37. 失われるもの/失われぬもの
前話のあらすじ:
あやめ、お姉ちゃんの立ち位置危うし!
(最初からあったかどうかはまた別のお話)
37
――ノックの音で、目が覚めた。
旅の疲れが出たのだろうか。
どうやらうたた寝をしていたらしい。
「孝弘!」
ベッドの上で不明瞭な呻き声をあげていると、名前を呼ばれた。
間隔を空けつつ、ノックの音は続いている。
頭を押さえながら、おれは身を起こした。
体の横で突いた手の下に、ぴんと張ったシーツの感触。
旅先での余所余所しい匂い。
視界に映る見慣れない部屋に、他に人の姿はない。
「……」
なんとはなしに、違和感を覚えた。
が、とにかく、いまは呼ばれている。
考えるのは、あとだ。
「孝弘? 寝てんの?」
「……ああ。ごめん。いま、行く」
応じて、部屋の出入り口に向かった。
「……」
片開きの、割と年季の入った木製の扉があった。
扉の鍵は閉まっている――サムターン錠を回して、扉を開けた。
「遅いって」
「悪い」
弟が、むすっとした顔をして立っていた。
「お前、風呂に行ってたんじゃなかったのか。鍵はどうした?」
「母さんが持ってる。まだ風呂から出てこない」
「ああ、長いからな」
「父さんに財布取ってきてくれって頼まれたんだけど」
「財布? どこかにあったか……?」
話をしながら、部屋のなかに戻った。
この長期休暇で訪れたペンションの部屋は、ファミリー向けで広々としている。
四月からはおれも中学三年生になり、受験も視野に入って忙しくなるだろうからその前に……と、旅行好きの両親が連れてきてくれた場所だった。
雰囲気がよく、温泉にも入れて、割と人気の宿らしい。
家族の思い出作りとして、なかなか悪くないチョイスと言える。
おれ自身、自分の知らない場所を訪れるのは好きなほうなので、十分に楽しめていた。
「そうだ。孝弘は風呂行かないの?」
財布を探し当てたところで、弟に風呂に誘われた。
「そうだな」
夕食を摂ったら疲れが出たのか眠くなってしまい、部屋でゆっくりしていたのだが、うたた寝しているうちに、余計な眠気は抜けていた。
夕飯を食べる前に汗は流したが、こういうのはイベントごとだ。
もう一度、弟と一緒に風呂に行くのも悪くない。
おれは、弟と肩を並べて部屋を出た。
廊下の窓からは、山の景色が見えた。
照明のオレンジ色の暖かな光を、雪が照り返している。
どこか胸に沁みるような、不思議な感慨を抱かせる光景だった。
「ここ、確か風呂が三箇所あるんだよな。全部回ったのか?」
「んー、いや。まだ露天風呂は行ってない」
「行ってみるか?」
「寒いからなぁ。……なんか、滝みたいに上からお湯が落ちてくる風呂があったけど」
「ああ。じゃあ、そっちにするか」
話をしながら、おれたちは廊下を歩いた。
来年度から弟が通うことになる、おれの通っている中学のこと。
流行りのゲームや漫画のこと。
土産物のこと。
話すことはいくらでもあった。
どれだけ話しても足りないくらいだった。
……現実には、どうしたって話すことのできない相手なのだから、話が尽きないのも当然のことだったかもしれない。
どれだけ歩いただろうか。
気付けば、あたりは暗くなっていた。
窓の外のオレンジ色の明かりも、もう見えない。
それで、これが夢で、時間切れで……これまで何度か繰り返してきた、永遠のお別れなのだと気付いた。
***
――ノックの音で、目が覚めた。
「あら。旦那様、起きた?」
寝転がるおれのすぐ隣に座っていたサルビアが声をかけてくる。
どうやら寝ている間、傍にいてくれたらしい。
「ぁあ……うん」
返事は、かすれた小さいものになった。
身じろぎをすると、体の下にある目の粗い布地の感触が手足にこすれる。
かなり深く寝入っていたらしい。
どうにも頭に血が足りていない感覚があり、こめかみに疼痛がうずくまっていた。
「あれ? 孝弘、寝てんのかな?」
扉一枚挟んで、くぐもったロビビアの声が聞こえた。
「悪いが、サルビア……出てくれるか」
「はいはい」
大きな声を出す気になれず、サルビアに応対を任せる。
「はい。どうぞ」
サルビアの声を聞きながら、おれは痛むこめかみに手をやった。
「……」
前にも、こんなことがあったような気がした。
けれど、思い出せなかった。
既視感は、あくまでも既視感でしかなかった。
