13.クロティルダ
「大陸の七か国は、おのおのの精霊の加護に拠っておりますな。我が国に加護をくださる守護精霊は、もちろん『大地の精霊』です」
開かれた頁の一番上にある「クロティルダ」を、メルシオールが指さす。その指先が動いて、名前の右端に書かれた五つの丸へ移動する。五つのうち、左端のひとつのみ黒く塗りつぶされている。
「これは器の大きさを表します。アスカーニエン王家最後の王女、クロティルダ殿下の器はとても小さかった。もちろん、並の貴族などと比べればよほど大きな器です。しかしながら、王として立つには不足といわざるを得ない」
五つの丸がすべて塗られた精霊姫はひとりもいない。もっとも多くて四つ、それも数えるほどしかない。ほとんどがふたつか三つである。だが、ひとつしか塗りつぶされていないのは、初代クロティルダのみである。
「クロティルダ殿下は祖名をおもちではありませんな。しかし、そもそもマーンリオには祖名をつける慣習はなかったのですよ。アンティリア王国の貴族のならいですからな。アウストラシアがもちこみ、さらにクロティルダ王女の御名を精霊姫の記号としたのです」
「ですから、精霊姫とはいったいどういう存在なのですか」
のらりくらりと、遠回しに話しはじめたメルシオールに、ヘルマンははやくも焦れていた。メルシオールは、にやにやと人の悪い笑みを見せてさらにヘルマンを煽った。
ウルリーケは、老爺の言葉のひとつひとつを噛み締めるように聞き、問いかけた。
「『アウストラシアの登極』に書かれていたアスカーニエン王家の王は、皆女王でしたね。精霊の愛し子を立てて女王とした、と」
「その通りでございます。そしてアスカーニエン王家における精霊の愛し子が、アウストラシア王家では精霊姫となったのですよ」
「簒奪、といいましたね?」
「まあまあ、そうお急ぎなさるな」
メルシオールはぐるりと首をまわして禁書庫の中を確認すると、おもむろに手を叩いた。ゆったりとしたその動きに似合わず、開かれた手からは濃い涅色の魔力が鋭く飛び散り、ウルリーケは怯んだ。
「エイリーケ殿下の魔力とはいえ、禁書庫の結界は封印のみですからな。万が一に備えて、防諜の結界を張りました」
メルシオールの瞳は魔力と同じ、黒にも見えるほど濃い土の色だ。引きずり込まれそうな泥濘のような瞳に、ヘルマンは敵わないと知りつつも警戒を強めた。
メルシオールは笑い、芝居がかった口調で話す。
「いかにクロティルダ殿下の器が小さかろうとも、ほかに王統を継ぐ王女は生まれなかった。その後千年にも及ぶ黒の歴史のはじまりです」
クロティルダの母、ベルトラダ女王は娘の器が女王としてあまりに頼りないことを憂慮し、密かに隣国アンティリアの国王に、ある打診をした。
曰く、クロティルダ王女が女王に即位した後、彼女を支える王配にアンティリア王家、ニーベルシュタイン家に縁のある人物を迎えたい。
マーンリオ王国の西に接するアンティリア王国は、大陸のほぼ中央に位置する大国である。大陸にはほかに五つの国があり、アンティリア王国は七か国の盟主といえる地位を築いている。
もっとも古い歴史をもつアンティリア王家の直系に生まれる者は、特別な器をもち、特別な瞳が現れる。
すべての精霊の加護を宿すその瞳は、虹色の蛋白石の輝きを放つ、膨大な魔力を湛える器の証である。
ベルトラダ女王は、強靭な器をもつアンティリア王家との婚姻によって、クロティルダ王女の器の不足を補い、さらに次代の女王の器を確保しようとしたのである。
叶うならば虹の瞳を、あるいはそれに次ぐ器を。
アンティリア国王から返答は、虹の瞳の持ち主を王配とすることは認めない、というものであった。
代わりに直系の王女を祖母とする、アウストラシア侯爵キルデベルト・エリマールが選ばれた。
キルデベルトの加護は『大地の精霊』であり、王族には及ばないが、相当の器をもっていた。
そしてアンティリア国王は、この婚姻にについて、ひとつの条件を出した。
アウストラシア侯爵は、マーンリオ王国へ入国後、アンティリア貴族としてのすべての権利を失う。また、アンティリア王国は彼の行動に一切の制約を行わない。
精霊の理に触れると精霊の守護を失い、国が滅ぶという。他国の王統に干渉することは、精霊の理に触れる、といわれている。それを防ぐために、キルデベルトはすべてを捨てて、国境を超えた。
政略結婚でありつつも、キルデベルトは後ろ盾がない婿がねとなった。アンティリア国王の条件は、諸刃の剣であった。キルデベルトがなにをしようとも、アンティリアは責任を負わないのだ。
キルデベルトはなにを思い、なにを求めてマーンリオへやって来たのか。相応の野心を抱いていたのは、間違いない。
クロティルダ王女との婚約と同時に、キルデベルトはマーンリオ王国の侯爵に陞爵した。女王の勅命に公然と異を唱える者はいないが、表向き手を叩いて歓迎する者たちの腹の内は、一様ではなかった。
