18. 霧の仮宿
(注意)本日2回目の投稿です。
18
「さて、と」
話がひと段落着いたところで、『霧の仮宿』は立ち上がった。
「楽しい時間が過ぎるのは早いものね。ずいぶんと話し込んでしまったわ」
ゆるりと腕を払う。
テーブルとその上に置いてあったものが消えてなくなった。
驚く……ようなことでもないのだろう。
ここは、彼女の世界なのだから。
「そろそろ、旦那様と一緒に行く準備をしましょうか」
おれとの間を隔てるものを腕の一振りで片付けて、『霧の仮宿』はこちらに近付いてきた。
今更、警戒するわけではないが、不思議には思う。
「準備……? なにをするつもりだ?」
尋ねるおれの目の前で、『霧の仮宿』は足をとめた。
「わたしは『霧の仮宿』という魔法そのもの。こうして世界を構築している間はともかくとして、それ以外の時間は、ただこの世界を漂うだけの存在でしかないわ。わたしが旦那様と一緒に行くためには、わたしという存在を旦那様に繋ぎとめなければならないのよ」
椅子に座ったままのおれを見下ろして、にこっと笑う。
「だから、契約をしましょう」
「……契約?」
おれは、眉をひそめた。
その単語に、聞き覚えがあったからだ。
「それは、エルフが精霊とするのと同じ『契約』か?」
「ええ。基本的には、それと同じものと考えてもらっていいわ」
確認すると、返ってきたのは肯定だった。
しかし、それはむしろおれのなかの疑念を増すものでしかなかった。
「……モンスターのお前が、精霊と同じ契約を行えるっていうのか?」
声には、訝しさが滲んでいたかもしれない。
しかし、『霧の仮宿』は、なんでもないことのように頷いた。
「それはそうよ。精霊は、わたしとそう変わらない存在なんだから」
「……」
さらりと告げられた言葉に、おれは固まる。
そんなおれの反応を見た『霧の仮宿』が、不思議そうに目を丸めた。
「あら。そんなに驚くことかしら? 精霊だって、実体を持たずに魔力でできているものよ。だったら、わたしと同じものじゃない」
「それは、そうかもしれないが……」
言われてみれば、その通りではあった。
だが、どうしてもおれの口調は切れの悪いものになってしまう。
当たり前だ。
そうならないほうがどうかしていた。
「……それじゃあ、つまり、なんだ。精霊もモンスターってことか」
「まあ、そういうことになるわね」
やはりあっさりと、『霧の仮宿』は肯定した。
身構えていたというのに、おれは一瞬、息を詰めてしまった。
モンスターである『霧の仮宿』にとっては、これはなんでもない事実なのだろう。
しかし、人間やエルフにとっては、そうではない。
エルフが迫害を受けていたのは、精霊がモンスターと看做されたせいだ。
それは事実だった、ということになってしまう。
「逆に、わたしのほうが精霊だとも言えるのだけれどね。それは、捉え方の問題だもの」
淡々と事実を告げる口調で『霧の仮宿』は続けた。
首を傾げる。
「それが、どうかしたのかしら?」
「……いや。大したことじゃない」
しばしの沈黙のあとで、おれはかぶりを振った。
思わぬところで聞かされた事実に動揺してしまったが、よく考えてみれば、精霊がモンスターだったからといって、エルフがモンスターと通じていた裏切り者ということにはならない。
過去の迫害が不当なものであることに変わりはない。
そもそも、そのものモンスターを率いるおれにとって、精霊がモンスターであろうがなかろうが同じことだ。
もちろん、知ってしまった事実は吹聴できる類のものではないが、そこだけ気を付ければ十分だろう。
「話の腰を折って悪かったな。続けてくれ」
「わかったわ」
謝るおれに、『霧の仮宿』は頷く。
「といっても、具体的な方法については、シランちゃんから教わるのがいいと思う。精霊を具現化して使役するのと、感覚はそう変わらないはずだから」
「本当に、精霊と同じなんだな」
違うところといったら、『霧の仮宿』自身に確固とした自我があること。
あとは、おれがエルフではなく人間だということくらいのものだろうか。
「ただし、わたしはとても燃費が悪いから、あまりたいしたことはできないけれどね。シランちゃんみたいに、常時呼び出しておくのもやめたほうがいいと思う」
