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ログ・ホライズン  作者: 橙乃ままれ
供贄の黄金
60/134

060

 〈ファントムステップ〉で十メートルの距離を一気に下がったデミクァスは熱く燃え盛る吐息を肺から絞り出しながら〈レジリアンス〉でHPを自己回復する。

 戦闘は忌々しい膠着状態に陥っている。

 奥歯も砕けよと噛みしめながら、強い視線を敵に注ぐ。


 〈七なる庭園のルセアート〉の鎧が暗紫に染まっているうちはその暴虐をいなしつつダメージを与えなければならない。それは事前の情報通り、そこそこうまくいった。デミクァスを含めた近接攻撃はルセアートの強情な鎧を何度も叩き、打ちのめし、ひびを入れてやった。

 しかしそのひびが樹の枝のような模様を描いて全身に及んだルセアートは、そこからゆで卵を剥くように脱皮したのだ。

 そして中から現れたのは病院の天井のような白いルセアートだった。

 漂白されたような姿から剥がれた鎧は、足元の影と融け合い伸び上がる影の戦士たちを作り出す。ほっそりとして特徴のないシルエットに巨大な戦闘大鎌(デスサイズ)を構えた異形の戦士たちは、黒一色のせいでまるで厚みのない影絵のように見える。

 白いルセアートが放った光線をデミクァスは躱した。

 それは先程までに比べれば、気の抜けたように甘い攻撃だった。

 自己回復で再び突撃する準備はできている。

 好機と見た〈シルバーソード〉は波状攻撃を繰り返したが、影の戦士たちにはばまれた。ルセアートに比べれば射程も攻撃力も取るに足りない。しかしその数は無視できないほどにもいるのだ。いまでさえ十体は越えている。

 部隊はルセアートのおざなりな攻撃を躱しながら影の戦士たちを撃滅してゆく。

 これだけの数の敵はさすがにメイン防衛役であるあのディンクロンだけでは対処できない。いけ好かない直継を含め、総員五名の戦士職が引きつけなければならないのだ


 蜜の香りに惹かれる虫のように押し寄せる影の戦士たち。

 デミクァスはその群れに〈ワイバーンキック〉の狙いを定めた。

 前方一五〇度ほどの射界をもつこの滑空飛び蹴りは移動と攻撃を一手に賄うデミクァスの最も得意とする秘伝絶招腿法アブソリュート・ゲハイムニスである。この攻撃を放ってしまえばデミクァスは一足飛びに敵の密集地点へとたどり行ける。それは通常でいえば悪手である。ルセアートのような格上レイドボスの攻撃を回避することは難しいから、回復役などの後続を振りきってしまえばデミクァスは危地に陥るだろう。しかし眼前に黒い影はレイドエネミーであれボスではない。あのように大きな武器を振り回す敵は〈武闘家〉(マーシャル)たるデミクァスにとってむしろ与し易い相手である。


 裂帛の気合とともにデミクァスは濃緑色の流星となった。

 コロセウムの宙をまるでスノーボードで滑走するかのように渡ったデミクァスは影の戦士の胸部を突破し、砲弾に射抜かれたかのようなその身体に虎響拳タイガーエコーフィストを叩き込む。

 ビリビリと鼓膜に残響を残すレイドモブが、最後の置き土産とばかりに振り下ろす大鎌の一撃を裏拳(バックハンド)で最小限に弾き、デミクァスは右膝を自らの胸につけるような小さな構えから無影脚(シャドウレス・キック)を閃かせた。

 敵は地面に落としたスイカのように無残にはじけ飛ぶ。

 しかし影の戦士を一体倒したことにより、ルセアートはそこから発生した闇を吸い取り、やはり幾ばくかのHPを回復したようだ。

 つまり、これが一進一退の理由。

 白きルセアートはその体力を回復するのだ。

 影の戦士たちはそのための触媒であり、時間稼ぎでもある。白く生まれ変わったルセアートは、どうやら一定時間を経ることで再び攻撃のための力を回復するようだ。そして新たにその鎧を黒く染め直し、戦闘を開始したばかりのように疲れのない動きで強力な攻撃を繰り返してくる。

 その颶風に耐え切ることは決して不可能ではないが、それは相手がルセアートのみであれば話である。影の戦士たちを残していれば、黒きルセアートによってHPの大半を削られた前衛たちは大鎌による最期を迎えてしまうだろう。

 レイド部隊の体力は回復職(ヒーラー)に支えられている。しかし〈神祇官〉(ナギ)の障壁にしろ〈施療神官〉(クレ)の反応起動回復にしろ許容限界というものがある。

 〈七なる庭園のルセアート〉を相手にするだけでギリギリなのだ。

 雑魚を活かしておく余裕はない。しかし、やつらを倒せばルセアートを回復させてしまう。一時は影の戦士が二十を数え、そのせいで部隊は一時崩壊の瀬戸際まで行ったのだ。


 その状況を打開したのは忌々しいことにシロエだった。

――黒のルセアートにダメージを与えた人数と等しいだけ、影の戦士は発生する。

 その発見で〈シルバーソード〉は盛り返した。

 強力な攻撃役に攻撃をまかせ、回復役や非力なメンバーは攻撃を差し控える。そうすればルセアートが白い姿になった時、影の戦士の発生は十体前後にまで減らすことが出来る。

 後ろから指図をするばかりの臆病者(シロエ)はデミクァスにとって決して許せない復讐の相手だった。デミクァスのプライドを粉々にし、やっと作り上げた〈ブリガンティア〉という組織さえ崩壊させた。あの三人組がススキノに来さえしなければ、デミクァスたちはゆっくりとこの世界に馴染んでいけたはずなのだ。あのシロエさえこなければ。

