2.隠された部屋に隠されているもの
「それで、今日はどうしてこれほど遅いお帰りに?」
食後のお茶を淹れながらコジマが問うた。
ウルリーケは、古びたカップの中に映る琥珀色の自分の姿を見てから、向かいに座るヘルマンに視線を移した。ヘルマンもカップを手に、静かにウルリーケのようすをうかがっている。
「……書庫の面白そうな本はほとんど読み終えてしまったでしょう?」
「そのように仰ってましたね」
「それで、今日は奥のほうまで見て回ったのだけれど、政の記録のようなものばかりで」
「面白いものではございませんね」
ウルリーケが過ごしている書庫は、王城の図書室やほかの場所で不要となった書物が最後に行き着く集積所である。
ただし、ウルリーケが入室の許可を得てからは、新たな書庫がほかに設けられたらしく、こちらはほとんど管理されていない。
文学や歴史、地理や文化など、さまざまな分野の古い書物が収蔵されているが、近頃では埃を被っている有様だ。
ウルリーケは有り余る時間を使って、さほど関心のないものにまで目を通してしまった。残っているのは、膨大な御前会議の議事録など、読み物とはいえない政治の記録などである。
「今までそちらの棚には近づいたことがなかったから、気がつかなかったのだけれど……」
お茶をひと口含んで、またヘルマンに視線を向けると、濃い茶色の髪と同じ色の眉が少し下がっていた。ふたりでコジマに叱られているような気分になってくる。
「一番奥の棚のうしろに隠し部屋、のような扉があったの」
「ウルリーケ様、それは……」
コジマが息を呑む音が聞こえた。一段と厳しい表情になって苦言を吐こうとするのを遮って、言い訳を続ける。
「はじめはわからなかったのよ。隙間に黒く塗られた木の壁があって、おかしいと思っただけで」
書庫だけでなく、執務棟の壁のほとんどが石や煉瓦が積まれたものである。壁紙が貼られていたり、絨毯を吊っていたりする部屋もあるが、人の出入りが少ないところはむき出しのままである。木材が貼られている場所はない。
「隙間からその黒い壁に触れてみたら、ちょうどそこに空の石があって、指が届いたら魔力が吸い取られてしまったの」
魔力を注がれていない空の石は、見た目は艶のないただの黒い小石である。ウルリーケには、黒い壁に埋め込まれたそれが見えていなかった。
指先から樺色の魔力が流れ出て、はじめてそこに空の石があるとわかった。気がついたときには、石はウルリーケから『大地の精霊』の加護の力を奪って、『大地の精霊石』に変わっていた。
カチ、と精霊石が鳴って、黒い壁は奥へと開いた。ウルリーケは引き込まれるように、その中へ入ってしまった。
慌てたヘルマンが続くと、扉は閉まり、またカチ、と音がした。振り向くと、精霊石は内側にも露出していたが、その魔力はすぐに失われて、空の石に戻った。代わりに頭上から樺色の光が灯りとして落ちてくる。天井にも空の石があり、扉の石から魔力が移動したらしい。
中はそれほど広くなかったが、天井は高い。四方の壁には上まで書架が並び、すべての棚が書物で埋まっている。
ウルリーケよりも頭ふたつは背の高いヘルマンが手を伸ばしても、最上段には届かないだろう。
天井の一部は斜めに切り取られていて、小さな硝子がはめ込まれた窓があるが、おそらくは北向きで明かり取りには心もとない。精霊石の魔力がなければ薄暗いだろう。
「ここは……」
ぐるりと見回して、入ってきた扉の隣の書架に並ぶ背表紙を声に出して読む。
「『マーンリオ建国史』、『アウストラシア前史』、『大地の加護の則』」
「……ウルリーケ様」
当惑しているヘルマンを気にかけることもなく、ウルリーケは目の前に並ぶ文字を追い続け、そのうちの一冊を手に取った。
『アウストラシアの登極』
書物には封印の魔法が施されていた。
しかし、ウルリーケがその意思をもって表紙に手をかけると、樺色のもやがふわりとまつわり、表紙は開いた。
「ウルリーケ様!」
