1.詰所のお姫様
ゴーン、ゴーン、ゴーン。
王城の尖塔の最上部にある古い鐘が三度鳴った。昼番の勤めが終わり、城門が閉じる。冬の陽は虫の息で、夕闇が鐘の音を待ちわびていたかのように広がっていく。
ぱたん、と本を閉じてウルリーケは立ち上がった。急がなければならない。
王妃が執務棟から私室へと戻ってくる。
書庫は執務棟の端にあり、ウルリーケの部屋は王族の住まう館の端にある。鐘が鳴る前には書庫を出るつもりでいたのに、今日手に取った禁書は薄暗くなった中でも読むことを止められなかったのだ。
「帰りましょう」
傍に控えていた護衛騎士は無言でうなずき、視線でウルリーケを急かした。
王妃は普段、王城を貫く回廊を通る。しかし、気まぐれに中庭を歩いてくる日がある。そこで鉢合わせると、ウルリーケは酷い目にあってしまう。
どうか、今日は王妃が気まぐれをおこしませんように。
秋の夜の帷は『氷の精霊』の外套だ。
扉を閉じて書庫の門から中庭に踏み出すと、凍てつく大気が無遠慮に触れてきてウルリーケの白い頬は赤くなった。
先導する騎士は中庭に人気がないことを確認してから、ウルリーケに手を差し出した。厚い掌に引かれて静かに、ただし小走りで細長い庭を駆け抜けていく。
庶民の普段着のような短めのスカートが、このようなときにはありがたい。履き古した平たい靴は、石畳の上でも音を立てない。
王族の館の隅にある最も小さな部屋――もとは不寝番の詰所であった――に入って、無事に扉を閉めるとウルリーケは大きく息を吐き出した。
「お帰りなさいませ、ウルリーケ様。心配いたしましたよ。どうか、明るいうちにお戻りください。ヘルマンも気をつけてちょうだい」
部屋で待っていた女官は眉根を寄せているが、心底安心して口の端を少しだけ上げた。
「ごめんなさい、コジマ。ヘルマンは悪くないのよ。わたくしが夢中になってしまって……。鐘が鳴るまで気がつかなかったの。ヘルマンは声をかけてくれていたのよね?」
騎士は黙ったまま小さく首を振った。それはウルリーケをかばっているだけで、彼女の言葉を否定するものではない。
「それならそれで、引きずってでもお連れして。なにかあってからでは遅いのよ」
「最近、王妃殿下も王太子殿下も執務が長くなっておられるようです。ウルリーケ様が久しぶりに没頭していらしたので、ぎりぎりの時間までお待ちしておりました。しかし、万一のことがないよう、しっかりとお声がけするようにいたします」
ようやく口を開いた騎士ヘルマン・レニエは、ウルリーケに顔を向けてうなずいた。
「まあ、でもご無事でなによりでした。さあご夕食を召し上がってくださいな」
「ええ、ありがとう」
コジマの小言も、ヘルマンがぎりぎりまで待ってくれていたのも、ウルリーケを思ってのことだ。席につき、食前の祈りにふたりへの感謝も重ねてから食事を始める。
無骨な木の机の上には三人分のパンとスープ、焼いた肉ののった皿が並べられている。王城で働く使用人に提供される食事だ。
コジマとヘルマンも祈りの姿勢を解いてそれぞれに食べ始めた。
部屋の中には最低限の家具しか置かれていない。どれも飾り気のない、実用品ばかり。
複数人が詰める場所だったため、三人が過ごすだけの広さはある。
片側の壁に三つの扉があり、その先はそれぞれの個室になっている。粗末な寝台がひとつずつ置かれているだけでそちらは狭い。
ウルリーケはこの部屋の中では主人で、ヘルマンとコジマは使用人である。しかし、文字通り寝食を共にするふたりをウルリーケは家族だと思っている。
このふたりだけが、本当の家族であると。
マーンリオ王国は、アンティリア大陸の北東に位置し、大陸の中では二番目に古い歴史をもつ。
もっとも古い歴史を刻んでいるのは、大陸の名を国名に戴くアンティリア王国である。
その大国の東に接しているマーンリオ王国を治める王家の家名は、アウストラシアという。
マーンリオ王家は大陸に流れる七つの精霊の力のうち、『大地の精霊』の加護を受ける国である。
大陸の各王家は、それぞれに異なる精霊の加護を受けている。
