11.『大地の精霊の守護』
ヘルマンはそれが目に入ったとき、一度は目を逸らした。しかし、ふと違和感を覚えて視線を戻すと、なにも書かれていない背表紙に手を伸ばした。
「なにかあった?」
目の端でヘルマンの動きを追っていたウルリーケは、顔を上げて声をかけた。
禁書庫の書架に収められている書物は、整頓されているように見えて、内容については脈絡なく並んでいる。
分類もされていないし、そもそも、誰が書いたのかもわからないものばかりだ。
それ以外にも、題名の書かれていない書物はいくつもあった。ヘルマンが違和感を覚えたのは、魔力を感じなかったからだ。
「ウルリーケ様、これには封印がされていません」
取り出した書物をウルリーケに渡して、ヘルマンは隣に腰をおろした。
「本当ね。これまでに読んだものは、すべて封印の魔法がかけられていたのに」
濃い茶色の表紙にも、なにも書かれていない。いかにも古びたそれをウルリーケが慎重に開き、ヘルマンは横からのぞき込んだ。
最初の頁には表題らしい文字が並んでいた。
『大地の精霊の守護』
――原初の王は『大地の精霊の守護』を引き渡した。アウストラシアは『大地の精霊の守護』を与えられ、正しく王座を得た。故にこれは簒奪にあらず。マーンリオの正統はアウストラシアに引き継がれるものであり、これより『大地の精霊の守護』はアウストラシアが守り継ぐ責を負う。マーンリオの守護は『大地の精霊』、その大いなる加護により、この地には空の石が……――
「あら、これは」
ウルリーケは立ち上がり、読み終わった書物の山の中から一冊を引き抜いた。上の何冊かが崩れたが、隣の山に移って収まったので、そのままにしてヘルマンのもとへ戻った。
ウルリーケが手に取った書物は、表紙にも背にも『アウストラシアの登極』と文字が刻まれていた。
開いた頁には、先程とまったく同じ文章が綴られている。
「同じですね」
「でも、こちらは封印の魔法がかけてあったわ。それに厚みが違うわ」
『アウストラシアの登極』は、ヘルマンが取り出した書物の半分ほどの厚みしかない。頁をめくり、双方を照らし合わせる。
「ここまでね。『アウストラシアの登極』の最後までとまったく同じ内容だわ。そうよ、はじめの頃に読んだけれど、禁書庫に入れなければならないようなことは書かれていないのに、と思ったから、覚えていたのよ」
「そうすると、こちらの続きは……わっ」
新たな頁をめくろうとしたヘルマンは、弾かれて手を離す。
「ここから先が封じられていますね」
赤くなったヘルマンの指をウルリーケが癒す。
「途中から? 表紙を触ったときにはなにも感じなかったのに。これほど細かな条件の封印ができるものなのね」
綴じられた頁は、ウルリーケが意思をもって触れると樺色の魔力を奪った。
開いた頁には丁寧な手書きの文字が続いていた。
――大地はすべての生き物の拠って立つところ。緑を守り、生き物を育み、その恵みが人びとを生かす。
土には歴史が記憶され、新たな時が刻まれていく。『大地』は時を司る。『大地の精霊の守護』は、大地に刻まれる時を手繰り寄せる。
マーンリオの地は『大地の精霊』を守護精霊に戴く。『大地の精霊の守護』の証を最初に与えられたのは、アスカーニエン家である。それは女王とその後継者によって、長く引き継がれてきた。
王女エウステーレは、女王オイゲーニエがその臣下に剣を向けられるときを予見し、これを防いだ。エウステーレは女王となった後、もっとも長い治世を守った。
女王ウィシガルドは、大地が怒りに震えるときを知り、これを阻むために命を賭した。民はウィシガルドの献身を讃え、アスカーニエン王家への忠誠をあつくした。
女王ベルトラダは、娘である王女クロティルダの行く末を予見し、これを見届けた。
『大地の精霊の守護』は、『予見』の力である。アスカーニエン王家は代々、この力を与えられた精霊の愛し子を立てて女王とした。
王女クロティルダは精霊の愛し子として生まれた。王女クロティルダは次代の女王として、『大地の精霊の守護』を得ていた。
キルデベルト・エリマール・アウストラシアは、アンティリアより移入した。彼の地では侯爵位を得ており、マーンリオにおいても同じ地位にて遇された。
キルデベルトはクロティルダの王配となり、信任を得て、マーンリオの王権を共に支える誓いにより、女王の共同統治者として立った。
