6.大地の精霊殿
王城の北側には大地の精霊殿がある。拝殿は開放されており、多くの参拝者が訪れるが、『大地の精霊』を祀る最奥の殿舎に入れるのは、限られた高位聖職者と王族のみである。
その部屋の中央に鎮座する大きな石は、円卓のように平たく、周囲にぐるりと座椅子が置かれている。
窓はないが、石と床の間から琥珀色に光る霧のようなもやが広がって部屋を照らしていた。『大地の精霊』の加護の力が湧く、精霊の加護の泉である。
入り口側の小さな背もたれの座椅子に腰を下ろしていた男が、扉の開く気配に立ち上がった。
「おかえりなさいませ。エイリーケ殿下」
入ってきたエイリーケは無言のまま、霧を踏みわけながら奥の椅子にかけた。
側仕えが持ち手のない白い磁器を運んできて、エイリーケと男の前に置いた。ふわりと花の香りがして男は目を細めたが、主人はいつも通り関心がないようだ。
側仕えが下がると、エイリーケは男に座るよう促した。男のローブはエイリーケと同じ亜麻色ではあるが、艶がなく丈は短い。その裾をさばいて彼は主人の向かいに座った。
「予定通りに戻られたということは、首尾よく進みましたかな?」
「そなたの手配がよく整っていた」
「それはようございました。して、ウルリーケ殿下はいかがでしたか?」
「叔母上に間違いのあろうはずがない」
「それは、ようございました」
男は満足そうにうなずいて、茶をすすった。
精霊術師メルシオールは、エイリーケが生まれるはるか以前よりマーンリオ王国の大地の精霊殿に仕えている最古参である。
形式上は精霊殿の長となっているが、精霊殿を設けているアウストラシア家の王女には上座を譲る立場だ。
この大地の精霊殿で、実質的な最高位にあるのは、エイリーケである。先代は父王の妹である叔母クラウディーネだった。六年前にクラウディーネが亡くなり、エイリーケがその地位を引き継いだ。
この事実は公にされていない。
エイリーケは精霊殿ではなく、王城で暮らしていることになっており、実際に部屋ももっている。しかし、エイリーケがその部屋にいたのは十歳までだ。王城から大地の精霊殿に連れてこられた後、エイリーケはクラウディーネに育てられた。そのクラウディーネも、精霊殿に入っていたという記録はまったくない。公式には、王城でその生涯を閉じたとされている。
王城にこもりきりで過ごす王女が存在していることを、疑問に思う国民はほとんどいない。王家には、病弱なお姫様がときどきお生まれになる。マーンリオ王国における常識であった。
「メルシオール」
「はい」
「ウルリーケ・クロティルダの護衛は、我が主人はウルリーケただひとり、と申したぞ」
「それはそれは」
「そなたと気のあいそうなことよな」
メルシオールは手入れをしていない無精髭をなでながら、口もとをゆがめる。エイリーケの口振りが皮肉を含んでいたからだ。
「また、殿下はそのような」
「よかろうよ。そなたも、ウルリーケの護衛もただひとりの主人を守り続けることを自ら望んでおる」
「であればこそ、先代のご遺言を生涯守り、この後もエイリーケ殿下に侍する所存にございます」
「見上げた忠誠心であるな。叔母上の威光により妾にも忠臣があるというわけだ」
「残り少ない身の上で申し訳ありませぬが」
「ふん、そなたは長生きするであろうに」
「ありがとうございます」
エイリーケは、目の前の老爺に冷たい視線を投げるが、メルシオールは意に介さない。
「それで、ウルリーケ殿下のごようすは?」
「問題ない。自ら封印を解き、禁書に手をつけておった。ちょうどよい頃合いであろう。まったく、叔母上は妾にはなにもくださらず、厄介ごとだけを遺して逝かれた」
「爺がおりますでしょう」
「妾とて騎士物語に憧れた頃もあったのだがな」
メルシオールはからからと笑う。
「ほう、左様でございましたか。可愛らしいことですな」
エイリーケははじめて表情に不機嫌をにじませて、冷めた茶碗に手を伸ばした。
「兄上は、やはり王太子妃を王妃には立てぬそうだ」
「仕方ないでしょうな、床につかれたままでは」
「せっかく、双子で一度に王子と王女を得られたというのにな」
王太子妃は婚姻の翌年に懐妊したが、出産により体調を崩したままだ。生まれた男女の双子は五歳になった。
「だからこそ、臥せっていても構わない、ということですかな」
エイリーケは顔をしかめたが、茶の味が気に入らなかったからだ。
「王太子妃にとってはそれでよいのかもしれぬな。しかし、食事には気をつけるように伝えておけ」
「かしこまりました」
無表情に戻ったエイリーケは、磁器を置いて指先で縁をなぞった。
「母上がとうとう王太后か、もはや止められぬな。兄上は波風が立つことを嫌うが、そのために後々大嵐がやってくる」
「王太子殿下は堅実であられますからな」
エイリーケは行儀悪く、磁器を爪で弾いた。思っていたよりも鈍い音が鳴り、右の眉をゆがめる。
「父上のような莫迦な真似はするまいが、必要な策を講じることもできぬようでは、やはり王の器ではないな」
「手厳しいですな」
エイリーケは、何事もなかったように磁器をまた口に運んだ。
「母上は、兄上と姉上を産み、それで満足しておればよかったのだ。無理をして妾を産む必要はなかった。そうしていれば、はじめからあきらめもついたやもしれぬのに」
エイリーケの母は嫁いで間もなく懐妊し、王太子を産んだ。四年後に第一王女を産んだが、エイリーケが生まれたのは、それからさらに十年後である。
「おやおや、気弱なことを仰いますな。殿下のご誕生と、ウルリーケ殿下の出生はまた別の話ですよ。すべては、大地の精霊のお導きにございます」
「気まぐれなのは、風の精霊ばかりと思うていたが」
七つの精霊のうち、さまざまにうつろう風を司る精霊は気まぐれだといわれている。
大地の精霊は、実りを司る、頼りがいのある存在として描かれることが多い。
エイリーケは、いくつかの子ども向けのおとぎ話を思い浮かべた。
くぐもった笑い声をこぼしながら、メルシオールは大事そうにまた茶をすする。
「大地の精霊は時の守護、もっとも思慮深い精霊にあられますぞ」
「そうであるなら、妾もウルリーケも生まれておらぬわ」
いい迷惑だ、というエイリーケにおやおや、とメルシオールは無遠慮に肩をすくめた。
エイリーケは無視して、もう一度磁器を爪弾いた。今度は甲高い音が響いた。
「叔母上の遺言には妾も同意したからな。己の務めは果たさねばならぬ」
ひとつうなずいてエイリーケは立ち上がり、石の卓の中心に向けて手をかざした。石の上に琥珀色の霧が集まって渦を巻き、エイリーケの手から放たれる亜麻色の魔力を絡め取っていく。
濃淡の茶色を含む『大地の魔石』が、卓の上にカランと音を立てて落ちた。
空の石に魔力を注ぐのではなく、魔力そのものが結晶化した魔石は精霊石とは比べものにならない魔力をもつ。魔石をつくり出せるほどの魔力を集められる器は、王族にしかない。王族の中でも、より大きな器でなければ成せないものである。
「封印の箱を用意して入れておけ。魔力が漏れるようなら妾が封印する」
「承知しました」
メルシオールは、亜麻色の糸が渦巻く琥珀のような石を手に取り、うやうやしく掲げた。
ゴーン、ゴーン、ゴーン、と尖塔の鐘の音が響いた。