ひょっとしたら本当に、以前になにか似たようなことがあったのかもしれないが、少なくとも、思い当たる節はなかった。
綺麗さっぱり。
なにひとつ。
……こうして、正体不明の既視感に囚われることは、これまでにもたまにあった。
そのたびに、思い出せないことに対する独特の気持ち悪さを覚えた。
とはいえ、考えていてどうにかなるものでもない。
痛む頭を押さえつつも、おれは身を起こした。
「……なんだ、みんなして」
やってきたのは、リリィ、ローズ、加藤さん、ロビビアの四人だった。
誰もが神妙な顔をしていた。
そのなかで、リリィが一歩進み出て、ベッドに座るおれの正面に立った。
……いや、違う。
目の前の彼女は、リリィではなかった。
容姿や物腰が、微妙にリリィとは違っていた。
「真島くん」
「……水島さん?」
驚きは、それほど大きなものではなかった。
おれには、『霧の仮宿』での記憶があったからだ。
だから、疑問はむしろ、こうして彼女が出てきた理由にあった。
気持ちに整理をつけて、出てくることに決めたにしては、彼女はあまりにも張り詰めた表情をしていた。
「一年生の初めの頃にあった、星空の観察会のことを覚えてる?」
真摯に張り詰めた無表情で、水島さんは尋ねた。
「なんの話だ?」
訝しさに眉をひそめつつ、おれは要領を得ない返事をした。
その反応こそが、雄弁な返答であることを知らないままに。
そして、おれは真実を知らされた。
***
「記憶障害……か」
話を聞き終えて、おれはひとつ頷いた。
ひょっとすると、ここでおれが反論することを、みんな期待していたのかもしれない。
そんな空気があった。
残念ながら、おれにはその期待に応えることはできそうになかった。
確かに、水島さんの言う通り、おれのなかに高校の一年生のときに参加したという行事の記憶はなかったからだ。
ぽっかりと、失われてしまっていた。
あまりにも綺麗になくなってしまったために、喪失の事実にさえ気付けないほどに。
「あまり驚かないんだ?」
おれの反応を見て、水島さんは怪訝そうな顔をした。
「ひょっとして、気付いてた?」
「いや」
かぶりを振った。
「それなりに、ショックではある……と、思う。ただ、それくらいのことがあってもおかしくはないだろうと、覚悟はしていたからな」
知らされた事実に衝撃を受けていないわけではないが、動揺を表には出さずに済んでいた。
もっとも、内面で処理できる程度に衝撃が小さかったと、言い換えることもできるかもしれないが……。
「シランに事前に異変を教えてもらえていたのがよかったんだろうな。あとは、うん。実感があまりないというのもあるかもしれない」
おれは、自分の内側に意識を向けた。
「それに……そうだな。そんな酷いことにはならないだろう、と思えるのもある」
「それは、どういうことですか?」
ローズが尋ねてくる。
「ご主人様が記憶を失っていらっしゃるのなら、それは由々しき事態です。早急に対策を練らねばなりません。そうでなければ、いずれは……」
言いづらそうに、一度、言葉を詰まらせる。
「……いずれは、自分が何者かさえわからなくなってしまうことさえあるのでは?」
「安心しろ。それはない」
おれが断言すると、ローズは驚いた様子を見せた。
代わりに、水島さんが口を開いた。
「どうして、そう言い切れるの?」
「基本的に、おれたち転移者の力は『願い』を元にしているからだ」
「……?」
不心得顔の水島さんに、説明をする。
「『願い』を元に得た『力』である以上、最低限、『願い』の部分は保証されると考えていい。実際、マルヴィナの旦那さんだって、『竜になるために人間の感覚を失った』けど、『竜と一緒に生きる』ことに支障は出ていなかった。まあ、当然だな。そんなことになったら、本末転倒だ」
「……それは、そうかもしれないけど」
「だったら、それと同じことが、おれにも言える。おれの力は、リリィたちと一緒に生きていくためのものだ。そこに、支障は出ない」
おれは、軽く肩をすくめた。
「まあ、そんな理屈は理屈として、結局のところ、これは自分の能力だからな。肝心なところは、自分でわかる」
多分、無意識のところで、おれは自分の状態を把握していた。
事実を知らされたいまも、驚きよりも納得が先に立った。
こうして落ち着いていられる理由のいくらかは、そのあたりにもあるのだろう。