しかしながら、その後、クロティルダを『大地の精霊の守護』をもつ精霊姫として、キルデベルト王によりアウストラシア朝が開かれた。
精霊姫は『予見』をもってキルデベルト王を守り、次代の精霊姫を生んだ。
これより、アウストラシアに生まれし精霊の愛し子は、クロティルダの名を与えられる。精霊姫は大地の精霊殿において、精霊に祈りを捧げ、その祈りに与うる『予見』をもってマーンリオを守る。
精霊姫は、アウストラシアの『大地の精霊の守護』の証である。アスカーニエンの血を引く精霊姫が、アウストラシアに生まれる限り、マーンリオの守護はアウストラシアに委ねられる。
ゆえに、アウストラシアは次代の王と、精霊姫をともに儲けねばならない。
精霊姫は、マーンリオの守護のために、生涯アウストラシアの王女としての責を負う。
これは、アスカーニエンとアウストラシアの約定により、王権が正当に引き渡された証左である――
先に読み終えたはずのウルリーケは、黙ったままだ。ヘルマンは、最後まで読むと手を組んで指を動かした。
「……国史では、アスカーニエンの魔力が弱まり、国が荒れたためにアウストラシアに『大地の精霊の守護』が移ったと学びました。『アウストラシアの登極』に書かれていた通りです。しかし、これは」
困惑するヘルマンが隣のウルリーケを見ると、彼女の白皙の頬からは血の気が引いている。
「ウルリーケ様!」
細かく震える手に己のそれを重ねて治めようとするが、役に立たない。
「……クロティルダ。わたくしにクロティルダという祖名をつけたのは、誰なの? 『予見』、予見の力、そのようなもの、知らないわ!」
「ウルリーケ様。落ち着いてください」
冷たくなった白い手を強く握り、呼びかける。顔を上げたウルリーケは首を振る。樺色の瞳が、涙を湛える。
「これがエイリーケ様が仰った、わたくしに必要なものなの?」
ヘルマンは知らない。それでも、いくつかの事実が、ひとつの答えを示している。
ウルリーケの祖名。王城から出ることを許されない王女。精霊術師の姿のエイリーケ。同じであったというクラウディーネ。彼女らも精霊殿に隠されていたのだとしたら。
ヘルマンはウルリーケの二の腕を引き寄せて、肩をゆっくりとなでた。
「わたくしに特別な力はないわ。本当にわからないのよ」
細い肩を厚い手で覆い、なだめる。
「知っています。ただ、ウルリーケ様は王族の大きな器を持っておられます。貴女を王城に閉じ込めている人たちは、これに書かれていることを知っている。そして、その中には貴女の祖名をつけた人物がいるはずです」
ウルリーケは大きく息を吸って、冷静を取り戻すように努める。しかし、心臓の音が耳の中で大きく響き、ヘルマンの声がまだ遠くに聞こえる。
「慎重に考えましょう。ウルリーケ様の祖名の件は、ひとまずおいても、ほかが事実なら今の王家にとって、相当に不都合な内容です。正統の信頼が崩れかねません」
『アウストラシアの登極』にわざわざ『簒奪にあらず』と書いてあったのは、後ろめたい事情を認知していたからか。
女王となるはずであったクロティルダ王女が、夫に王権を譲り渡したのはなぜか。ベルトラダ女王は、なにを『予見』し、見届けたのか。
まだわからないことが多すぎる。
しかし、今はウルリーケを落ち着かせなければならない。
「今日のところは、ひとまず帰りましょう。コジマにも相談したほうがいいでしょう」
手を取ったヘルマンをウルリーケは制した。
「まって。最後の頁がおかしい」
ほかの頁よりも厚みがあるように見えた終わりの一枚が、再び樺色の魔力を奪った。
ウルリーケの魔力が吸い取られて消えると、濃い琥珀色の光が飛び散った。
魔力によって塗り潰されていた最終頁に、文字が浮かび上がる。
そこに書かれていたのは、数十代にわたる精霊姫の系譜であった。
初代クロティルダからはじまり、すべてクロティルダの祖名をもつ名が、ずらりと並んでいる。名前の右には五つの丸が書かれているが、それらはまばらに塗り潰されていた。
最後の行には「ウルリーケ・クロティルダ」とある。ひとつ上の「エイリーケ・クロティルダ」と同じ筆跡だった。
さらにひとつ上の行には異なる筆跡で「クラウディーネ・クロティルダ」の名がある。
クラウディーネの隣の丸は四つ塗り潰されている。エイリーケとウルリーケのそれは、どちらも三つであった。