「燃費……消費魔力の問題か」
「ええ。わたし自身の魔力を使えば、そこはある程度、補助することもできるけれど……」
「わかってる。それは本来、霧の異界を創り出す魔法の構築に使うものなんだろう? お前がそれでいいなら、出てきたいときだけ出てくるかたちでかまわない」
まあ、そう簡単にハイ・モンスタークラスの力が手に入るはずもない。
シランに基礎を教わりながら、『霧の仮宿』との契約によって、いまのおれになにができるようになるのか、いろいろと試行錯誤する必要があるだろう。
大変だと思うが、少し心躍るものもある。
明日からが楽しみだった。
「しかし、使役云々の前に、まずはこの場で契約をしなければならないんだよな。契約と言われても、おれはなにをすればいいのかわからないぞ。眠っているシランを起こしてくればいいのか?」
「その必要はないわ」
くすりと笑って、『霧の仮宿』はかぶりを振った。
「旦那様は、精霊との契約についてどれくらい知っているかしら?」
「存在だけだ。詳しいことは知らない」
「だったら、そこからね。契約というのは、世界に漂う精霊を自分に固定する魔法のこと。そこでもっとも難しいのは、精霊と繋がることなの。契約に挑む者は、瞑想を通じて自らの魂を世界に解け込ませることで、彼らと同じところに行かなければならないわ」
「確か必要なものは……気高い魂と、純度の高い祈り、だったか?」
「ええ。精霊が好む純粋な魂でなければ、まず精霊と接触することはできないし、強い意志を保たなければ、世界に解けた魂が拡散して二度と元に戻らなくなってしまうわ。精霊契約が試練と呼ばれるのは、このためね」
精霊契約については、自分に関係ないこともあって、これまできちんと聞いたことがない。
なかなか興味深い話だった。
「ただし、今回はわたしがもうここにいるから、このステップは必要ないけれどね」
「なるほど。話はわかった」
おれは頷き、眉を寄せた。
「……しかし、結局、おれはどうしたらいいんだ?」
「特に、なにも」
端的に、『霧の仮宿』は答えた。
「ただ、わたしを受け入れてくれればいいわ」
「いや。くれればいい、と言われてもな……」
それは、ある意味で、具体的にどうこうしろと言われるよりも難しい要求だったかもしれない。
「……」
とりあえず、普段パスを意識するときのようにして、『霧の仮宿』を見詰めてみる。
「……ん」
すると、互いを繋ぐパスの感覚があった。
意識しなければ繋がらないのは、シラン以来のことだった。
シランと、『霧の仮宿』……共通するのは、自意識をもともと持っていたことだ。
ひょっとすると、そうした存在とはパスが繋がりづらいのかもしれない。
「わ。本当に受け入れちゃえるのね」
「できると思っていたんじゃないのか?」
「知っているのと実際に体験するのとでは違うものでしょう?」
確かにそれもそうかと納得していると、『霧の仮宿』はこちらに手を伸ばしてきた。
「少し待ってちょうだいね」
確認するように、体のあちこちを触ってくる。
触診のような手つきだった。
少しくすぐったいが、我慢する。
「……」
大人しく待っていると、不意に『霧の仮宿』が表情を引き締めた。
「どうした? なにか問題でもあったのか?」
「……旦那様」
こちらに向けられた眼差しには、少し険しいものが含まれていた。
「あなた、よく見ると、隙間があるわ」
「隙間?」
なんだそれはと首を傾げるおれに、『霧の仮宿』は答えた。
「魂に隙間があるのよ。まあ、どんな人間でも魂に一筋の瑕疵もなしとはいかないし、精霊契約では、そこをお互いの繋がりの端緒とするのだけれど……」
「だったら、いいんじゃないのか?」
実感もないし、よくわからないが、特に問題はないように思える。
しかし、『霧の仮宿』は首を横に振った。
「旦那様のは、ちょっと不自然だわ」
「と、言われてもな」
「なんでもいいわ。心当たりはないの?」
「……」
問われると、脳裏に浮かぶものがあった。
――シランを助けるために赴いた不可思議な空間。
――罅割れる自分自身の像。