 猫頭の剣士はまだ許せる。あの剣士はデミクァスの前に立ちふさがり剣を振るった。しかしあの臆病者は最初から最後まで、デミクァスを見さえしなかった。

 デミクァスの名前さえ覚えていない風だった。

 ススキノに再び現れたシロエの表情をデミクァスははっきりと思い出せる。あの男はデミクァスを見て、困った表情はしなかった。それはいい。シロエは強いのだろう、それはこの大規模戦闘でわかった。ならばせめて、嘲ったり、小馬鹿にした表情をすればよかったのだ。

 だがこの〈付与術師〉(クソエンク)は、「面倒くさいな」と、ただそれだけしか感情の色を浮かべなかった。

 デミクァスは我慢ならない憤怒を影の戦士に叩きつける。

 貫くような〈ライトニングストレート〉。

 その攻撃を〈ファントムステップ〉でいなし〈エリアルレイブ〉で打ち上げた隙だらけの脇腹に〈ワイバーンキック〉。吹き飛んだ背中に再び〈ワイバーンキック〉。


 シロエはデミクァスを、そういう程度だとしか認識していないのだ。

 シロエを殺さないで済ますことなどできるものかという、炎のような思いがデミクァスの肺腑を焼いた。いつの日かこの世に生まれたことを後悔するような苦痛をシロエの上にぶちまけてやると誓う。

 しかし、だがそれは、今ではない。

 悔しいが、今は能力が足りない。ここに至っては、デミクァスでさえそれを認めざるをえない。シロエとかいう男は強い。装備もそうだが、技術でさえもデミクァスを凌駕している。

 デミクァスはこの大規模戦闘に参加して、はじめはシロエを後ろから襲ってやるつもりだったのだ。その練習代わりにとモンスターをぶちのめしていた。それが気分を高揚させたのだろうと考えていた。いつもよりずっと身体が軽かったのだ。デミクァスの拳はモンスターどもを撃破した。影の戦士たちを引き裂いている今と同じように。

 レイドの空気に慣れてきたのだと思ったデミクァスは、自分の手首の周りをくるくると回る、小さな剣のアイコンに気がついた。見慣れないそのアイコンはシロエの使う〈キーンエッジ〉だった……。なんのことはない。デミクァスはあの男の強化呪文に浮かれていただけだったのだ。そんな証拠は探せばいくらでも出てきた。いつもより素早く攻撃が繋がる〈ヘイスト〉、いつもより格上の攻撃の防御を突破させる〈トゥルーガイド〉。

 まさに今と同じだ。

 デミクァスを刈り取ろうと近づいてきた影の戦士が大鎌を振り上げる。

 〈ワイバーンキック〉の硬直時間はあと半秒。僅かな差でデミクァスが受けるはずのその攻撃は、しかし発生しない。

 このゾーンの攻略が始まったばかりの頃であったなら見逃していた、あまりにもささやかなシロエの援護。〈マインドショック〉とかいっただろうか。着弾の衝撃波でモンスターの意識を朦朧とさせる呪文だ。普段相手にするようなモンスターならばともかく、このゾーンに登場するレイドモンスターに対して放心させうるその時間は一秒が良い所だろう。しかしその一秒で十分なデミクァスは〈モンキーステップ〉で敵の攻撃範囲から離脱、反転して水面を薙ぐかのような大きな回し蹴り〈ドラゴンテイルスウィング〉を放つ。

 これらデミクァスの全力の突撃や蹂躙は、全てシロエの予測の範囲内なのだ。

 今の離脱も、そのあとの回し蹴りも、デミクァスの熱闘のように見えてシロエに撃たせてもらっただけなのである。

 もちろんあの男にデミクァスのような攻撃力や体術があるわけではない。

 あの男がやったことといえばわずかに気をそらしたり、ちんけな強化呪文を操ったに過ぎない。そのような姑息なごまかしでは、強力なモンスターを倒すことは決してできないだろう。

 しかし重要なのは、シロエがデミクァスがやろうとすることを察し、気が付かれないようにその手助けができるという事実である。シロエはデミクァスの行動を完全に予測しているのだ。それが意味するところが分かる程度には、デミクァスもこの大規模戦闘で実力を伸ばしたということでもある。


(いつかぶち殺してやる)

(そのときはみんなの前でだ)

(青白いその顔を叩きのめして悔悟の涙に暮れさせてやる)

(このレイドで幻想級を手に入れて――)

(レベルを上げ、技量を磨き――)

 デミクァスは跳ねるように次々と敵を撃破した。

 彼の職〈武闘家〉は継戦能力と攻撃力を兼ね備えた戦士職である。武器攻撃職に攻撃力では及ばぬものの、HPと状態異常対処能力は比較にならないほど高い。それは、敵の群れの中に突撃しても生き残れるということであり、レイドボスの攻撃範囲内でも踏みとどまり攻撃を加え続けられるという意味でもある。デミクァスは熱く燃えるような肉体の命じるままに、突き、蹴り、なぎ払い、技の限りを尽くして攻撃をした。

 戦闘はじわじわと進行していった。

 一時は押し込まれていた勢いも、ウィリアムの熱気あふれる指令により立て直すことに成功した。前線防衛役と回復役、そして敵の弱体化保持。この縦のラインがきちんと機能すれば、そうそう容易く壊滅はしない。あとは戦闘状況に合わせ、影の戦士を排除し、ルセアート本体のHPを削ってゆけば良い。

 もちろん時間はかかる。その長い時間のなかに無数の判断があり、その全てを冷静に、丹念に、ミスなく、しかも素早く処理をしていかねばならない。大規模戦とはその行動の連続が全てなのだ。