クロティルダの配偶者となり、殿下と呼ばれる身となると、キルデベルトはマーンリオ王国で、もっとも身分の高い男性となった。ベルトラダ女王の王配はすでに亡くなっていた。
「それからなにが起こったのか。実のところ、我らにもわからぬのです。その辺りの歴史書は残っておりません。『アウストラシアの登極』もその原本も、後の世に書かれたものですからな。ただ、確かなことは、クロティルダ王女は女王に即位せず、キルデベルト国王の妃となった。アスカーニエン朝が終わり、アウストラシア朝が起こったのです」
メルシオールは、樺色の瞳を見据えてその感情を探った。
「女王ベルトラダは、娘である王女クロティルダの行く末を予見し、これを見届けた……」
ウルリーケは目を逸らすことなく、正面から受けた。メルシオールは深くうなずく。
「ベルトラダ女王の治世は安泰であった、と伝わったおります。それは、女王の器が充分なものであったということです。で、あれば、ベルトラダ女王は『予見』の魔法を操っておられたはず。なにをご覧になり、見届けられたのか。あるいは予見を得てから、なにをなさったのか」
それは、アウストラシアによる簒奪だったのか。守護の証、精霊姫はアスカーニエンの女王の位を降り、アウストラシアの王妃、王女となった。大地の精霊がこれを是としなければ、国は続かない。
破滅から国を救う策を探した結果か、あるいはすべてを見通した上で、ほかにとるべき道がなかったのか。
『マーンリオの正統はアウストラシアに引き継がれるものであり、これより『大地の精霊の守護』はアウストラシアが守り継ぐ責を負う』
ヘルマンは、ふつふつと腹の中にわき上がる感情を抑えていた。
「本来なら、我が国の主は精霊姫である、ということですね? 精霊姫とは別に王が立っている現状は、精霊の理とやらには触れないのですか?」
メルシオールは、ヘルマンに向けて小さく右の掌を返した。黒い魔力から生じた冷たい風に首筋を掴まれて、ヘルマンはよろめく。
「取り乱すでない。まだ過去の話だ」
「……失礼いたしました」
ヘルマンは額の汗を拭って姿勢を正した。
メルシオールはウルリーケに向き直る。
「精霊の理は、我らに推し量れるようなものではありませぬ。『大地の精霊の守護』は、今も昔も精霊姫に与えられております。大地の精霊は、アウストラシアを、精霊姫を守る代理人として認めている、そう解釈されてきました」
「精霊姫を閉じ込めて、『予見』の魔法で国を治めてきたのですね?」
「そう、精霊姫は隠され、閉じ込められてきました。それでも、『予見』の力で国王を助けてきたのです」
「それでは、まるで国王の道具ではないですか」
ヘルマンは冷静に努めているが、納得し難い気持ちは抑えられない。メルシオールも今度は咎めなかった。
「そうじゃな。だが、大地の精霊がアウストラシアに精霊姫を与えている限り、それが是とされる。現にアウストラシアは続いておる」
あるいは、大地の精霊が守護を与えているのは、未だアスカーニエンのままであるのか。
沈黙が満ちて、部屋の空気が重くなる。
ウルリーケは、精霊姫の話が物語のように思えて、まるで現実のことは思えなかった。まして、己にかかわることだとは信じられない。
それでも、ウルリーケが精霊姫であるから、王城に留められたのだといわれれば、これまでの処遇にも納得がいく。
「どうして、わたくしが生まれたのでしょう? まさか、母と国王陛下の恋愛だなどとは、いわないでしょうね?」」
メルシオールの土の瞳が細くなった。笑んでいるようにも、睨まれているようにも見えて、ウルリーケは小さく震えた。
「王太子殿下のご生誕からそれほど間をおかず、第一王女殿下がお生まれになりましたが、精霊姫ではありませんでした。王妃殿下も、国王陛下も焦っておられた。十年後にようやくエイリーケ殿下がお生まれになって、王妃殿下は安心なさったでしょう。しかし、国王陛下には不安がつきまとっておられた」
精霊姫は途絶えてはならない。
『アウストラシアは次代の王と、精霊姫をともに儲けねばならない』
万一のときに、代わりとなる精霊姫が必要ではないか。王妃の歳、エイリーケが生まれるまでにかかった時間を考えると、今後のために予備が必要だ。
「どのような約束があったのかは、存じません。エテリンデ殿が納得していたとしても、あの若さでことの次第をすべて理解していたとは思えませんな。その辺りの事情は、もはや知るよしのないことですが」
エティコーネン子爵家は有力貴族ではないが、古くからの名家である。権力を欲する家柄ではないが、王家の信頼が厚く、当代子爵も穏健派の一角を占める人物だ。
まして、歳若いエテリンデが、国王の言葉に抗えるわけもなかっただろう。
「それすらも国王陛下の画策であると!」
ウルリーケの困惑をヘルマンの怒声が払う。メルシオールは表情をまったく崩さない。
無言の肯定。
知らなければならないとわかっていても、聞きたくはなかった。