『精霊の加護の力』は、大陸のすべての民がその体内にもつといわれる器に、魔力として注がれ、その加護によって瞳の色が定まる。民の器が受ける加護はわずかで、己の魔力のみで魔法を用いるには足りない。
対して、各国の王国貴族は大きな器をもち、その身のうちに強い魔力を宿し、魔法を操る。その魔力を空の石と呼ばれる特殊な鉱石に込めると、それは魔力を留める精霊石となる。
マーンリオ王国に与えられる『大地の精霊』の加護は、空の石を生む。国内には大陸でも有数の空の石の鉱山があり、産出される石は他国へ輸出されて各地で精霊石のもととなる。
精霊石を用いると、小さな器しかもたない者でもより大きな魔力を使えるが、己の器以上の魔力を必要とする魔法を使うには、修練を要する。
器に注がれる魔力は、それを扱う能力があればこそ魔法として操ることができるのだ。
マーンリオのすべての王族が、『大地の精霊』の加護をもって生まれてくるわけではないが、王位を受け継ぐのは『大地の精霊』の加護をもつ者と決まっている。ほかの精霊の加護をもつ者が王となると、その治世は短命に終わるといわれる。
『大地の精霊』の加護を現す瞳は土の色である。淡い栗色から、濃い褐色まで、色の種はさまざまであるが、王族のそれはやや明るいものが多いとされる。
ウルリーケの瞳は透き通った樺色である。マーンリオ王家に与えられた『大地の精霊』の加護をもち、魔法を操れるだけの器ももっている。
彼女の正式名は、ウルリーケ・クロティルダ・アウストラシアという。
アウストラシアに連なり、『大地の精霊』の加護の瞳をもつウルリーケが、どうして使用人とともに王城の片隅で暮らしているのか。
ウルリーケの出生は、マーンリオ王家の汚点であるからだ。
現国王はコンラート・テウデベルト・アウストラシア。その妻である王妃ゲルトルート・リヒルデとの間には、長子である王太子とふたりの王女が生まれていた。
ウルリーケの父は国王コンラートであるが、母は王妃ゲルトルートではない。
産みの母はエティコーネン子爵の娘エテリンデ・メヒティルトであった。王妃の侍女であったエテリンデが、なぜ国王の子を産むことになったのか。ウルリーケは詳しいことを聞かされていない。
知っているのはウルリーケを産む際に、エテリンデが儚くなったという事実だけだ。
物心ついたときには、今の暮らしが日常となっていた。隠れるように王城の片隅で過ごし、エテリンデの従者であったというコジマに育てられた。
五年前に、エテリンデの従姉の息子であるヘルマンが騎士見習いとして王城に入った。どういう経緯かは知らないが、ヘルマンは訓練期間を終えるとウルリーケの護衛となり、ふたり目の家族となった。
ヘルマンが護衛についてから、ウルリーケに王城の書庫に入る許可が下りた。以来ウルリーケは時間の許す限り書庫に通っている。
ウルリーケが書庫へ通うようになって半年ほど経った頃、その往復の間に、はじめて王妃と遭遇した。
王妃ゲルトルートはまだ幼いウルリーケの顔を見ると、怨敵に出会ったかのように恐ろしい形相になった。平伏すウルリーケの顎を扇で持ち上げ、震える顔をしげしげと見つめると、無言で扇を振り上げて打擲した。
王妃とともにいた王太子はウルリーケを一瞥すると、なにごともないように立ち去り、残った王妃の従者たちは誰も動かない。わずかに目を背けた者はいたがそれだけであった。
必死に痛みをこらえるウルリーケは、なぜこのような目に遭うのかわからず混乱した。
隣で跪いていたヘルマンは震えながらも動けず、ただときが過ぎ去るのを待った。
狂乱のときを耐え、ヘルマンに抱えられて部屋に戻ると、コジマが泣きながら手当てをした。そして、ゲルトルートがエテリンデに抱いている憎しみのすべてが、ウルリーケに注がれているのだ、と知った。
あれから数年が経ち、十六歳になったウルリーケは、日々の暮らしを少しばかり窮屈に感じながらも、そういうものだと受け入れている。
しかしながら、この生活がいつまで続くのか、と考えると先の見えない不安に苛まれて思考を閉ざしていた。