 デミクァスは熱だった。

 デミクァスは炎だった。

 ただ目の前に現れる敵の攻撃を躱し、貫き、撃破する。

 黒きルセアートに襲いかかり、その鎧を砕こうと雷鳴の拳を振るう。

 思考は徐々に空白となり、ただ吹き出すような熱気に突き動かされるように戦いに没頭した。デミクァスは腐ったススキノにいた何時よりも、にゃん太と戦ったあの日よりも、なにも考えずにただ戦いと一体化していた。


 だから背後で上がった絶叫を聞くまで、状況が変わったことに気が付かなかったのだ。

 デミクァスを責めるのは酷だったろう。熟練のレイドのメンバーにとってさえ、それはあまりにも不意打ち過ぎた。コロセウムの東西に配置された巨大な鉄格子は今や完全に開き、そのぽっかりと開いた闇の中から、白い眼球と凍りついたひげを持つ霜の巨人〈四なる庭園のタルタウルガー〉と、生きてうねり出すコロナのような炎蛇〈三なる庭園のイブラ・ハブラ〉が現れたのだ。

 彼らはコロセウムに半歩を踏み出すなり、氷と炎の嵐を左右から放った。その目標は、ルセアートにすべての攻撃を集中させていた第四パーティー。瞬時に第四パーティーは全滅し、その余波だけでそれ以外の全部隊も莫大なダメージをこうむった。

 そのあまりに馬鹿げた光景にデミクァスは内蔵から気味の悪い液体が口中にあふれかえるのを味わった。

 あんまりだ。

 デミクァスたちはいま〈七なる庭園のルセアート〉と戦っているのだ。

 順番を守れと思った。

 ルセアートと戦い、その眷属たる影の戦士を排除し続けてきたのだ。その均衡がわずかに崩れ、敵の数がほんの少し増えただけでデミクァスたちは全滅しかかったではないか。

 せっかく順調に行き始めたところだったのに。それさえも薄氷を踏むような思いで渡る薄い可能性の道だったのに。


 そこに、〈七なる庭園のルセアート〉と同格のボスが二体。

 デミクァスにさえはっきりわかった。

 勝てない。

 戦術や戦略といった話ではない。

 そんな些細な工夫を台無しにするほど、圧倒的な戦力差。この三体と同時に戦うのならば、二十四人(フルレイド)ではなく、九十六人(レギオンレイド)が必要だ。


 耳の奥で、どこかで聞いた平板な声が聞こえた。

――もうこの世界はゲームじゃない。それは終わったんだ。君たちの時間は、終了だ。


 俺たち〈冒険者〉が戦略を練るように、奴らモンスターでさえ、自らの持ち場を離れて戦力を集中させた――デミクァスはそう思い当たった。

 デミクァスが迷宮の守護者であったのならば、真っ先に考える当然の戦術。

 力を合わせて〈冒険者〉どもを殲滅する。

 そんな当たり前が、ただ、起きた。

 そのあんまりなほどに残酷な絶望に凍りついたコロセウムの空気を、人間が出せるのかと疑うような悲鳴が引き裂く。

 映画館の壁に描かれた特大の広告にも似たサイズの顔が迫る。凍てつく巨人が身をかがめるようにして、その拳をメンバーに振り下ろしたのだ。粘液質にべたつくような音を立てて、〈召喚術師〉はコロセウムのしみとなった。

 デミクァスを安心させてきたあのカウントの声はもう聞こえない。

 雄叫びを上げて疾風のように駆けたデミクァスは、瞳を丸く開けてびっくりするばかりのシロエを突き飛ばした。シロエは三、四回転がって直継に受け止められると、霜巨人の捻くれた棍棒の範囲から外れる。

 ざまあみろ、クソ卑怯者が、とデミクァスは笑ってやった。

 代わりに左足がぐずぐずに潰されたがシロエの間抜け面を見られたから収支はプラスだ。

 殺しやがれ、ルール違反のレイドボスどもめ、デミクァスはツバを吐き捨てた。

 しかし、そんなデミクァスもシロエも、うねる身体すべてから炎の雨を降らせる炎蛇〈三なる庭園のイブラ・ハブラ〉の暴虐から逃れることはかなわなかった。ふたりだけではない。直継も、てとらも、ウィリアムも。デミクァスよりも強い、何度挑みかかっても虫けらのように叩きつぶされた、あの〈シルバーソード〉の猛者たちも。


 一瞬で水分のすべてを失い、炎の中で身を捩る苦痛の中で、攻略部隊二十四名はあっけなく全滅した。





 悪臭ただよう小屋を抜け出たクラスティはその端正な鼻のラインにわずかに歪ませた。ギルドメンバーには鉄面皮だなどと言われる彼も、〈緑小鬼〉(ゴブリン)の住処の臭気は堪えたのだろう。

 付き従った高山も途中からは目に染みて困っていたほどだ。

 不潔な藁や汚物の堆積した小屋の中に比べれば、凍りつくような冬空の下であっても、屋外のほうがよほどましである。もともと〈冒険者〉の身体は寒暖などの環境差には強い。

 それはクラスティも同じようだ。

 ひとつ肩をすくめると、もう用はないとばかりにゴブリンの住居から離れる。

 周囲には同じような、つまり地面を浅く掘り、そこに支柱を立てて周囲から屋根に相当する樹の枝や草をたっぷりと積み上げた、原始的な住まいがいくつも立ち並んでいる。〈シルヴァラック〉山中にあるゴブリン村のひとつだ。こういった村はこの辺りの山地には無数に存在する。一つ一つの村にはこのような住居が五十やそこらあり、おそらくだが三百近い〈緑小鬼〉が暮らしていたのだろう。

