5.王女エイリーケ
夏の日が高く昇るようになり、ヘルマンが傍にいない時間をひとりで過ごすことも日常の一部になりつつあった。
読みかけの禁書を取り、封印を解くのも手慣れたものだ。ウルリーケは、その日も表紙に手を触れて魔力を注ぎ、頁をめくった。
その瞬間、禁書庫の魔術灯が消えた。
「え?」
天窓からの頼りない明かりだけになった書庫に、カチ、と扉の封印が解ける音が響いた。
驚いて振り返ると、そこには白銀の長い髪を背に流し、大きな眼に亜麻色の瞳が輝く小柄な女性が立っていた。
ウルリーケが言葉を失っている間に、その女性はするりと部屋の中へ入ってきた。
「そのまま、待っておれ」
背後に声をかけて、彼女が扉を閉じると魔力灯から亜麻色の柔らかな光が落ちてきた。
「ウルリーケ・クロティルダ」
「は、はいっ」
急いで立ちあがろうとするウルリーケを、ゆっくりとした手の動きが押しとどめた。
「よい、あまり時間はない」
そういいながらも、ウルリーケの前の椅子にかける動作は、少しも急いてはいなかった。
瞳と同じ亜麻色の長いローブは絹の光沢であるのに、厚い冬の外套のように重そうに見える。
「妾を知っているか?」
禁書庫の封印を解く魔力をもち、ウルリーケを迷いなく名指しする人。
「……エイリーケ殿下でいらっしゃいますか?」
恐る恐る口を開くウルリーケに、まるで興味がないかのように素っ気なく、しかしはっきりとうなずいた。
コンラート国王とゲルトルート王妃の間に生まれた第三子、第二王女エイリーケはウルリーケより十歳年長であるはずだ。
第一王女は隣国に嫁いで久しいというのに、エイリーケ王女には婚約者も、縁談の話もない。
彼女がまとう亜麻色のローブは、『大地の精霊』に祈りを捧げる精霊殿の、最高位の聖職者にしか許されないものである。精霊殿に仕える者は高位であるほど、生涯独身を通す。
ウルリーケはそのような事情を知らなかったが、エイリーケの装いが王女のそれではなく、彼女の振る舞いも威厳も普通ではない、と感じていた。
「そなたの護衛がおらぬな」
「本日は、近衛騎士団へ赴いております」
「ならば、すぐにここへ呼べ」
抑揚がなくゆったりした口調は、抗うことを許さない。
「はい!」
ウルリーケは慌てて通信石を取り出して魔力を注いだ。
「ヘルマン? ヘルマン! すぐにきて!」
ぶわっと緑の光を放った石をすぐに握りしめる。その間もエイリーケは微動だにせず、瞬きすらしていないと思わせるほど、亜麻色の瞳がくっきりと現れている。
その神々しい瞳に見惚れそうになるのを我慢して、さりとてどこに視線をおけばよいのかもわからず、ウルリーケは忙しく目を泳がせた。
「ここのものはどれだけ読み終わったか?」
「まだ十数冊ほどです。あ、あの、申し訳ございません。お許しも得ずに……」
「よい。扉を開く者にはその資格がある。そなたはこの国の王女だ。……妾と同じくな」
これまで、「王女」と呼ばれたことなど一度もない。それが、王族のひとりから「同じ」といわれた。ウルリーケは顔を上げて、亜麻色の瞳を正面にとらえた。
互いを視界に入れているのに、視線が交わる気配はない。
「間違いなく、そなたはアウストラシアの姫だ。この先もそれを忘れてはならぬ。ここの書物はすべて好きに読めばよい。そなたにも必要だ」
「はい」
エイリーケはすっと右手を上げると、天井を指差した。
「国王陛下に残された時間は少ない」
「えっ?」
「今日は謁見のために出てきたのだ。陛下とは、もはや言葉を交わすことも叶わなかった。王太子殿下と侍医とは話した。近く、王位継承がある。その後、王妃は王太后となる。王太子妃は双子を出産してからは、ずっと寝ついておるから、王妃として立つことはない。となれば王太后の権能は磐石。そなたの不自由は変わらぬままだ」
まるで他人事であるかのように、エイリーケは淡々と語る。しかしそれは、彼女の両親と兄の話だ。王位継承、すなわち、父王が逝去すると告げる声は恐ろしいほどに冷たい。
ウルリーケにしても、父親の命が尽きようとしていると聞かされたのに、国王が親であるという自覚のない身にもまた、他人事でしかなかった。
「それでもしばらくは、そなたに目が向くことはあるまい。だが、いずれ必ず思い出す。そのときに」
そこでエイリーケは口を閉ざし、扉に手を差し伸べた。
白く細い指先に亜麻色の光が集まる。光球が意思をもって浮かび、扉の石へ向かう。
亜麻色の精霊石が封印を解くと、扉をこじ開けようとしていたヘルマンが倒れ込んできた。
「ヘルマン!」
エイリーケが外に視線をやると、ヘルマンを止めようとする従者たちは一礼して下がり、扉を閉めた。精霊石は空の石に戻り、扉はまた封印される。
「ウルリーケ様! ご無事ですか!?」
立ち上がりかけたヘルマンは、貴人の姿をみとめると、そのまま跪いて非礼を陳謝した。
「ご無礼をお許しください。主人の危急と馳せ参じました」
エイリーケはつまらなそうにうなずくと、よい、と応じた。
「名は」
「ヘルマン・レニエと申します」
「レニエ。お前は自らウルリーケに侍ることを望んだときいたが、真か?」
