14.新国王アルノルト・テウデリク
「国王陛下」
窓の外に見える樹々の葉が、強い日差しを浴びて繁っている。春の終わりか、あるいは夏の訪れというべきか。
この半年の間、多忙を極めたが、いまだ落ち着く気配はない。それでも「陛下」と呼ばれて振り向くまでに、間をもつことはもうなくなった。振り向いた先にいる母親を「母上」と呼ぶことも二度とないだろう。
「王太后。なにか?」
数十年ぶりに主人が袖を通した王太后の礼装は、白絹に金糸で細かく模様が織り込まれた上にさらに刺繍が施された、いかにも重そうな衣装である。
頭上にも王太后に引き継がれてきたという、金剛石が散りばめられた金の重厚なティアラがのっている。
「喜ばしいことですわね。陛下の治世にははじめからエイリーケ・クロティルダがあり、王太子とさらなるクロティルダも生まれていらっしゃる」
王太后ゲルトルート・リヒルデは、病床の国王夫人の代理として、マーンリオ王国第一の女性として務めている。もっとも、それはコンラート国王の王妃であったときから変わらない彼女の称号である。
「改まってどうされました? ……おかげさまでというべきでしょうね」
新国王アルノルト・テウデリク・アウストラシアはこの年、四十二歳になる。一国の王としては若く、国内外へ向けての後ろ盾として王太后の存在は必要だ。ゲルトルートにはその荷が重いとわかっていても、ほかに頼れるものはなく、玉座を支える台とするしかない。
王太后の装いに満足し、上機嫌のゲルトルートは芝居がかった調子で身をよじった。
「いいえ、いいえ。わたくしは、コンラート陛下が即位されたときにはまだ、次代の精霊姫を生み参らせることが叶いませんでした。新しい治世にそのような憂いがないことを、心より喜んでいるだけですわ」
自信に満ちた母の顔。
それは、王統をつなぐふたつを得た、不足のない国母の矜持のつもりなのだろう。
まったく似合っていない、とアルノルトは思った。
不足がないのであれば、何故、父王はウルリーケ・クロティルダを儲けたのか。
ほかの女に子ども――しかも娘――を産ませれば、ゲルトルートが狂惑にまみれることなどわかっていたはずだ。わかっていたはずなのに、それを選んだ。
何故、エイリーケ・クロティルダがありながら、さらなる精霊姫を欲したのか。
エイリーケが生まれたとき、アルノルトは十四歳であった。十歳ですでに立太子され、次期国王としての教育が始まっていた。国王の務めを学び、マーンリオ王国の礎となる守護の証についても、それにかかわるいくつかの秘史を聞かされていた。
産後のゲルトルートを見舞うと、やつれた頬を涙で濡らしながら、強く手を掴まれた。
「今度こそきっと、精霊姫です。これでわたくしは王妃の務めを果たせましたね?」
誰に向けた言葉なのか、焦点の外れた瞳はなにを映しているのか、アルノルトは肌が粟立つのを感じたが、母の手を振り払えなかった。
あのときすでに、なにかが狂い始めていたのかもしれない。
ひと月後、エイリーケの器の検分にアルノルトも同席した。クラウディーネ・クロティルダはいった。
「エイリーケ・クロティルダ。精霊姫の器に間違いなく」
一目見て即答したクラウディーネを、コンラートは鋭く睨んだ。
「どれだけの器だ?」
「はて、精霊姫の、と申し上げましたが」
「そなたより上かと訊いておるのだ」
「……妾よりひとつ小さいかと。しかし、すでに魔力は半分溜まっております。ひと月でこれほどなら、修練を積めば十全の魔力量を得られましょう」
心配無用、とクラウディーネはつけ足した。しかし、コンラートはクラウディーネに詰め寄った。
「それで足りるというか」
コンラートは声を荒らげはしなかった。しかし、焦燥に駆られて追い詰められているようだった。