少し大きな声を出したヘルマンを無視して、ウルリーケは文字を追った。
――原初の王は『大地の精霊』の守護を引き渡した。アウストラシアは『大地の精霊』の守護を与えられ、正しく王座を得た。故にこれは簒奪にあらず。マーンリオの正統はアウストラシアに引き継がれるものであり、これより『大地の精霊』の守護はアウストラシアが守り継ぐ責を負う。マーンリオの守護は『大地の精霊』、その大いなる加護により、この地には空の石が……――
パチン、と乾いた音が聞こえて顔をあげると、ヘルマンが書物を片手に顔をしかめている。空いたほうの手は指先が赤くなっていた。
「ヘルマン、大丈夫?」
ウルリーケは開いた書物を書架に置くと、ヘルマンの手を握って治癒の魔法をかけた。
「申し訳ありません」
「どうしたの?」
「弾かれました。ここにあるものは、恐らくすべて禁書でしょう。王家の魔力がなければ、開くことはできません。この部屋の扉も、ウルリーケ様の魔力があったから開いたのです」
封印の魔法に弾かれたヘルマンの指先は、ウルリーケによって癒された。騎士の長い指を握ったまま、ウルリーケは『森の精霊』の加護を現す緑の瞳を見上げた。
「わたくしは、本当に国王陛下の娘だったということね?」
「それを疑ったことはございません」
ヘルマンの強い言葉に、ウルリーケは眉を下げる。
「そうでなければよかったのに、と思っていたの」
か細い声に、今度はヘルマンが眉を下げた。ウルリーケは首を振って手を離した。
「ここを開けてしまったことは、気づかれているかしら?」
傷の癒えた指先を見ていたヘルマンが、書物を書架に戻すと思案顔になる。
「書庫に結界の魔法がかけられている、とは聞いておりません。この部屋と書物には結界の魔法が施されていますが、ウルリーケ様の魔力で開いたということは、王家の魔法です。であれば、精霊術士には感知されないでしょう」
「そう、ね。王家の方々がお気づきになったとしたら、叱られるかしら……」
表情を崩さないままヘルマンは腕を組んだ。
「魔法には明るくないので、断言はできませんが。王族にしかかけられない魔法を、王族が解いたのですから、問題はないはずです。正しく解かれているなら、警戒の対象にはならない。解除を警戒する魔法なら、お抱えの精霊術士がすぐにやってくるでしょうから」
「なら、ここの本は読んでもいいわよね!」
樺色の瞳の輝きには逆らえない。明るい笑顔は滅多に見られないから、なおさらだ。
「もう一度、扉を開けていただけますか。書見台を運んで参ります」
「ありがとう! ヘルマン」
少しだけ警戒をゆるめて騎士はうなずいた。もしも、結界の解除の責を問われるなら、全力で主人を守る。はじめから決まっていることだ。
しかしながらその後、いつも通り、書庫を訪れる者はいなかったのである。
「……それで禁書を読み耽っていたというわけですか」
話を聞いて、コジマは呆れたような、困ったような中途半端な顔で息を吐いた。
「いろいろと面白かったのよ。久しぶりに、それで、つい」
「ウルリーケ様」
「……明日からは明るいうちに戻ってくるわ」
「またその禁書庫に入るおつもりですか!」
目をむくコジマをヘルマンがとりなす。
「あの書庫に新しい書物が収められなくなって、もう随分経ちます。ウルリーケ様が禁書庫の鍵をお持ちであることは、わかっていたはずです。許可が下りたのですから、本当に触れてはならないものは置かれていないのでしょう。もしあるなら、今日のうちに止められたと思いますよ」
「どうだか。単に忘れ去られているだけかもしれませんよ」
コジマは心配性だ。その性分でずっとウルリーケを守ってきた。
「忘れられているなら、それはそれで問題ないではありませんか」
「それでも、充分に気をつけていただかないと」
コジマの加護は『火の精霊』である。揺らぐ炎の瞳にウルリーケはうなずいた。
「わかったわ」
ウルリーケが個室で先に休むと、コジマとヘルマンは向かい合って卓についた。
