3.ヘルマン・レニエ
「ヘルマン・レニエと申します。本日よりウルリーケ様にお仕えいたします」
十一歳のウルリーケの前に跪いた少年は、一度深く下げた頭を少し上げて、視線を合わせてきた。深い森の瞳をまじまじと見て、ウルリーケは樺色の瞳をぱちぱちと瞬いた。
「わたくしに、つかえるの?」
「はい、ウルリーケ様をお守りいたします」
若い騎士見習いは正しく礼の姿勢をとり、ウルリーケの手の甲に唇を落とした。
粗末な部屋で、庶民のような簡素な服を着たウルリーケが、そのとき限りはお城の姫君になった。
それまで傍にいたのはコジマだけで、彼女から教わった礼儀作法も最低限でしかない。それでも、ウルリーケは絵本のお姫様を真似て、精いっぱい淑女らしくすましてみせた。
「わたくしは、ウルリーケよ。よろしくね」
ヘルマンは笑いかけ、小さなお姫様も頬を染めながら笑顔になった。
その後、ヘルマンは十八の年に正式に近衛騎士となり、今年、二十一歳になる。
ヘルマンが近衛騎士団の訓練に参加する日は、ウルリーケは部屋にこもって過ごす。
しかし、どうしてもじっとしていられなくなると、王族や城勤めの貴族たちが、決して入ってくることのない裏庭に出て、外の空気を浴びるのだ。
その日も、洗濯場のメイドたちに気づかれないように注意して、裏庭で過ごしていた。大きな木の陰で体を伸ばし、深く息を吐く。
王城の背後、城壁との間には樹齢を重ねた針葉樹の森がある。大きく育った木々は自然のもののように見えるが、すべて人の手が入っている。
王城の使用人の多くは、ウルリーケに対して無関心を貫いている。それが王家の方針であると知っているからだ。加えて、かつての王妃の所業は知れ渡っている。とばっちりを避けたいと思うのは当然の感情だろう。
古くから仕えている使用人の中には、同情を寄せる者もいるが、それでも表立って世話を焼くことはない。可哀想な王女を見かけたときに、気の毒そうに視線を逸らすだけだ。
ウルリーケもよく承知しているから、なるべく人目に触れないように行動している。
そろそろ部屋へ戻ろうかというときに、間が悪く洗濯物を干すためにメイドたちが移動をはじめた。物干し場はより近くにある。仕方なく、ウルリーケは彼女たちの仕事が終わるまで静かに待つことにした。
「明日は晴れるかしらね。今日の分の洗濯物はこれの倍は汚れてくるから大変だわ」
年嵩のメイドが、水気をきった洗濯物を広げて手際よく干していく。三人いるうちの一番歳下とみえる少女は、小物を叩いてしわを延ばしている。
「どうしてですか?」
「ああ、あんたは先月入ったばかりか。今日はレニエ騎士がいるからだよ」
もうひとりの中堅メイドも、うんざりしたようすだ。
「そっか、今日だったわね」
「その人が洗濯物を汚すんですか?」
「いいや、レニエ騎士のはきれいなもんだよ。レニエ騎士に挑んで返り討ちにされた奴らが、泥やら血やらで、まあ毎回ひどいのよ」
「ええ! レニエ騎士ってそんなに恐ろしい人なんですか?」
「いやいや、若いし、見た目はどっちかっていうと優男なんだけどね。例の詰所のお姫様の護衛さんでさあ」
聞こえてくる会話に、それほど注意を払ってはいなかった。しかし、「レニエ騎士」さらに「詰所のお姫様」という単語に、ウルリーケは知らず聞き耳をたてた。
「詰所のお姫様って、あの?」
入ってひと月の新人のメイドにすら知られているらしい。あるいは、要注意事項として真っ先に教えられているのかもしれない。
「そう、あのお姫様の遠縁だかなんだかで、護衛についてるんだけど、ものすごく腕が立つらしくて近衛の団長さんのお気に入りなんだって」
「へええ」
「でも普段はお姫様につきっきりでしょ。月に一度しか出てこないのに、一番強い。それでやっかまれて、出てくる日は総出でかかるってわけ」
「でも見事にみんな返り討ちにされちゃって、きったない洗濯物がまわってくるのよ」
先輩ふたりのうんざりした顔がおかしかったらしく、新人メイドは笑った。
「あ、笑ったわね」
「本当に大変なんだから、覚悟しておきな」
はあい、と先輩たちの念押しに新人は気のない返事をした。
