.ヘルマンの悔恨
ウルリーケが、ヘルマンと口をきかなくなって二週間が経った。
ヘルマンは毎日詰所の扉の外に立って、ウルリーケの視界に入らないようにしていた。
しびれを切らしたのはコジマである。腰に手を当てて、ヘルマンを見上げ、詰め寄ってきた。
「いつまで続くの? 時間はあまりないのではなかったの? エイリーケ殿下の言葉が正しいのなら、ウルリーケ様は書庫の本を読まないといけないのでしょう? いつ、どうなるかわからないのよ」
国王の容態については、なにも公になってはいない。相変わらず政務は王太子が行なっている。つまり、未だ回復の兆しはないということだろう。
エイリーケの言葉を信じるなら、禁書の中には「必要な」なにかがある。一刻も早くそれを確かめておくべきだ。
わかっていてもヘルマンは、まだためらっていた。コジマの火の瞳から目を逸らし、首を傾けた。
コジマは呆れて手を下ろすと、いった。
「貴方がここへきた理由について、大体のところは聞いているわ」
一瞬、よろめきそうなほどに衝撃を受けた。聞いていた。その上で、知らぬふりで何年も過ごしてくれていたコジマを、信じられない思いで見返す。
コジマは困ったように眉を下げた。
「そんなに驚かなくても。私はずっとエテリンデ様にお仕えしていたのよ。それに、ここへきたときのヘルマンは、まだ子どもといえる歳だったでしょう。くれぐれもよろしく、と伯爵夫妻からも丁寧な書簡をいただきましたよ」
「……そうでしたか。それは、どういえばよいのか。ご心配をおかけしました」
「いいえ。ご両親や私が気にしていたのは、理由よりも、貴方がそれにとらわれすぎていることのほうよ」
とらわれすぎている。
己の過ちを悔いる思いは、一生抱えていかなければならない。ウルリーケのもとへきたのは、唯一の贖罪の方法だと信じたからだ。
「ヘルマンを責める人はだれもいなかったでしょう?」
「そうですが、私のせいで……」
コジマは強い口調でヘルマンの弱音をさえぎった。
「どうして、貴方のせいになるの。だれもそんなことは思っていないわ。エテリンデ様もそうだった。責任感といえば聞こえはいいかもしれないけど、貴方のそれは勘違い、いいえ、思い上がりよ。さあ、覚悟してウルリーケ様にお話しなさいな。大丈夫。あの方はもう子どもではないわ」
思い上がり、といわれたのは納得できないが、母よりも年長、しかも事情を知っているコジマに反論はできない。なにより、これまでコジマが、ウルリーケだけでなく、ヘルマンにもどれほど心を砕いてくれていたか、それを理解して抗う気持ちはない。それでも、ひとことだけいわずにはいられなかった。
「私がここへきたのは、今のウルリーケ様の歳の頃でしたが」
「ええ、今のウルリーケ様のほうが、あのときヘルマンより大人ですとも」
返す言葉を失ったヘルマンは、重たい足を室内へ引きずっていった。
ウルリーケは自室にこもっていた。古い木の薄っぺらい扉が、厳重な封印を施されているように重たく感じられる。
握りしめた拳を見つめ、甲の先を垂直に三回当てた。
「ウルリーケ様」
「……なに?」
「お話を、よろしいでしょうか?」
いつも通りに軽く開いた扉の先に、感情を殺したウルリーケの顔が現れる。
「わたくしが聞きたい話でしょうね?」
「……はい」
ヘルマンが使っている部屋と同じく、小さな寝台と文机と衣装棚が床のほとんどを占め、あとは文机の椅子を動かすだけの空間しか残っていない。
これが、一国の王女が暮らす部屋なのか。
簡素なワンピースに平たい室内履きは、使用人のものだとしても、あまりにも粗末だ。
それでも、ウルリーケの樺色の瞳だけは、彼女が唯人ではない証として、尋常ではない光を保っていた。
ヘルマンは深く息を吸い、寝台に腰掛けた主人に向かって文机の椅子に座った。
「これから話すことをお聞きになったら、ウルリーケ様は私を解任すると仰るでしょう。後任を探します、必ず。ですが、信頼のおける人物を見つけられるまでは、私がお側に侍るのをお許しください」
「……聞かないとわからないわ」
ヘルマン以外の護衛などいらない。だからこそ、隠しごとをされたくないのに、どうしてわかってくれないのだろう。でも、そこまでして隠していることを聞き出したいというのは、ただのわがままなのかもしれない。ウルリーケは泣き出しそうな顔を見られたくなくて、膝の上で組まれたヘルマンの長い指を眺めた。
「私が、ウルリーケ様から母君を奪い、ウルリーケ様の不遇の原因をつくった張本人なのです」
ヘルマンの人差し指がおもむろに三度交錯し、止まった。
「十八年前、王妃殿下の侍女に欠員が生じました。私の母は、結婚前に侍女見習いとしてお仕えしていた経験がありましたので、後任にどうかと王妃殿下直々にお声がけをいただいたそうです」