 今やそのほとんどはもぬけの殻である。

 三割程度はクラスティ率いるアキバ遠征軍により討伐された。

 残りの七割り程度は〈緑鬼王〉(ゴブリンキング)が君臨するという〈七つ滝城塞〉(セブンスフォール)へと結集中だと見られている。

 遠征開始からすでに一ヶ月が経過していた。

 高山三佐たち遠征軍はこの間、周辺地域を探索しゴブリンの集落の位置を確定、場合によっては襲撃を行ってきた。行軍は慎重でゆったりとしたものだった。

 これは当初から〈円卓会議〉の共通認識であったが、〈七つ滝城塞〉の攻略および〈緑鬼王〉の撃破は難しくないだろうと考えられていた。〈大災害〉という空白の期間に大繁殖を遂げたイースタルのゴブリンたちは、歴史上まれに見る規模になっている。それは〈大地人〉にとってまさに悪夢と等しい災禍だった。

 しかしその一方で、アキバの〈冒険者〉にとって〈緑小鬼〉たちは、少なくとも九〇レベルに達した戦闘系ギルドのメンバーにとって大きな脅威ではない。〈七つ滝城塞〉へと突入するレイドであるが、クラスティの言葉によれば選抜部隊数十名を突入させれば、二日以内に〈緑鬼王〉の討伐は可能であると考えているようだった。この予測に関しては、高山も同意するところである。

 そもそも今回の作戦の目的は〈緑鬼王〉の撃破ではない。

 目的はヤマト北東部に住まう〈大地人〉たちの安全確保である。そのために問題になるのは、数万に及ぶ〈緑小鬼〉そのものであって、〈緑鬼王〉の討伐を成功させたとしても、そのせいで統率をうしなった〈緑小鬼〉たちが〈シルヴァラック山地〉〉から溢れ変えるのであれば作戦は失敗だと言わざるを得ない。

 そう考えるクラスティや高山が所属する司令部は、わざとゆったりした山狩のようなことを行わせていた。いま現在〈シルヴァラック山地〉には数十の〈冒険者〉部隊が散開し、偵察や散発的な戦闘を繰り返している。

 魚を網に追い込むようなこの作戦により、〈緑小鬼〉の集落の多くは〈七つ滝城塞〉へと合流をしているのだ。彼らから見れば、それは〈冒険者〉への反抗を開始するための兵力集結であるが、高山たちからみれば作戦通りの展開にすぎない。


 高山はクラスティのあとに従い、沢の方を目指した。

 集落の内部や四方は〈D.D.D〉のメンバーたちが調査している。とはいってもこの状況では残留した〈緑小鬼〉など残ってはいないだろう。現状確認なので、誰もさほど緊張はしていない。

 クラスティと高山は、目立つ枝を切り払いながら小道をたどる。

 踏みわけられた一筋は集落の〈緑小鬼〉が水を汲みに行く獣道なのだろうが、彼らの身長は一四〇センチメートル以下である。背の高いふたりがこの道をたどると、顔の高さには生い茂った枝がかかることになり歩きづらいのだ。

 河原に抜けたふたりは吹き渡る風に目を細めた。鬱屈していた空気を振り払うような冷気を含んだ風は、高山にとって好ましいものだったが、傍らにいるギルドリーダー、クラスティの表情は優れなかった。

 その傾向は〈天秤祭〉が終わったあたりから感じていたが、だんだんとその憂悶は深くなっていっているように思える。リーゼなどはハンカチを振り絞るように心配していたが、高山はここまでその一切を放置してきた。クラスティも成人男子ではあるし、高山のような異性に心配されるのも煩わしいだろう、と考えていたからだ。

(いや、成人はあまり関係ありませんね。男性はいくつであってもデリケートですから)

 高山は職場での経験からそう考えた。

 それにクラスティとは付き合いの長い高山である。その悩みの方向性も、おおよそは察していたのだ。だから司令本部を離れ偵察に出たこのチャンスに、少しだけ話してみようかと考えた。

「ミロード?」

「ん? なにかな、高山女史」

 気がつくかどうか僅かなタイムラグでクラスティは思慮深い表情を高山に向けた。

「最近、ご気分が優れないようですね。なにかお悩みでも?」

「ふむ」

 クラスティは指先で口元を隠すようにして、考えこむ。いつものアダマンタイト鋼製ガントレットではなく、今日は薄手の革手袋(グローブ)だ。中装の鎧も、そのがっしりした体躯にはよく似合っている。見栄えの良いギルドマスターだ。これに騙される者が後を絶たないのだが、確かに運営には便利である。そんな感想を抱きながら、感じたことをまっすぐ尋ねる。

「退屈ですか?」

 クラスティはその高山を横目で見下ろすと、しばらく考えて、ごまかすように凛々しい表情をうかべ、苦笑し、諦めたかのように両手を上げた。

「困りましたね。退屈です」

「我慢してください」

「たくさん我慢して今日を迎えてるんですよ」

 高山は太い溜息をついた。

 おそらくそうだろうとは思っていたが正解だったわけだ。

 クラスティは理知的な風貌をしているし、実際の行動も合理的で的確だ。人をまとめる才覚もカリスマもある。ヤマトサーバーで最大のギルド〈D.D.D〉を立ち上げて運営した実績は誇るべきものだろう。一千七百人という人員を吸収した〈D.D.D〉は現実世界での中小企業を超えるような規模を持っている。

 しかし、そんなパブリックイメージだけがクラスティの全てではない。

 いまや〈円卓会議〉の取りまとめさえ任されているこの白皙の青年は、ひどい悪戯者で飽きっぽい性格をしているのである。


 高山を含めた古参メンバーの数人は知っている事実であるが、クラスティが〈D.D.D〉という巨大組織を作ったのは「作ったらどうなるかが見てみたかった」からだ。そもそも〈D.D.D〉はギルドではないのである。クラスティが考えた人材交流システムの一環であり、ギルドはその構成する一要素にすぎない。

 ある日クラスティは考えたらしい。

――〈エルダー・テイル〉というこのゲームは大変面白い。しかし、面白さをしゃぶりつくすのは、大勢の知己や、一緒に冒険を楽しむ仲間が必要だ。それは運営側も認識しているし、事実そういう発言も行っている。仲間を探すための様々なシステムもゲームには搭載されている。しかし、ユーザー側がそれら一切を越えるような人材交流システムを作ったら、そしてそのシステムでエンドコンテンツであるレイドを制覇したら、なんだか面白い(、、、、、、、)じゃないか?