王族の盾となる近衛騎士団の団員は、選ばれた存在であり、それを目指して日々鍛錬に励む騎士は多い。
貴族家に生まれながら、貴族籍に加えられない者がいる。『精霊の加護』の器が、精霊石を成せるだけの大きさに満たないと貴族の資格を得られないのだ。
精霊石を成して、民の暮らしに寄与することが貴族の務めであり、それを果たせない者は貴族ではない。
そのような、生まれは貴族でありながら家を出される者、あるいは、貴族籍に加えられていても、爵位を継ぐあてのない次男以下の男子も、裕福な商家などの婿となることが多い。
だが、それを良しとしない者、腕に覚えのある者は騎士団の門を叩き、その中枢にある近衛騎士を目指す。近衛騎士団に入る実力があれば、実家の名目も立つ。功績をあげることが叶えば、一代限りであっても騎士爵を得られる。そうすれば、貴族との縁組も可能となる。
いわば、貴族社会からはみ出した者に残された救済の門が、近衛騎士団である。当然ながら、狭き門だ。
ヘルマンがその近衛騎士団に入れたのは、王族であるウルリーケの護衛となるためには必要な役職だったから。訓練に参加するのも形だけで、だからこそ月に一度でよいのだ、と聞かされていた。
そうであるはずなのに、国内の騎士の精鋭たちが総出でかかっても勝てない? 団長のお気に入り?
ウルリーケは混乱していたが、話の続きを聞き逃さないように神経を尖らせた。
「でも、そんなに強い人がずっと詰所だなんて、なんだかもったいないですね」
「そうなのよねえ、団長はお姫様の護衛を外れるように説得してるけど、頑としてきかないって」
「まあ、もともとお姫様のために城に上がってるんだしね」
「あの、詰所のお姫様って、その、ほんとに王女様なんですよね?」
「しっ! あんた、それは」
「ああ、いや、そうじゃなくて。王女様の扱いなんてされてないのに、なんで護衛をつけるんだろうって思ったんで」
中堅のメイドはため息混じりの声をひそめた。
「……気をつけなよ。……うんまあ、あたしもそうは思うけど。よくわからないんだよねえ。生みの母君の実家で引き取りたいっていうのが許されなくて、せめて護衛をってことになったって聞いたけど。まあ、レニエ騎士も来たときは見習いだったし、単に話し相手くらいのつもりだったのかもしれないね」
年嵩のメイドも小声になる。
「レニエ騎士がついてから、部屋の外に出られるようになったんだよ。それまではこもりきりで、今よりもっと可哀想だったよ。おとなしくて可愛らしい子だから、きちんとした王女様だったら、縁談も引く手数多だろうに」
「話題にもならないくらいだから、お偉いさん方はだれも気にかけてないんじゃないかねえ」
会話が途切れ、足音が遠ざかっていっても、ウルリーケはその場から動けなかった。
コジマとヘルマンが傍にいることが、日常だった。目を背けていたわけではないが、考えたくなかった現実を、突きつけられた。
ウルリーケが、ヘルマンの未来を奪っている。
森の奥からカカカカカ、と変わった鳥の声が響いた。
「ねえ、ヘルマン。わたくしが書庫の奥にいる間は騎士のお仕事をしたらどうかしら?」
「……どういうことでしょうか?」
翌日、禁書庫の中でウルリーケは務めて平静に提案した。
「禁書庫にいれば、外からだれかが入ってくることはないわ。王族にしか開けられないのだもの。ヘルマンが読めるものはないし、ずっとわたくしについている時間がもったいないでしょう?」
「それが私の任務ですから、どうぞお気になさらないでください」
「そうはいっても、貴方は近衛騎士団の一員なのだから、もっとほかにお役に立つべきではないかしら」
「……どうなさったのですか?」
ウルリーケは広げた書物の文字を追っているふりをして、何でもないことのように告げた。
「どうもしないわ。ただ、ここでならひとりになれると思っただけよ」
「おひとりで過ごされたい、ということですか?」
ウルリーケはそれにはこたえず、頁をめくる。
戸惑うヘルマンは、主人の横顔からその意図を探ろうとしたが、天井から降る樺色の光が映る白い頬はぴくりとも動かない。
深く息を吸って、いった。
「少し考えさせてください」




