01. 竜の棲む里を出て
前話のあらすじ:
~こんなことになっている……かも~
ガーベラと洞窟にて。
「……主殿。妾はもう限界だ!」
「ガーベラ……」
「妾は、もう……!」
きちきちきちきち。
みしみしみしみし……!
「お、おい。なんか、洞窟の壁から不吉な音が……待っ、ちょ……うわぁああああ!?」
大惨事。
※これはフィクションです。本編とはなんの関わりもありません。
というわけで(?)、新章スタートとなります。
よろしくお願いしますー。
1
樹海北域五国のひとつ、アケル北部と帝国領南部を隔てる『昏き森』のなか。
過去の勇者の忘れ形見である竜の一族が隠れ住む『竜淵の里』は、巨大なドームのように里を覆う『霧の結界』に包まれている。
おれたちは、結界の境界線にいた。
すでに周囲は、薄らとした霧に包まれている。
里から外に歩を進めるにつれて、この霧は濃くなっていき、すぐにでも白い霧にすべてが閉ざされてしまうだろう。
「……」
赤毛の少女は足をとめると振り返り、水柱を吹き上げる湖をじっと見詰めた。
気の強い顔には、むっつりとした表情が張り付いている。
ただ、パスが繋がっているおれには、それが少女の内心の不機嫌さではなく、どんな表情をすればいいかわからない不器用さの表れであることがわかった。
大きく曲げられていた唇が、開いた。
「……行く」
赤褐色の瞳が、こちらを向いた。
「もういいのか?」
「ん」
赤毛を揺らして、ロビビアは頷いた。
三日間、滞在した竜淵の里から、今日、おれたちは出立する。
隠れ里である以上、みだりにこの地を訪れることは許されない。
ロビビアにしてみれば、次にいつ帰ってこられるかわからない故郷であり、家族たちだ。
たとえ嫌な思い出ばかりの場所だとしても、心中には複雑なものがあるだろう。
けれど、ロビビアが名残を惜しんでいたのは、ほんの数秒のことだった。
半ば強がりだとしても、ここで堪えられる彼女は、やっぱり芯が強い女の子だ。
おれは、健気な少女の頭を撫でた。
と、ぺしっとその手を叩かれた。
普段通りのやりとりだった。
「元気そうで安心した」
笑いながらおれが言うと、ロビビアはそっぽを向いた。
「孝弘が……」
「ん?」
「……孝弘が、いつか里の奴らに会えるかもしれねーっつったんじゃん」
小さな声で、噛みつくように言う。
「だから、落ち込んだりしねーよ」
言いながら、赤褐色の瞳が向けられたのは、湖にぽつんと浮かぶ島だった。
島の中央には、ごつごつとした小さな山があった。
その山が、身を起こしてこちらを見ていた。
「……マルヴィナ」
体長五十メートルにもなろうという巨大な竜。
彼女こそが、竜の一族のすべての母である、甲殻竜マルヴィナだ。
小山のような彼女の巨体は、この距離でも十分に見て取ることができた。
向こうから、すでに霧のなかにいるこちらのことは、見えているのだろうか。
わからないが、このタイミングで身を起こしたということは、そういうことなのだろう。
結局、ロビビアとは喧嘩別れになってしまったけれど、お互いに母娘の情がないわけではない。
母の姿を見詰めるロビビアは、いつか仲直りができる日のことを思っているのかもしれなかった。
そんなロビビアに、彼女と同じ赤毛の女性がふたり近付いた。
ロビビアの姉である、キャスとエラだった。
ふたりは、甲殻竜の一族を代表して、この場に見送りに来ていた。
「ロビビア。これは、みんなから」
「父様の故郷で作られていたお守りよ。あなたの前途に、幸福があるように」
ロビビアの首にかけられたのは、彼女たちがしているのと同じ、木彫りの首飾りだった。
里長であるマルヴィナの決定とはいえ、一族には、まだロビビアが里を出ることに反対の者も多いと聞いている。
実際、この場に来ているエラもそのひとりだ。
それでも、いざ里を出ると決まってしまえば、末の妹の身を案じずにはいられないのだろう。
「キャス。エラ……」
一瞬だけ、言葉に詰まったように見えたロビビアは、ぷいっと他所を向いた。
「……元気で」