「なにを仰いますか。器に不足はありませぬ。いずれ精霊姫の御役目を果たせるよう、妾が導いて参ります」
感情のこもらない淡々としたクラウディーネの言葉は、コンラートにまったく感嘆を与えなかった。
むしろ、クラウディーネが肯定するほど、コンラートは疑念を強めていた。次第に声色が変わる。
「そなたは、なにひとつもたらさぬな」
吐き捨てられた慨嘆に、クラウディーネは頭を下げた。アルノルトはその肩口が小刻みに震えていることに気がついた。
「……力及ばず、申し訳ございませぬ」
「ふん、その器より小さいものが不足ないなどと、よくいえたものだな」
怒声を残してコンラートは部屋を出ていった。
顔を上げたクラウディーネの表情は変わらなかったが、わずかに口の端がゆるんでいた。
「精霊姫ですわね! エイリーケは精霊姫!」
部屋の中に、ゲルトルートの調子の外れた声が響いた。
ゲルトルートによって大切に育てられたエイリーケは、十歳で精霊殿に入り、よく務め、並の精霊術士なら逃げ出すほどの修練を積んだ。
アルノルトには、幼い妹がそれを自ら求めているようには思えなかったが、エイリーケは不平や弱音を一切吐かなかった。
あるとき、精霊殿を訪れたアルノルトにクラウディーネが声をかけた。
「王太子殿下。エイリーケは、殿下の精霊姫として、充分な修練を積んでおりますよ」
「……叔母上はエイリーケの器にに不足はない、と仰いましたね?」
「その通りになっております」
「ならば、何故父上は……」
ちょうどその頃、ウルリーケが生まれ、ゲルトルートが夫の不実を責め立てていた。
形ばかりの謝罪を、それでも受け入れざるを得ない母を憐れに思っていた。
そのような中で、クラウディーネは、ウルリーケにもクロティルダの名を与えたのだ。
「国王陛下は、国を案じておられるのです。それは妾の力不足ゆえ。ですが、エイリーケは器が小さくとも、持って生まれた資質と修練によって、妾と同じだけの魔力を使えるようになっております。どつか、王太子殿下はご安心くださいませ」
「叔母上は、我が国を案じてはおられないのですか?」
いつも通り、感情が一切現れないクラウディーネの口もとが微かにゆるんだ。
「マーンリオは安泰である、と申し上げても陛下の憂慮は軽くならないのです。妾の力不足ゆえに」
「まさか」
「陛下は常に最善のさらに上を求めておられる」
「叔母上のお言葉は『大地の精霊』の加護。疑う余地などありますまい」
「まあ」
アルノルトが、声をあげて明確に笑うクラウディーネを見たのはそのときがはじめてのことで、一度きりであった。
「王太子殿下がそのようにお考えなら、殿下は『大地の精霊』の祝福を得られましょう。人の身にできることなど、精霊の理の前では真夏の朝露のようなもの。何の力にもなりませぬ。精霊の守護を頼ることこそが、安寧の道」
それぞれに弧を描く目と口が、確かに笑っているように見えるのに、アルノルトの背には冷たいものが流れた。
この不安はどこからくるのか。
あの日のクラウディーネの笑みが、アルノルトの脳裏に焼きついて離れない。
「陛下?」
「……ああ、いや。今日のことを考えていたのですよ」
「ようやく、戴冠式を迎えられますものね。賓客もほとんど到着されたようですわ」
戴冠式が終われば、近隣の王族や国内外の有力貴族を招いて晩餐会が開かれる。彼らに新国王の立ち居振る舞いを侮られてはならない。
「参りましょう、陛下。精霊殿でエイリーケが待機しております」
『大地の精霊殿』で戴冠の儀式を執り行うのは、精霊姫エイリーケ・クロティルダである。
儀式は秘して行われる。精霊姫によって王冠を授けられた国王は王城へ移動し、バルコニーから国民に姿を見せる。その後、晩餐会がはじまるが、会場に王妹の席はない。
アルノルトを玉座に導いた者は、表には決して現れてはならないのだから。