 それが〈D.D.D〉結成の理由だ。

 つまり、その形はギルドでなくても良かったのである。ギルドシステムがたまたま〈エルダー・テイル〉に存在し、便利だったから利用しただけ。〈エルダー・テイル〉がまだゲームだった時代、〈D.D.D〉の活動の中心は音声チャットや本部のWebサイトだったが、そういったシステムを発案したのはすべてクラスティだ。定期的な幹部会やレイドの部隊分けを中心とした人材配置システムもそうである。

 彼は指揮するわけではなく「部門が勝手に活動して結果を出す」自律的な組織構築に興味があったようだ。だからこそ、これほどの強大になった〈D.D.D〉はいまでも風通しの良い組織でいられる。

 そしてそれは〈大災害〉後も続いた。クラスティは〈円卓会議〉成立を奇貨としてさらなる組織の拡大と自律を求めた。結果、クラスティの「見てみたかった」好奇心は満たされたが、彼本人が運営に関与しなければならない点は減ってゆく。

 つまりは、暇になってしまったのである。


 高山はそんな友人の気持ちをよくわかっていたし、厄介なことだとも思っていた。クラスティという男性は才能だけは溢れているが、溢れすぎて付き合いづらいタイプの男性である。余剰出力である才能はよくも悪くも、周囲に思いがけないトラブルと大騒ぎをばらまいてしまうものだ。

 クラスティが退屈を持て余すとろくな事にならない。

 彼は決して無法者ではないし合理的な人間であるため最終結果は周辺の利益になることが多いが、だが、その過程で起きる騒ぎや労働は高山たちの悩みの種である。もっともその「退屈」もレイネシアを見つけてからはそこそこ息抜きできていたように高山からは見えたのだが、それはあの少女に対する買いかぶりだったのだろうか。

(姫に押しつけるのは、筋が違いますね……)

 考え合わせてみれば申し訳なさで一杯である。


 少しは何か言葉をかけないと。そう思って沢を散策のようへ先へ進むクラスティに追いつくと、彼は身をかがめ、ごろごろとした岩を検分していた。

「どうされました?」

「いや……」

 クラスティはかがんだせいでずれた眼鏡の位置を直し、拾い上げた代物を目の前にかざす。それはおそらく、欠けた槍の穂先だった。

 渓流はそのあたりで大きな弧を描いており、深い淵の内側には子どもの拳よりも小さな石が転がった河原を抱えている。いまはあちこちに根雪が残っているが、夏であればバーベキューでもしたいような、山中の涼しげな光景だった。

 いくつかの石をつま先で蹴り転がしたクラスティは、なにかの痕跡を発見したようだった。

「ここはどうやら訓練場だったようですね」

「訓練ですか。それである程度は整地されているのですね」

 高山は素直にそう返す。

 見てみれば、木々の茂みの側まで大きな岩を移動させたような痕跡もあった。目を凝らせば石の隙間には、木片や、武具の欠片も散乱している。ずいぶん長い間、この場所は使用されたのだろう。

 〈緑小鬼〉が訓練とは今まで考えもしなかったが、戦争を企むのならあって当然だろう。とはいえ、彼らがそれで戦力を増大できたとは思わない。〈緑小鬼〉のレベルは〈冒険者〉に比べればとても低いのだ。

 そこまで考えた高山は、クラスティの視線に気づき、その真剣さを疑問に思い、次の瞬間、理解に到達した。


――ゴブリンが、戦闘訓練を行う。


 それはいままでになかった可能性だ。高山たちが〈七つ滝城塞〉のレイドをいままでとまったく異なる手法で攻略しようとしているように、〈緑小鬼〉たちもいままでとはまったく違う手法で迎撃の準備ができる。この世界は〈エルダー・テイル〉ではないのだ。何度気づけばいいのだと、高山は己の無能を罵りたい気持ちで一杯になった。

「ミロード、すぐに戻って全軍へ報告と通達を」

「訓練場所の捜索とその影響についての調査を命じなければなりませんね」

「はい」

 言葉少なく応答を交わした二人は、村へ戻ろうと来た河原の方向へと進んだ。まずは集落に戻り、斥候斑のリチョウやクーゲルと合流しなければならない。そのあとは尾根伝いに司令部へ戻って対応となるだろう。

 焦る高山は、自らの武器である折りたたみ軍用大鎌が細かく振動をしていることに気がつくのが遅れた。それはあっという間に金属的な異音を発して、赤熱したかの輝きを周囲に放つ。

「その武器を手放しなさいっ」

 クラスティが叫ぶ。

 しかしその言葉への反応が遅れた。

 この大規模戦闘で〈緑小鬼〉の血を吸うたびに切れ味をましていた高山の武器は、いまや粘り着くようにその腕に食い込み、奇怪な力場で締め付けようとしてくる。

 自由な動きが縛られつつある身体を無理にねじって、高山はクラスティへ待避要請をかけようとした。

 何か異常な事態が起きている。大鎌の振動は耳障りなほどに高鳴っていた。

 その高山の腕をまるで大型ダンプカーに激突されたかのような衝撃が襲った。瞬間に腕の骨が砕けたと確信できるほどのショックに目を丸くした高山が見たのは、「災厄」の名前を持つ自分の武器が赤く輝き、自分を突き飛ばしたクラスティがその光の渦に飲み込まれる光景だった。