「……はい。我が主人はウルリーケ様ただおひとりと誓っております」
エイリーケの表情は変わらない。ヘルマンに向けられた視線は硬く冷たいままだ。それでも、なにかしら感情の動くものがあったらしい。
「ならば命ずる。この先、ウルリーケ・クロティルダの傍を離れることは許さぬ。常に付き従い、守れ」
「は、仰せのとおりに」
エイリーケは、ウルリーケに向き直ると話を続ける。
「王太后が思い出したなら、そなたはすべきことをせよ」
「すべきこと?」
「そのときには知っているはずだ。そなたがすべきことを。……もう会うことはあるまい。今日のことはここだけの話と心得よ」
ウルリーケの困惑を置き去りにして、エイリーケは立ち上がった。扉に向かっていく王女に、なにかいわなければと思うが言葉は見つからなかった。
ヘルマンは跪いたまま体を動かして、貴人を見送る。
扉に魔力を注ぐ瞬間、エイリーケは振り返ることなくいった。
「迷うなよ。アウストラシアはウルリーケ・クロティルダを守りはしない」
それは、ウルリーケに向けられた警告なのか、あるいはヘルマンへの命令なのか、わからないまま扉は閉じられた。
静寂が戻り、ふたりはそれぞれの思考をめぐらせていた。先にそれらを振り払ったのはヘルマンであった。
「ウルリーケ様、あの方はエイリーケ殿下ですね?」
「え、ええ、そうよ。突然いらして、ヘルマンを呼べと仰ったから。急に悪かったわね」
エイリーケが去った扉を見つめていたウルリーケは、頭を振って詫びた。
「いいえ、よく、お知らせくださいました。お声が聞こえたときには、生きた心地がしませんでしたが。何事もなく、ようございました。しかし、エイリーケ殿下はどのようなご用件で?」
ほんのひとときの出来事が、急速に現実味を失って夢のように思える。
だが、そうではない。とても重要なことを伝えられたはずなのだ。
「よくわからないの。おそらく内密にいらっしゃったのだと思うわ。最初に、時間がない、と仰って。実際にここで話した時間はほんの少しよ。すぐにヘルマンに連絡してから、今お帰りになるまでの間だけ」
「ここだけの話と仰いましたね。なにを話されたのですか?」
「それが……」
国王の死が近い、と話してもよいのだろうか。エイリーケは口止めをしたが、それはヘルマンがきてからだった。最初からヘルマンがいたなら、一緒に話を聞かされたはずだ。
気遣わしげにウルリーケを見るヘルマンは、それでも適当な理屈でごまかされてはくれないだろう。
ウルリーケは、ヘルマンに座るようにうながして、息をついた。
「国王陛下に謁見なさってから、ここにいらっしゃったみたい。近く王位継承がある、と仰ったわ」
新緑の瞳が大きく見開き、視線で続きを促す。
「王太子妃殿下はご出産のあと、ずっと体調がよくないそうよ。それで王妃にはならないから、その、今の王妃殿下が王太后になられてて、わたくしの扱いは変わらないだろう、と」
「それをエイリーケ殿下がわざわざ?」
「王太子殿下とお話しされたと仰ってたわ。でも、わたくしに教えてくださったのは、エイリーケ殿下の独断だと思う」
「そうですね。エイリーケ殿下ご自身も、あまり自由に動けないお立場なのかもしれません。あのお召し物は、精霊殿の術師のものです」
「精霊殿。それは、聖職者になられているということ?」
「拝見したお姿はそうとしか思えませんが、そのような話は聞いたことがありません」
同じ王女だ、と口にした姉に感謝や喜びを抱いたのは一瞬で、刺すように鋭い視線に慄いた。エイリーケが、禁を破ってまでここへ来たのは重要な意味があるのだろう。しかしそれは、ウルリーケのためではないかもしれない。
「王妃が思い出したなら、というのは?」
「ああ、しばらくはわたくしのことは気にかけないけれど、いずれ必ず思い出すって」
そのときに、なにが起こるのか。ウルリーケのすべきことが本当に知り得ているのか。
「王位継承。確かに、国王崩御となれば、国葬から新国王の即位の式典など、一年以上は目まぐるしい忙しさが続くでしょうね。それが落ち着いた頃ということか」
卓の上で組んだ長い指が人差し指だけ、何度も交差する。ヘルマンが考えこむときの癖だ。
それをさえぎるようウルリーケがいった。
「あとは、ここの書物はわたくしに必要なものだそうよ」
ヘルマンは椅子を蹴って、書架を見まわした。
「ここに、なにかがあると?」
「それはわからないけれど、好きに読めばよい、必要だと仰ったの。わたくしには、読め、といわれたように思えたわ」
「そういうことでしたら、今後もこちらへ通わなければなりませんね。常にお傍に控えております」
「それはいいわ。ひとりでも問題なかったもの」
「なりません。エイリーケ殿下のご下命もありましたし、近衛を辞めて側仕えになっても構わないのですから」
一切引く気がないヘルマンを見あげて、ウルリーケは不機嫌そうにため息を吐いた。
「ねえヘルマン、貴方の器が小さいから養子に出されたというのは、嘘でしょう? それに、自ら望んでわたくしの所へ来たというのは本当なの? どういうことなのか、きちんと説明してちょうだい」