――狂獣との戦いのなかで響いた、なにかが壊れるような音。
「あるのね」
おれの顔色を見たのか、パスから伝わってしまったものがあったのか、『霧の仮宿』は溜め息をついた。
「無茶をして、可愛いあの子たちに心配をかけるものじゃないわ」
「特に不具合は出ていないんだけどな。ああ、でも……昔、似たようなことをシランにも言われたよ。すごく怒られた」
「シランちゃんが……まあ、彼女ならそうでしょうね」
「ん? ああ、シランは真面目だからな」
一瞬、曖昧な言い方に首を傾げたおれは、続けて尋ねた。
「これから行う契約も、なにか問題が起こる可能性があるのか?」
「そこは安心していいわ。わたしとの契約は、ただパスを結ぶのとそう変わりないだろうから。さっきも言った通り、エルフと精霊の契約と違って、命の危険があるというわけでもないし」
「そうか」
それは、自分の能力について本能的なところで理解しているおれ自身の感覚とも、合致する見立てだった。
契約はできる。問題は生じない。
無理さえしなければ。
必要があれば躊躇うつもりはないが、いまのところ、おれが自分を損なう理由はなかった。
「それじゃ、準備もできたことだし、契約を結びましょうか」
「ああ。やってくれ」
おれが頷くのを確認して、『霧の仮宿』はこちらの右目に手をかざしてきた。
「これから同居人になるけれど、よろしくね、アサリナちゃん」
「サマー」
アサリナが見守るなか、『霧の仮宿』のかざした掌から霧が湧き出て、それがそのまま魔法陣を形成する。
展開された魔法陣が、そのまま縮小されながら、右目に近付いてくる。
反射的に目を閉じそうになるのを我慢して、おれは魔法陣を受け入れた。
「うぐ……っ」
目の奥が疼くような感覚に、小さく呻き声をあげる。
思わず右目を押さえるおれに、『霧の仮宿』は満足そうに告げた。
「契約成立よ」
――その宣言が、契機だった。
微笑む『霧の仮宿』の女性の姿が薄れて消えていく。
同時に、おれたちのいるこの建物の輪郭もぼやけ始めた。
霧の異界が解けかけているのだ。
「ご、ご主人様!?」
異変に気付いたリリィたちが階段を降りて部屋に飛び込んできたときには、『霧の仮宿』の体はほとんど霧に変わっていた。
「こ、これは……?」
困惑した様子のリリィたちは、本当の意味で、普段通りの姿をしている。
大魔法によって書き換えられていた現実が、元に戻りつつあるのだ。
「夢の時間は楽しんでもらえたかしら?」
目を白黒させるみんなに、『霧の仮宿』が笑いかけた。
「ああ、安心してね。詳しいことはあとで旦那様に訊いてもらえればいいけれど、この世界で現実になったあなたたちの望みは、それを望んだ当人しかきちんと覚えていないから」
みんなに言って、おれに向けてウィンクする。
おれが全部覚えていることは、黙っておいてくれるらしい。
まあ、そのほうがいいだろう。
どうなっているのか話を聞きたい相手もいるが、それだって、向こうから切り出してくれるのを待ったほうが自然には違いないのだから。
「あ。そうだ、旦那様」
と、そのとき、なにかを思い出した様子で、『霧の仮宿』が声をかけてきた。
もうほとんど透けてしまっている両手を、ぱんと合わせる仕草をする。
「最後に、わたしにも名前をもらえないかしら?」
期待の眼差しを向けられて、おれは少し思案した。
「……そうだな」
いつか眷属が増えたときのために、いくつか用意してあった選択肢を脳裏に思い浮かべる。
そのなかのひとつを選んで、舌に乗せた。
「サルビア、というのはどうだ?」
「サルビア。……うん、いい名前ね」
頷いた『霧の仮宿』――サルビアは、にっこりと笑った。
その姿が、空気に溶けるように消えた。
「これからよろしく、旦那様」
声だけが耳朶を撫でて、同時に建物全体が霧に変わる。
その霧さえも瞬く間に晴れていき、朝日がおれたちを照らし始めた。
こうして三日間の霧の夢は醒めて、おれは新たな眷属、『霧の仮宿』サルビアの契約者となった。
◆『霧の仮宿』のエピソードは、これで終了です。
『霧の仮宿』サルビアは、他の眷属とはちょっと違う立ち位置で、主人公に関わっていくことになると思います。お楽しみに。