 どうやら深夜の路上であるようだった。

 しかし周囲に暗闇はない。アスファルトの上には常夜灯の白い光りに照らされた影がくろぐろと伸びている。

 シロエが深夜だと判断したのはシャッターの閉まった商店街が無人だったことと、不思議なほどの静けさからだった。

 マクドナルドと携帯ショップの前を経て、花屋の看板の前を視線を上げることなく通り過ぎた。見慣れた、通い慣れた光景だ。ただなんの音もない商店街には、人の気配がない。

 シロエの歩くこの繁華街は池袋から急行で1時間弱、地元民は東京圏という言葉にこだわるマイナーな駅を中心に出来た通りである。同じ地名に北だとか南だとかをつけた駅が周辺に散在する、つまりはベッドタウンとして開発の進む郊外の都市だ。

 シロエはここで産まれて、育った。

 しかし、でっち上げたかのようにうそ臭いこの街はいつでもシロエに他人顔だった気がする。

 ニュータウンであるこの街の人口は多い。

 住むには不便がない施設が揃っている。

 とはいえその距離がクセモノで、家電や服や趣味の雑貨など、ちょっと何かを探そうと思う住民は全て都内に流れてしまうから、この街には特筆すべき商業施設がない。この商店街はこの街そのものだ。不便はないし、なんでもある。しかし何かを探し始めるとたいていは見つからない。

 小都市とも言えないような、東京の付属物のようなこの街はこの街であるための中心というものがなかった。

 シロエの両親も結婚を機にこの街へと引っ越してきたという。狭くはないが広くもない二階建ての一戸建ての住宅は、同じ通りにそっくり姉妹のような多くの家をもっている。そんな住宅街も、駅前も、わずかに残った畑も、街路樹も、日本のあらゆるところにあるようにありふれていて、普通で、そして流れ去ってゆく。

 中心を持たないこの街は守りぬくべき何かを持たないためにどんどんと移り変わっていくのだ。申し訳程度の駅ビルにも、商店街にも、老舗といえるほどの店はなく、テナントは定期的に移り変わってゆく。住民の流出入も多いためそれがかえって便利なのだろう。

 それはシロエの交友関係にも言えた。シロエには無駄としか思えないほど大きかった小学校は教室の三分の一が空いていた。設計当時はそれだけの児童を予定していたのだという。少子化の影響下、それとも市の予算の都合かはよくわからない。その小学校から中学、高校と同年代の少年や少女たちはめまぐるしく変わっていく。いまでは、それがこのニュータウンなりの新陳代謝であると判る。だが少年の頃のシロエには、なんだかあやふやで頼りなく、人や物がいつなくなってもおかしくない世界なのだと感じられていたのだ。


(そういえば……)

 ふと思いついて顔を上げる。

 茄子カレーというマイナーメニューを看板にした地元の店がこの商店街にはあったはずだ。果物屋、鞄屋、あんみつ屋のそのとなりだったっけ。高校時代、友人と何度もたむろした安っぽい、そして懐かしい店。

 胡散臭いインド人のイラストが書かれた看板は、しかし、なかった。

 一瞬困惑したシロエだったが、寂しさとともに思い出す。

 うっかり忘れていたが、インド人カレーハウスはとっくに潰れて、その後には牛丼カフェという謎の店が入り、予想通りそれも数ヶ月で潰れて、そのあとは都心部で勢力を伸ばしつつあった派手な看板のラーメンチェーンが入ったのだ。大学の長期休みには実家へ帰るシロエはそれを思い出した。

 ラーメン屋には一回入ったが胸焼けしそうな味だったので二度はいかなかったはずだ。

 潰れてしまいはしたが、シロエが続いて欲しかったのはカレー屋だった。何故か横浜弁をしゃべるイスラム系の店主はあきらかにインド人ではなかったし、出てくるカレーもインド風というよりは日本の家庭料理風であったが(というかどう考えてもバーモントカレー味だったが)、手頃な値段でびっくりするほど茄子の入ったカレーはたまに食べるごちそうであった。

(潰れちゃって残念だよな)


 溜息とともに見上げたその店舗は、黒字に赤の文字が踊る派手な屋号のラーメンチェーン――だった。シロエは立ち止まると、注意深くその店構えを観察する。シャッターには水曜休店の文字。普段はノボリがたくさん出るはずの店頭はひっそりしていて、張り出した日除けに書かれたはずの店名は、何故かぼやけて読むことが出来ない。

 シロエは人差し指でポリポリと頬を掻くと、結論を出した。

(そうか、記憶を失うというのはこんなふうになるものなんだな)

 シロエの中から、そのラーメンチェーンの名称は消えている。

「そういうこともあるか」

 あまりショックはなかった。

 こうなるということは予測していたし、そもそもこれがそんなに大きな損失だとは思えない。人の記憶は薄れ、しまった場所さえわからなくなり、鍵の壊れた宝箱の中のがらくたのように淡く消えてゆく。

 〈シルバーソード〉の面々が挑んでは倒れていった場面がよみがえる。

 大規模戦闘に挑めば自分が死ぬということくらいわかっていた。そもそもレイドは何回もの挑戦を繰り返して経験を積み、攻略方法を確立して突破するものである。対サファギンや対ゴブリンの時のように、格下を相手にしているわけではないのだから、自分を含めて犠牲は当たり前だ。