アイレンブルク伯爵夫人は三人の男子を出産し、その末の子も三歳になっていた。身元が確かで、王妃も人柄の知れた貴族の夫人。日中、王城に上がって侍女として仕えるのに支障はなかろう、との判断で、順当な人選といえた。
末息子はふたりの兄や世話係に可愛がられ、手のかからない子だ、と伯爵家の誰もが思っていた。
手続きは最短で行われ、伯爵夫人が登城すると、王妃はとても喜び機嫌よく迎え入れた。
アイレンブルク伯爵夫人は、王城における立場を固めて、貴族社会でも影響力を増していくだろうと思われていた。ところが。
「おかあさま、かあさま。いかないで!」
聞き分けのよかった三男ヘルマン・フィリベルトが、母の不在に癇癪を起こした。五日目には、母の足にしがみついて泣き続け、伯爵夫人はとうとう、その日は登城をあきらめた。
それまでヘルマンに構う時間があまりなかったことにも、少しばかり罪悪感があった。伯爵夫妻は悩んだ末に、代理の侍女に夫人の従妹であるエティコーネン子爵令嬢エテリンデ・メヒティルトを推挙した。
王妃との面談を経て、十八歳のエテリンデは侍女見習いとなった。アイレンブルク伯爵夫人の推薦と、エテリンデが控え目で真面目な態度であったことが評価された。しかし、なによりも王妃がエテリンデの容姿を気に入ったことが大きかった。
「まあ、わたくしの若い頃に似ているわ。姉妹のように見えなくて?」
恐縮するエテリンデに、王妃は頬をすり寄せて鏡の前でいった。
実際には、顔立ちはそれほど似ていなかったのだが、明るい栗色の髪と、澄みきった空色の『水の精霊』の加護の瞳は確かに同じ色あいであった。
エテリンデは王妃のお気に入りとなり、アイレンブルク伯爵夫妻の面目も保たれた。
多くの人が胸を撫でおろし、安心していた。一年後にエテリンデが身籠るまでは。
「……ねえ、ヘルマン。わたくし、子どものことはよく知らないけれど、三歳の子がお母様と一緒にいたいと思うのは、自然なことではないのかしら?」
うなだれるヘルマンに、ウルリーケは腑に落ちない疑問を投げた。
「それに、どうしてその事情を知っているの? まさか、覚えているとはいわないでしょうね。三歳でしょう?」
ヘルマンが顔を上げると樺色の瞳が見据えている。その視線を受け止めきれずに、顔をそむけた。
ウルリーケの視線を横顔に受けたまま、普段の半分の声量で話す。小さな部屋の中ではそれでも十分に耳に届いた。
「私はずっとアイレンブルク領の本邸で育ちました。十六になる年に警護隊に入るために王都へ参りましたが、気が急いて予定よりもはやく到着したのです。父を驚かせようと執事の案内を断って、執務室に向かいました」
到着予定の連絡が届く前に邸に着いた。両親はきっと笑って迎えてくれるだろう。執務室の扉を叩くために拳をもち上げた。そのとき、室内から声が響いた。母が声を荒らげたのだ。
「どうしてですか! 姫様をお返しくださいとお願い申し上げているのに、なぜ、護衛を出すことになるのです!」
諫める父も興奮した様子で、扉の外でも話は聞こえた。
「落ち着きなさい。子爵に届いた書簡には御璽による魔力封がなされていたそうだ」
魔力封が施された書簡は、宛名の本人にしか開封できない。無理に開けようとすれば、手紙は消失する。施した者の魔力を帯びるため、差出人の証明にもなるが、御璽を用いて封をすることができる人は、ただひとりしかいない。
息を呑む音がした。それはヘルマン自身のものだった。
「王命ですか?」
「そうだ。国王陛下ご自身が、姫君を王城に留め、護衛をつけると仰っているのだ。だから子爵が我が家を頼ってきたのだ」
母の声に涙が混ざる。
「ああ、やはりあのときわたくしが登城していれば」
「それは違うだろう。このようなことになると誰が予想できた? 我らにとってはヘルマンの養育が優先した。あの時点では、子爵家にとってもよい話であったのだから」
己の名が聞こえて、思わず扉を開けた。
向かい合って座っていた両親が、そろってこちらを向いて目を見開いた。
「ヘルマン!」
「……父上、今のお話はどういうことでしょうか。私の養育のために、なにを犠牲になさったのですか?」
母の紅潮した顔から、血の気が引いていく様が見てとれた。そのまま啜り泣く母のもとに父が寄り添い、その口からヘルマンは幼い自分のわがままから生じた、あまりにも重大な結果を知らされたのである。
もちろん、アイレンブルク伯爵夫妻はヘルマンに責はない、といい切った。すべて夫妻の決めごとで、当時は良かれと信じていた。実際に、子爵家にも喜ばれていたのだと。
しかしながら、十六歳のヘルマンの心には、王城に取り残された小さな王女の姿が焼きついてしまった。
王女の護衛には、自分がいくといい出した三男を伯爵夫妻はなだめたが、頑として聞き入れない。
そこで、伯爵は条件を課した。
王都警護隊の入隊試験を一位の成績で通過すること。そうすれば、姫君の護衛に推薦はする。
まさか、入隊試験がはじまって以来、最高の成績をおさめるとは想像もしていなかった。