「シランに指摘された通り、おれの魂のかたちは、確かに変わってしまっているんだろう。人間としての部分は、かなり目減りしてしまっている。結果、その機能も失われてしまっていて……記憶がなくなったのだって、きっとそういうことなんだろうな」
おれはもう、純粋な人間ではない。
いまは、まだ人間だと言えるだろうが、それもいつまで続いたものか。
シランが言っていた通り、真島孝弘という存在は、モンスター寄りの『なにか』に変わってしまっているのだ。
それが、おれ自身の何パーセントに当たるのかは定かではないが……。
たとえば、純粋に人間だった頃の記憶があるのは、魂が人間としてのかたちを保っている部分なのだとすると、そこがなくなってしまえば、記憶もまた失われてしまうのが道理だろう。
あの暗い不思議な世界。
人間のカタチを保てなくなってしまった自分自身の像は、きっと、そうした事実を暗示していたのだ。
「……だけど、それなら、状況はそれほど深刻じゃない」
暗くなってしまった空気を変えるために、おれは明るい声を心掛けた。
「すでに変わってしまった部分は、もうそれ以上、変わりようがないからな。この世界に飛ばされて、おれが変わってしまったあと、この能力を得たあと……リリィたちと出会ったあとの記憶には、影響はないだろう」
それならば、リリィたちと一緒にいることに支障は出ない。
どれだけなくなっても。
どれだけ失っても。
いまのおれにとって、一番大切なものだけは失われない。
だったら、なにも問題はない。
そう言い切れる。
……言い切らなければ、ならないのだ。
みんなを安心させようと、おれは笑みを浮かべた。
「だから、本当に、おれは大丈夫……」
「なにを言ってるんですか!」
けれど、言いかけた言葉は、思わぬ声に遮られた。
「それって、先輩の元の世界での思い出がなくなってしまうってことでしょう!?」
叫んだのは、加藤さんだった。
こんなふうに、彼女に怒鳴りつけられたのは初めてのことだったので、おれは一瞬、固まってしまう。
その間に、ずんずんと近付いてきた加藤さんが、胸元に詰め寄ってきた。
おれの服の腹のあたりを掴んで、彼女は言い募る。
「先輩にとって、それはどうでもいいものなんかじゃないはずです!」
潤んで赤くなった目が、おれのことを見上げていた。
震える声が、堪えきれずに、くしゃりと歪む。
「そ、そんなふうに、なんでもないように言ってしまえるようなものじゃないでしょう……?」
「……ああ。そうか」
ぽろりと一粒、綺麗な涙がこぼれるのを見て、おれは納得した。
「加藤さんには、向こうの世界でのことを話していたんだったな……」
元の世界にいた頃のことを、おれが一番よく話していたのは、他の誰でもない加藤さんだった。
もう二度と元の世界に戻ることのできない自身の境遇について、心の整理を付けるために、お互いに話し相手を求めていた。
その相手は、同じ境遇にある彼女以外にありえなかった。
家族の話をしたことがあった。
いつか行きたいと思っていた場所のことを話しもした。
将来の夢を聞いたこともあるし、他にもいろいろな話をした。
なぜだか妙に嬉しそうに、おれの話を聞いていた加藤さんの様子を覚えている。
そんな彼女だからこそ、おれにとってそれがどれだけ大事であったのかも、よく知っているのだった。
「なにか、なにかあるはずです。失われた記憶を取り戻す方法が……なにか……」
段々と声は萎んでいった。
聡明な彼女には、きっと最初からわかっているのだ。
そんな奇跡みたいな手立てなんて、そう簡単に見付かるわけがないということに。
現実はいつだって残酷だ。
これまでも、きっとこれからも。
おれの服を掴んで、握り締められた少女の手は震えていた。
己の無力を嘆いていた。
だけど、それは間違いだ。
なぜなら、そうした彼女の想いこそが、この残酷な現実に抗う力をおれに与えてくれる、大切なもののひとつに他ならないのだから。
「ありがとう、加藤さん」
自分のことを想って泣いてくれる女の子に、おれは心からの感謝を告げた。
自らを痛めつけるように固く握られた彼女の手を、できる限り優しくほどいてやる。
その手を握って、おれは告げた。
「だけど、いいんだ。これが、おれの進むと決めた道だから」
おれは、その場の全員を振り返った。
いい機会だと思った。
ここで宣言しておくべきだろう。
これからのことを。
「みんな。聞いてくれ」
おれは、口を開いた。
◆もう一度、更新します。