ウルリーケは十六歳になっても、王城の片隅に放置されている。どうにか、ウルリーケが自由を得る方法はないものか、とずっと話し合ってきた。
「今日は心配しましたよ、お帰りになるまでずっと。またウルリーケ様がお怪我をなさっていないかと思って」
王妃と出くわしたとき、ウルリーケはただ耐えた。帰ってきたときには切れた頬から血を流し、顔を腫らして、相当の痛みがあるはずなのに、泣きもせず茫然としていた。思い出すだけで胸が潰れそうな気持ちになる。
コジマの心情を察したヘルマンは、心から頭を下げた。
「申し訳ありません。分かっていたのですが、ウルリーケ様が没頭されていましたので」
「本当に大丈夫なの?」
コジマを安心させるために、ヘルマンは意識してゆっくりうなずく。
「禁書庫については話した通りです。問題があるなら、今日のうちに咎められたはずです」
「そうね、でもウルリーケ様が読んでも構わないものしかないとは思えないのだけど」
「そうかもしれませんが、ウルリーケ様は王族ですから、本来は読めるお立場です」
コジマはふうっと長く息を吐き出した。
「そうでなければどんなに良かったか」
「ウルリーケ様も、同じことを仰いました」
「そう……」
うつむいたコジマが、がばっと顔をあげてヘルマンをにらんだ。
「それでも、鐘が鳴る前には帰ってきてもらわないと。危険でしょう!」
「ああ、それも先に話しておくべきでしたね。実は先日騎士団で耳にしたことがありまして」
ヘルマンは近衛騎士団に所属しており、定期的に訓練に参加している。その日はウルリーケが部屋から出られなくなるため、最低限に留め、日々の鍛錬は早朝や、主人が休んだ後に自身で行なっている。
騎士としての技量に恵まれているヘルマンを、騎士団長はウルリーケの護衛から外して、主軸に据えたいと考えているようだが、ヘルマンにその意思はない。
「……どうも、国王陛下のご体調が芳しくないらしい、という噂があります」
「え?」
「政務のほとんどが王太子殿下のもとに持ち込まれ、王妃殿下が補佐をされているとか」
コンラート国王はすでに七十をこえ、近年、ゆるやかに政務の移譲が行われている。しかし、実際に体調不安がささやかれることは、今まではなかった。
赤い瞳が細められ、その奥で思考がめぐらされている。ヘルマンは、さらに声をひそめた。
「まだ、噂話です。ですがここ数ヶ月、王妃殿下も王太子殿下も、鐘が鳴るまでに執務を終えられることはありません」
「……もしものときがきたら、どうなると思う?」
コジマの問いに、ヘルマンは彼女の後ろに見えるウルリーケの個室の扉に目を向けてからこたえる。
「王太子殿下がウルリーケ様について、なにか仰ったと聞いたことはありません。王妃殿下も常日頃は国母として尊敬されるだけの責務を果たされている」
「そうね、表向きは」
手元へ視線を落としたヘルマンが小さく息を吐く。
「どうなってしまうのか、予想がつかないですね。どうにかして、ウルリーケ様をお守りしないと」
国王は、生まれたばかりのウルリーケを一度だけ見にきたという。その後、コジマをつけ、エティコーネン子爵の懇願によってヘルマンが王城に上がったが、父親としての役割はなにも果たしていない。
それでも、ウルリーケが国王の娘である事実は、王妃にとって許されない王家の汚点となっている。
国王が亡くなった後に、新国王は妹であるウルリーケを保護してくれるのか。
「国王陛下が、ウルリーケ様を子爵家に返してくださっていれば……」
王妃の憎悪から逃れられるなら、王女と認められなくとも構わない。コジマとヘルマンは、王族として扱われないウルリーケが、母の実家であるエティコーネン子爵家に引き取られることを望んでいる。
祖父の子爵も密かに王家に働きかけてきた。
しかし、その願いは検討される気配すらない。
存在を隠され、使用人同然の待遇しか与えられていないウルリーケを留めおく理由はわからないまま、無為のときが流れている。