 シロエは困ったような寂しいような気持ちを味わった。

 その淡い感情はとても懐かしいものだった。

 少年時代のシロエ、白鐘恵を彩っていたメインのトーンだといってもいいだろう。

 小学校の時も、中学の時も、その後も。

 気がつけばシロエはこの気持を抱えて夜を歩いていたように思う。


 ここにははっきりと読める店名は二割もない。

 生まれ落ちてから高校までを暮らした地元の商店街なのにだ。入れ替わりの早いテナントはシロエの人生にわずかに接触しては消えていったが、おそらく、向こうから見ればシロエこそが消えていった側なのだ。わずかにふれあい、痕跡ともいえぬ痕跡を残し、消えてゆく。やがて記憶という痕跡も消え去る。

 理性的に考えれば忘却したのはシロエで、忘却されたのは商店街の店たちだ。

 にも関わらずシロエは裏切られたかのような感傷を覚えているのだ。

 その理由を探ってシロエは羞恥を感じる。

 きっと小学校の同窓生も、中学のそれも、シロエを覚えてはいないだろう。

 学校を休みがちでクラスになじまず、いつも夕暮れまで図書室に入り浸っていたような旧友は、記憶に残らなくて当然だ。シロエの側でさえ覚えてはいない過去のクラスメイトを、商店街の店に重ねていたことに気がついたシロエは自責する。

 それはとても身勝手な八つ当たりだ。

 何もかもがあるようなこの生まれ故郷に、何ひとつ残せなかったのはシロエの側なのに。


 水銀灯に照らされた無音の街路をシロエは歩いた。

 いつしか繁華街を抜けて、近代的なのに奇妙に寂れた橋を渡り、小学校へとつづく並木道へと差し掛かっていた。

 シロエの親しい友である影が地面から起き上がり、小柄な姿となってシロエの隣へやってきても不審には思わなかった。ふたりは緑の銀杏並木の下を通りぬけ、バス停のベンチの前を通り過ぎ夜の中を歩いて行った。

 動くものはシロエ一人のこの街だが、遠くの幹線道路から重量級車両の通過音がひびいてくる。遠い風の唸り声のようなそれを背景に、シロエは足元を見つめて進んだ。

 大きな公園へと差し掛かり、シロエはふと気が向いてわずかに曲がりその内部へと入った。常夜灯に照らされた公園はほの白く浮かび上がり、予想通り人影はなかった。

 魚のイラストのタイルで覆われた池は子供が水遊びできるように大きく作られていたが、今はただ水面に光を反射して身を横たえている。シロエと影はその人造池を見晴らすことができるベンチを探しだし、座った。


 つまりこれは臨死体験の一種なのだろうとシロエは結論した。

 シロエは〈シルバーソード〉とのレイド戦闘の最中死亡した。

 異界の法則に従いシロエはあの大規模戦闘ゾーンの入り口で復活するだろうが、いまはそのタイムラグであり、死という異常な経験がシロエにこの夢を見せているのだ。

 ベンチの背もたれに身を預けて天を見上げた。

 星はひとつも見えない。

(それでまたここに来ちゃったんだな)

 シロエは寂しく笑った。

 とてもたくさんの夜をシロエはこのベンチで過ごした。両親が共働きの放任家庭に育ったシロエは、市の福祉センターの職員が聞けば眉を潜めるほど幼い時から、夜の公園の常連だったのだ。

 別にここが好きだったわけではない。この場所以外に行く場所がなかっただけだ。ひとりきりで過ごす家は、ベッドの中に潜っていてもつらい気持ちが追いかけてきたし、繁華街は派手な身なりの少年や少女がいて怖かった。小学生だったシロエが嫌な気持ちを忘れるためには、脚がだるくなるほど深夜の街を歩きまわって、この公園のベンチに座りこむくらいしか、方法がなかったのだ。

 子供の頃のように胸を抑えてぎゅっと眼をつぶる程ではなかったけれど、淡い傷みはシロエは静かな確信をもたらした。どうやらまた失敗してしまったらしいぞ、という確信だ。

 昔から全く同じ場所にシロエは何度もやってきた。

 幼い時から大人びていると言われ育てられたシロエは確かに理解力もあったし子供にしては自制も出来た。でもだからこそ同年代の子供たちはシロエにとって野蛮で非合理的に見えたし、彼らから距離をおいてしまった。そしてそのことによりたくさんの間違いを犯した。

 クラスメイトの気遣いを台無しにしてしまった。

 差し伸べられた手を邪険に振り払った。

 親切を馬鹿にしてしまった。

 ふみとどまって戦わなければならない場所を投げ出してしまった。

 両親の苦労や気持ちをわかってあげることができなかった。

 どれも些細で、でも取り返しの付かない失敗だった。

 失敗のたびに幼いシロエはこのベンチで泣いたし、どうにかしようと心に誓った。あることは上手くいったし、少しは自分がましになったと思えることもあった。でもやはりどこかで失敗をして、同じように困ったような悲しいような、不良品であるかのような気持ちを抱えて、このベンチに座るのだった。