赤い顔で、ぼそりと言ったのが、限界だったのだろう。
長い赤毛を翻して、早足で歩き出したロビビアのことを、リリィが追っていく。
おれは苦笑を漏らしつつ、竜淵の里のふたりに頭を下げた。
「世話になったな」
「いえ。旅のご無事をお祈りしておりますわ、『霧の仮宿』の契約者様」
「孝弘様。ロビビアをどうか、よろしくお願いいたします」
ふたりとは、ここでお別れだ。
来たときには案内人であるキャスが一緒だったが、ディオスピロの町に帰るのは、サディアスだけが同行することになっている。
「もしも人間の世界に限界を感じたら、お越しください。歓迎すると、長よりの伝言です」
「……ありがとうございます」
少し声を落として、エラから伝えられた言葉に頷く。
マルヴィナの好意は、本当にありがたいものだった。
これから先、最後の逃げ場になってくれるという彼女のお陰で、おれたちはリスクを過剰に恐れることなく、行動することが可能になるのだから。
踵を返したところで、おれは足をとめた。
薄い霧を掻き分けて、身長二メートル半を超える岩の如き大男がこちらに歩いてきていた。
「レックス……?」
ロビビアの兄のひとりであり、竜の一族のなかで最も人間を毛嫌いしている男だった。
その強面には、お世辞にも友好的とは言い難い感情が表れている。
以前、里を訪れたおれたちを、力尽くで追い出そうとしたこともある相手だ。
近くに残っていたガーベラたちが、警戒する様子を見せた。
「なにか用か?」
手を挙げてみんなを抑えておいて、おれは尋ねた。
「……話がある、人間」
絞り出すような声には、嫌悪感がありありと現れていた。
おれを見据える眼差しは、この場でいきなり竜に姿を変えて、噛み付いてきてもおかしくないのではないかというくらい剣呑なものだ。
ますます高まる緊張感のなか、その口が開かれた。
「里の守護者であるおれは、ここを離れるわけにはいかん」
「……」
「パトリシアのことを頼む」
苦虫を何匹口のなかに放り込んだのかという、口調に表情だった。
沈黙があり、それは女性の笑い声で破られた。
「なぁに、レックス? それは」
ぷっと噴き出したのは、エラだった。
レックスにとって姉に当たる彼女は容赦ない。
歳が近いらしいサディアスとキャスも、口許を緩めていた。
おれはさすがに笑うことはしなかったが、レックスの表情と台詞との間にあるギャップには、確かにちょっとおかしなものを感じた。
生温かくなった空気のなか、レックスはごつい顔をわずかに赤く染めている。
それでも、こちらを見下ろす視線を外すことはなく、表情はどこまでも真剣なものだった。
であれば、おれもそれ相応のものを返さなければならない。
居住まいを正し、強烈な眼光を正面から受け止めると、応えた。
「おれにとっても、ロビビアは大事な子だ。力の限り、守る」
「……」
数秒、おれと言う存在を見定めるように時間を置いてから、レックスは素っ気ない口調で返した。
「あいつの名前は、パトリシアだ。妙な名で呼ぶな」
頑固な言葉に、おれは思わず苦笑を漏らした。
結局、最後までこの男は、ロビビアをその名で呼ばなかった。
どうしようもないわからず屋であることは、違いない。
ただ、彼が末の妹を、彼なりに大事にしていることもまた、間違いがないことだった。
と、そのとき、レックスの頭で、ばかぁんと音がした。
すごい勢いで飛んできた背嚢が、レックスの岩のような顔面を横から打ったのだ。
「馬鹿野郎、レックス――ッ!」
ロビビアの怒鳴り声が届いた。
「なに言って……というか、言わせてんだ! つーか、おれは、ロビビアだっつってんだろーが!」
おれたちの会話は声を潜めていたわけでもないので、どうやら聞こえていたらしい。
顔を真っ赤にして地団太を踏むロビビアを横目で見て、レックスは地面に落ちた背嚢を拾い上げた。
土を払ってから、こちらに差し出してくる。
「……頼んだ」
「ああ」
しっかりと受け取って、おれは竜淵の里を出た。
◆5章プロローグということで短めです。
もう一回更新します。