――死ぬと色々判んだよ。自分の下手くそとかセコいとことか、つまんねーとことか。百回死ねば、百回判んだよ。それが辛くて続かねえんだよ。


 ウィリアムの言葉が蘇る。

 レイドチームから離脱するというのもわかる。

 それは記憶を失うことよりも、ずっと切実で、看過できない痛苦だった。

 シロエはその意味もこの気持もよく知っていた。

 死ぬたびに何度もここへ寄越されるというのならば、シロエは生まれ育った地球のあの街で死んだことがある。

 死ぬというのがこれの事だったなら、シロエは何度だって味わっているのだ

 大切にしていたノートを捨てた夜も、友達の手を振り払った夜も、作り笑顔でいってらっしゃいといった夜も、図書館にお別れをした夜も。

 死ぬということは、つまり死にたい気持ちのことだった。

 淡く希釈されてはいても、その味をシロエは知っていた。

 今胸にあるのがそれなのだ。失敗したことではなくて、同じ失敗を何度もしてしまったことが拭い去ったはずの傷口をえぐる。何度この気持を味わっただろう? 少なくとも二度と味わいたくないと思う程度には舐めさせられた。でも、気がつけば、失敗をしてここへとやって来る。自分はこのまま何十年生きても、結局はこのベンチから一歩も離れる事ができないのではという疑いが、背中にぴったりと貼り付く影のように拭えない。

 未来というのは、未来だというくらいに長い。

 何十年だなんてシロエには理解できないくらい長い。そのわからないくらい長い時間を、何度も何度もミスを繰り返して生きていくのだろうか?


 歯を食いしばって懸命にシロエを突き飛ばしたデミクァスを思い出す。

 なんであんなことをやったのかわからない。

 シロエはデミクァスに助けられるような何かをした覚えがない。

 ああ、いいぜ。と一言で手を差し伸べてくれたウィリアム。

 あの青年がなぜシロエの手をとってくれたのかわからない。

 ウィリアムの面子を潰すようなことした記憶しかシロエにはないのに。

 シロエにはわからないことばかりだ。自分が馬鹿すぎて本当に嫌になる。


 直継にもだ。結局親友にだって隠し事を抱えたまま、シロエはここまで来てしまった。

 シロエが本当に警戒していたのはミナミなんかではないのに。シロエが警戒していたのは、ミナミの斥候なんかではない。そんな存在はすでに掴んでいる。

 シロエが怯えていたのは、三番目の誰かなのだ。

 いつの間にか握りしめていた拳を見つめ、そっとそれをほどく。


 おそらくこの世界には、シロエたち〈冒険者〉と〈大地人〉以外にも、何かがいるのだ。供贄一族がそれかと疑っていたのだが、どうやらそうではないとやっとわかった。でも、だとすれば、もっと他にその「誰か」はいるのだろう。

 リ=ガンがいうように、シロエたちが世界級の魔法で異世界に召喚されたとしよう。たまたまその異世界がシロエたちのやっていたゲームにそっくりだった。そんな都合のいいことがあるだろうか? もちろんその確率はゼロではないだろうが、他にもっとましな説明があるはずだった。

 脳波感知技術の研究はシロエの記憶している地球でだって進んでいた。脳波を取り出してカーソルを動かしたり、植物状態の人と簡単な意思疎通をしたり、最新のニュースでは、夢を映像として外部機器に取り出すなんて成果も上がっていたはずだ。それらの研究は主に医療分野ですすんでおり、数十年のうちにはエンターテイメント分野や宇宙開発にも転用されるだろう。そんな久しぶりの明るいニュースがWebを騒がせた。

 最新の研究はなかなかニュースにならないものだ。もしかしたらどこかの国家機関が行っている秘密研究で、ゲーム的な仮想体験を被験者に与えるなんてことが出来るかもしれない。その可能性は確かにあるだろう。

 でも、それを日本人数万人に同時に、となると話が違うし、馬鹿げている。シロエたちは特別な機器を装着さえしていなかったのだ。

 もう少しましな説明があるはずだ。

 シロエはこの数ヶ月感じてきた警告するような気持ちの悪さを我慢して考え続けていた。リ=ガンから〈魂魄理論〉を聞いた時のあの感触。正解に見えるその説明の、更に奥の暗がりを思考の力だけで乱暴に手探る。

 シロエは〈円卓会議〉のコネを利用してさまざまな調査を依頼した。

 ロデリックにはフレーバーテキストの可能性を。ソウジロウにはモンスターの生態変化を。ミチタカには南方植物の繁茂状況を。カラシンには〈自由都市同盟イースタル〉の民間説話の収集と整理を。

 調べるたびに豊富な証拠が発見された。それはこの世界に「三番目の誰か」なんていないという傍証だ。だからこそシロエの疑いは強まった。都合のいいタイミングで提出される「思い出したような話」は、反対側の証拠であるように思えた。


(でもそんなの、言い訳になんない。僕が手を抜いた。僕が怖がって、知るのをやめた)

 もっとデミクァスにできることはあった。ウィリアムにも。

 直継に胸の内を話すべきだった。にゃん太にだって。

 心配をかけまいとしたシロエの努力は、きっとみんなにも迷惑をかけていた。それを何度も思い知ったはずなのに、シロエは怠惰によって台無しにしたのだ。

 あの風の夜、シロエがギルドへ誘うのを待っていてくれたように、シロエの大事な人たちは、シロエをきっと待っていてくれている。

 シロエの臆病と怠惰が人を遠ざけていただけだと彼らは証明してくれたではないか。

 このベンチから立ち上がって、みんなの元へ向かおうとシロエは思った。

 それくらいでないとみんなに対して恥ずかしい。

 そして菫星に詫びなければならない。

 あの雪小屋の中で、シロエは彼を疑って言葉を惜しんだ。

 惜しんだのだ。本当はもっと全力で言葉を尽くすべきだった。シロエの信じる未来の為に、菫星を説得すべきだった。今この世界にいる人間同士として、重要な問題だと訴えかけるべきだったのだ。

 なんの確証もないが、シロエは自分を見つめている視線を感じていた。それはそもそもの最初から、そう〈大災害〉の瞬間からずっとであるように思えた。


 反動をつけて立ち上がったシロエは、その瞬間どこか聞き覚えのある声を聞いた。

 それは邂逅を予告する誰かからの囁きのようであった。


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